高越神社 奥の院
忌部氏(いんべし・いみべし)とは、古代における宮廷祭祀、神事の執行、祭具の製造、神殿宮殿造営などを中心に、武具の製造、宮殿警備などにも当たってきた有力氏族です。
※ 日本書紀神代上 《第七段 一書第三》
日神の、天石窟(あまのいはや)に閉(こも)り居(ま)すに至りて、諸の神、中臣連の遠祖興台産霊(こごとむすひ)が兒天兒屋命(あまのこやねのみこと)を遣(まだ)して祈(の)ましむ。
是に、天兒屋命、天香山の真坂木(まさかき)を掘(ねこじに)して、上枝には、鏡作の遠祖天抜戸(あまのぬかと)が兒石凝戸辺(いしこりとべ)が作れる八咫鏡(やたのかがみ)を懸け、中枝には、玉作の遠祖伊奘諾尊(いざなぎのみこと)の兒天明玉(あまのあかるたま)が作れる八坂瓊(やさかに)の曲玉を懸け、下枝には粟国(あはのくに)の忌部(いみべ)の遠祖天日鷲(あまのひわし)が作(は)ける木綿を懸(とりし)でて、乃ち忌部の首(おびと)の遠祖太玉命(ふとたまのみこと)をして執り取(も)たしめて、広く厚く称辞(たたへごと)をへて祈(の)み啓(まう)さしむ。
※ 日本書紀神代下 《第九段 一書第二》
即ち紀國(きのくに)の忌部(いむべ)が遠祖(とおつおや)手置帆負神(たおきほおいのかみ)を以ちて、定めて作笠者(かさぬい)と爲す。
彦狹知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬい)と爲す。
天目一箇神(あまのまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)と爲す。
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆうつくり)と爲す。
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たまつくり)と爲す。
彦狹知神(ひこさちのかみ)を作盾者(たてぬい)と爲す。
天目一箇神(あまのまひとつのかみ)を作金者(かなだくみ)と爲す。
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を作木綿者(ゆうつくり)と爲す。
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を作玉者(たまつくり)と爲す。
※ 古語拾遺
于時、天照大神、赫怒、入于大石窟、閉磐戸而幽居焉。爾乃六合常闇、昼夜不分。群神愁迷、手足罔措。凡厥庶事、燎燭而弁。
高皇産靈神、会八十万神於天八湍河原、議奉謝之方。
爰、思兼神、深思遠慮、議曰、「宜令太玉神、率諸部神造和幣。仍、令石凝姥神【天糠戸命之子、作鏡遠祖也】取天香山銅、以鋳日像之鏡。
令長白羽神【伊勢國麻続祖。今俗、衣服謂之白羽、此縁也】種麻、以爲青和幣。【古語、爾伎弖】
高皇産靈神、会八十万神於天八湍河原、議奉謝之方。
爰、思兼神、深思遠慮、議曰、「宜令太玉神、率諸部神造和幣。仍、令石凝姥神【天糠戸命之子、作鏡遠祖也】取天香山銅、以鋳日像之鏡。
令長白羽神【伊勢國麻続祖。今俗、衣服謂之白羽、此縁也】種麻、以爲青和幣。【古語、爾伎弖】
令天日鷲神與津咋見神穀木種殖之、以作白和幣。【是木綿也、巳上二物、一夜蕃茂也】
令天羽槌雄神【倭文遠祖也】織文布。令天棚機姫神織神衣。所謂和衣。【古語、爾伎多倍】令櫛明玉神作八坂瓊襲五百筒御統玉。
令手置帆負・彦狹知二神以天御量【大小斤雑器等之名】伐大峡小峡之材、而造瑞殿、【古語、美豆能美阿良可】兼作御笠及矛・盾。
令天目一筒神作雜刀・斧及鉄鐸。【古語、佐那伎】其物既備、掘天香山之五百筒真賢木、【古語、佐禰居自能禰居自】
天日鷲命之孫、造木綿及麻并織布。【古語、阿良多倍。】
令手置帆負・彦狹知二神以天御量【大小斤雑器等之名】伐大峡小峡之材、而造瑞殿、【古語、美豆能美阿良可】兼作御笠及矛・盾。
令天目一筒神作雜刀・斧及鉄鐸。【古語、佐那伎】其物既備、掘天香山之五百筒真賢木、【古語、佐禰居自能禰居自】
天日鷲命之孫、造木綿及麻并織布。【古語、阿良多倍。】
同書「国造本紀」では、「海中に浮ぶ者あり。何者ぞやと、乃ち粟忌部首の祖天日鷲命を遣わす・・」と、椎根津彦を神武軍に引き入れるシーンにも登場し、「伊勢国造。橿原の帝[神武天皇]の御世に、天降る天牟久努命の孫の天日鷲命を勅して国造に定められた」と、伊勢国造となったことが記されます。
