空と風

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天日鷲命 は、中臣の神 2

 
 
上のように『紀』では、飛来した金鵄が神武軍を助け、長髄彦との戦いを勝利に導き、結果、長髄彦の支配地の名が鵄邑(とびのむら)とも呼ばれるようになったということです。
 
長髄彦 是 邑之本号焉」と明記されており、その村の元の名は「長(ナカ)邑」だったのです。
 
阿波の南部「長の国(現・那賀郡)」が後世、「長」「中」「那珂」「那賀」「那加」などと書かれ、それぞれ「ナカ」とも「ナガ」とも呼ばれて、古代阿波人の移動と共に日本各地にその地名がコピーされて来たことは既に書いてきました。
 
長髄彦は、『古事記』では 那賀須泥毘古 また 登美能那賀須泥毘古 と表記されています。
 
頭に「登美」が付いているのは、神武天皇との戦いの後に「とみ」地名が起こったからで、本来の名は「なかすねひこ」です。
古事記ではこのように、まず地名をあげ、その後に物語を記し、このようなことがあったためその地が○○と呼ばれるようになった、と最初にあげたの地名の由来を語るというパターンが一般的です。
ところが、例によって、漢字の意味だけひろって「長い髄の彦、だから、四肢の長い即ち長身の男の意だ」などという人がいるのには悲しくなります。
 
 長髄彦は是(これ)邑(むら)の本(もと)の号(な)なり。
 
 因(よ)りて亦(また)以(も)て人の名とす。
 
この例のように、「登美」「那賀」「長」と、古代、支配者の人名に使われるのは、ほとんど地名なのです。
 
 
「金の鵄(トビ)」 である天日鷲命の別名が、「天加奈止美命」と書かれるように、トビとトミは訛りやすいのです。
日本書紀には、「ナカ」邑の地に、また「トビ」の地名が起こり、それが後に訛って「トミ」になったと書かれています。
 
これが、「那賀(ナカ)・鵄(トミ)」村であり、後の中臣氏の本貫地、現在、徳島県板野郡板野町
「富ノ谷」「中富」の地名が残る地域です。
 
このブログでは、まだ少ししか書いていませんが、もちろんこの地が、神武軍が那賀須泥毘古と戦った舞台なのです。
 
この場所に、かつて、『新鈔格勅符』に「大同元年(806)本国封二戸を定む」と書かれている
「中臣大鳥神社」がありました。
封戸を定めた記録のなかで、頭に「本国」と付けてあるのを、今のところこれ以外に見たことがありませんが、中臣氏の本国なのですからそう書いたのでしょう。
 
日本書紀に照らせば、当然御祭神は、本来、「大鳥」こと「金鵄」すなわち、天日鷲命でしょう。
ただし、この神社は今はなく、ぐーたら先生の調査によって、「大鳥神社」は倭建命を御祭神とし、明治44年、現在の亀山神社に合祀と判明しました。
 
日本各地の「大鳥神社」「大鷲神社」「鷲神社」(おおとりじんじゃ)の御祭神は、本来、天日鷲命
御祭神を倭建命とするのは、後世の混同やこじつけが多いことは既に書きました。
御祭神が不明になった場合は、人間心理で、より有名で人気の高い神を持ちだそうとするものです。

大鷲神社 (足立区)
現在の祭神日本武尊は明治以降に祭神とされた神で、
当神社に関する江戸時代の地誌には一切現れない。
 
※鷲神社 (台東区)
この神社は言い伝えによれば、古来この地に天日鷲命が祀られており、その神社に日本武尊が東征の折に戦勝を祈願したとされるが、実際は隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まるという。
 
元来の祭神は大鳥連の祖神であるらしかったが、一時期天照大神が祭神とされるようになった。
その後、日本武尊が祭神と考えられるようになり、これが定着した。
これは大鳥神社の「大鳥」という名称と日本武尊の魂が「白鳥」となって飛び立ったという神話が結び付けられたために起こった習合であると考えられる。
 
Wikipedia
 
というようなものであり、『新撰姓氏禄』には、
 
 宮処朝臣 大中臣朝臣同祖 天児屋根命之後也 大鳥連 同上
 
とあり、大鳥連は中臣氏と祖先を同じくしていました。
 
 
 
 
 此の神は阿波の忌部氏の祖神で、
 『新撰姓氏録』に神魂命五世の孫とも七世の孫とも記し※、
 『古史伝』には天手力雄命の御子ともいう。
 天日鷲翔矢(かけるや)命とも申し奉る。
 御名義、天は美称、日は奇霊のヒで、鷲は禽鳥中最も猛き鳥にして、
 その羽は古来矢をつくるのに用いられる。
 此の神思うに、弓矢を作り始めたからか、
 或いは亦、御行為猛かりしよし負わせ給える御名ならん。
 平田篤胤は、神武天皇東征の時、
 弓の弭(はず)に留まりし金色の霊鵄(れいし)は、
 此の神の化(な)りし鳥ならんという。
 
 『伊那の御祭神』
 

天日鷲命の血縁は、高御産巣日神の子、天手力男命の子、という説の他に、思金神の子(孫)という説もあることは以前書きましたが、その思金神は高御産巣日神の子といわれており、平田篤胤の説では、天児屋命(中臣氏の祖)と同一神であるとしています。
 
また、手力雄神社岐阜市蔵前)の由緒などには、天手力男命が思金神の子とされており、高御産巣日神 ー 思金神(天児屋命) ー 天手力男命天日鷲命とも考えられます。
 
ちなみに、岐阜にはもう一社手力雄神社があり、その鎮座地は各務原市那加です。
 
 

このように見てきますと、忌部の主要神である天日鷲命とは、実はその祖父(曽祖父)、高御産巣日神神武天皇のもとへ遣わした八咫烏であり、金鵄であり、賀茂建角身命であり、もとは、中臣系の祖神であったとも考えられます。
大鳥大社の御祭神である大鳥連祖神とは、天日鷲命であると私は考えます。
その正体が不明のため、さらにさかのぼって遠祖である天児屋命を御祭神としているのです。
過去に、このことに考えを巡らせた人もいたかもしれませんが、天日鷲命日本書紀の一書に「阿波忌部の祖」とあることをもって、そうならば天太玉命の血筋のはずだから、と、直ちにその可能性を頭から排除したのではないでしょうか。
しかし、忌部研究の第一人者、林博章氏も「忌部氏とは単なる血族氏族ではない」と言っています。
 
 
※『新撰姓氏録』に、神魂命五世孫、天日和志命、神魂命七世孫天日鷲命
 賀茂建角身命は、神魂命孫、鴨建津之身命、化如大烏翔飛奉導。とある。
 
 
天太玉命は、『古語拾遺』では高御産巣日神の子とされています。
もちろん戸籍謄本があるわけでもなく、後世の各氏族が権威を求めて先祖を別天神(ことあまつかみ)に求めることも考えられ、どこまで信じるに足るかは不明です。
 
しかし、忌部の太祖・天太玉命と、阿波忌部の祖・天日鷲命の直接的な血縁関係は、以前も書いたように見られません。
したがって、両神の関係は、天比理刀咩命を介した義理の兄弟。
 
そこで「忌部」氏族に組み込まれた、血族的には「中臣」にあたる武神が、天日鷲命の正体でしょう。
そしてもう一人の兄弟姉妹、天津羽々命が事代主命の本后となったことで「加茂」ともつながった。
 
それどころか、1に書いたように、三島溝杭命 = 賀茂建角身命八咫烏 = 金鵄 = 天日鷲命だったとしたら、近親の女性3人、天比理刀咩命を天太玉命に、玉櫛媛を大物主(大国主神?)に、天津羽々命を事代主命に嫁がせた実力者で、加茂氏の太祖という可能性も、ナキニシモアラズ?
 
 
整理すると、出身(高天原)、血族(天児屋根系?)、本籍(加茂)、現住所(忌部) の人物。
 
少なくともこの時代、忌部、中臣、加茂の中心にいたのが、天日鷲命です。
 
 
 
(続く)