種穂忌部神社
つまり、阿波の式内大社は全て、忌部または天日鷲命にかかわる神社、という可能性があります。
それでは、その他、天日鷲命が各地の文献や神社で、どう伝えられているか、そして、どこのどのような神社に祀られているのか、紹介します。
それでは、その他、天日鷲命が各地の文献や神社で、どう伝えられているか、そして、どこのどのような神社に祀られているのか、紹介します。
天日鷲命は、一般的には決して有名とは言えないものの、酉の市で有名な鷲神社をはじめ、関東でも多数の神社で、また全国的にも 弓 軍事 製紙、紡績 また忌部にかかわる地域で数多く祀られる重要な神です。
※ 鷲神社 『由緒』
社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました。
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。
後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。
後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。
その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。
この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となりました。
江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。
それでは、ざっと検索した範囲で、天日鷲命をご祭神とする神社を記しておきます。
一部、神社の『由緒』と他文献の文章も併記します。
神社所在地については、旧地名のものもあるかと思いますが、そのまま載せておきます。
神社所在地については、旧地名のものもあるかと思いますが、そのまま載せておきます。
鷲神社 東京都台東区千束
天日鷲神社 文京区音羽
松島神社 中央区日本橋人形町
波除稲荷神社 築地
練馬大鳥神社 練馬区豊玉北
大鳥神社 江東区富岡
鷲宮大明神 あきる野市乙津
市守大鳥神社 八王子市横山町
天日鷲神社 文京区音羽
松島神社 中央区日本橋人形町
波除稲荷神社 築地
練馬大鳥神社 練馬区豊玉北
大鳥神社 江東区富岡
鷲宮大明神 あきる野市乙津
市守大鳥神社 八王子市横山町
御祭神の天日鷲命は、別名を天日鷲翔矢命と申し、阿波(徳島県)忌部氏の遠い祖先で、楮(こうぞ)、麻を植えて製紙、紡績の業を興し、皇祖天照大御神が、天磐屋に御隠れになった時、白和幣を作り神々と共に祈祷せられ、磐戸開きに大きな功績をあげられた神様です。
その後、日本武尊の東征の際に東国治定や開発の為、日本武尊と共に三浦半島を経て船で安房国(千葉県)に移って来た忌部氏が、利根川を上るようにして東国を開発していくのに伴い、天日鷲命も広く祀られていきました。
弓削連(ゆげのむらじ)の祖でもある天日鷲命は、東国武士等に弓矢を作り始めた神様、武道守護の神様としても篤く崇敬されていたようです。
※ 福島市 鷲神社 『由緒』
文永年間(約700年前)の頃、一羽の大鷲が堂石山より飛び立ち、麓の田圃にある桜の木に一旦とまり、周囲をみわたし方向を定め、再び飛び立ち、現在の神社境内の森にとどまった。
往昔此の地に一大巨松あり、長さ九十丈毎年一大キョ鳥あり、その上に来り巣う。出入り坤方(西南)より口に一幣帛を含む、土人これを異とす、時に神あり、人に憑いて曰く、武州日鷲神なりと、即ち三度トしてこれを祭祀す、時に大同二年(807)四月十八日と言う。
天日鷲神社 福島県田村市常葉町山根字鎌倉山
天日鷲神社 山根字宮の前
天日鷲神社 都路町岩井沢字平内地
日鷲神社 常葉町堀田字新屋敷
日鷲神社 常葉町堀田字宮ノ前
天日鷲神社 田村郡三春町富沢字五本木
日鷲神社 南相馬市小高区女場明地
日鷲神社 相馬郡都路村
矢大神社 小野町
鷲神社 福島市町庭坂字宮下
天日鷲神社 山根字宮の前
天日鷲神社 都路町岩井沢字平内地
日鷲神社 常葉町堀田字新屋敷
日鷲神社 常葉町堀田字宮ノ前
天日鷲神社 田村郡三春町富沢字五本木
日鷲神社 南相馬市小高区女場明地
日鷲神社 相馬郡都路村
矢大神社 小野町
鷲神社 福島市町庭坂字宮下
(続く)