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宇陀とは、阿讃山脈のこと?

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中央・阿讃山脈最高峰 竜王山 手前・倭笠縫邑に比定される郡里地区 (Wikipedia

仁徳天皇は讃岐の天皇 5

「宇遲」の話を書いていて、気になることがありました。
「宇陀」です。

もちろん、通説では、宇遲は京都府宇治市、宇陀は奈良県宇陀市です。


「宇陀」はまず、神武天皇の物語に登場します。
詳しくはいずれ書きますが、以前にも一部書いたように、物語中の「登美能那賀須泥豐古」の「登美」「那賀」、「熊野」、「吉野」、即位した「檮原」=「樫原」など、全て自然な位置関係の中で、阿波に実在する地名です。


是に亦、高木大神の命以ち、覚し白さく 「天つ神の御子、此より奥つ方に、な入り幸でしそ。荒ぶる神いたく多し。 今天より八咫鳥を遣さむ。故、其の八咫烏道引かむ。其の立たむ後より幸でますべし」と。 故、其の教へ覚しのまにまに、其の八咫烏の後より幸行でませば、吉野河の河尻に到ります。


八咫烏の道案内で、吉野川の河口に至ったとありますが、もちろん奈良には河口がありません。
奈良の吉野川は、和歌山に流れ込んだところで紀の川と名を変えるので、その境目が河口だというのですが、古代人がそんな意味で「吉野河之河尻」と書くとは到底思えません。

神武天皇一行は、その後「井」を経て、山に入り、さらに「其地より踏み穿ち越え、宇陀に幸でます」とあります。


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何度か書いたように、古代の吉野川の河口付近に位置する「高志」、その近くに「井内」「井の元」の地名があります。
阿波は「イ」の国で、県内「イ」のつく地名だらけなのですが、井の「内」と「元」というのが気になります。

 其地より幸行でませば、尾の生えたる人、井より出で来。其の井に光あり。

 尓して「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、答へて曰さく、「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂す」と、まをす。

 【此は吉野の首らの祖なり。】

地図を見てください。この場所は「吉野」町でもあります。


この吉野町の真上に、阿波の「熊野庄」、その西に「樫原」が在ります。


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その間を走るR318を北上し、香川との県境を「鵜峠」と呼びます。

「鵜」一文字で「うのたお」と読みます。

何故そう読むのかは誰にもわかりません。
そのために、1986年に開通したトンネルには、古来からの読みを優先して「鵜の田尾トンネル」と命名されました。

この「うのたお」が「うだ」のことではないでしょうか?
「の」は助詞ですから、それを省くと「うたお」又は「うだお」になります。

神武天皇は「井」で「尾の生えたる人」に会いました。
 其の井に光あり。「名は井氷鹿(いひか)」
とあるのは、阿波讃岐に昔から多い「日下」(くさか)の氏名・地名、「い」の国の「日下」を暗示しているような気もします。

その後、

 山に入りたまひしかば、また尾の生えたる人に遇へり。 此の人、巌(いわ)を押し分けて出で来。

とあり、私が「イワ」の国があったのではないか?と考えている地方の中心地点にも当たり、神武天皇の「神倭(伊波礼)琵古命」の「いわ」「いわれ」もここから来ているのではないかと思われます。

その、尾の生えた「石押分之子」と出会った場所の先が「うだ」です。
「尾の生えたる人」の意味は誰にも分からないようですが、「うだ」と「お」の繋がりを感じる記述ではあります。

この行程を案内した「八咫烏」は「八阿多」とも書かれ、阿波の地名「八多町」との関係を指摘する説もあります。


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~峠は山の坂道を登りつめた所であり、峠道は山間の鞍部を越える道であることは言うまでもない。

山の鞍部を意味する古語にタワ・タオリ(撓)があり、中国・四国地方には峠・垰の字を宛ててタワ・タオと読む地名が卓越して分布している(鏡味完二著『日本地名学』)。

「とうげ」という語はタワ越え・タオ越えが転じたとする説が近年有力である。~


「峠」の語源は「タわ」「タお」であり、中国・四国が発祥か?という説が紹介されています。

鵜峠(うのたおとうげ)の語源は、「うたお」「うたわ」ということになります。

助詞の「の」を挟めば、「うのたお」になりますが、挟まない場合、氏名や地名でも一般的なように続く音に濁点がついて、「うだお」「うだわ」になることも普通にありえます。

発音で、「うたゎ」「うたぉ」「うだゎ」「うだぉ」の「音」があって、それに無理やり「鵜」の漢字一字を当て字したと考えられます。

上記の「歴史地名ジャーナル」には他にも、「引田(ひけた)」、「馬宿(うまやど)」、「大坂峠」、「奈良坂」、「河内」、「山城」など、
古事記にそのまま登場する地名が出てきますが、全て阿波・讃岐の地名です。

奇しくも、「大和の古代地名には墨坂・大坂・懼坂・奈良坂などがあるが、いずれも大和平野から河内・山城などへの峠道である」と、現在の畿内の地名との一致が記されていますが、
何か変だな?と感じないという常識(だと思っている)による先入観は怖いですね。

これらの地名に関係する東四国の物語も今後書いていきます。
ここで、仁徳天皇の物語に戻ります。



仁徳天皇の異母妹に「女鳥王」(めどりのみこ)がいました。
宮主矢河枝比売の御子で、宇遅能和紀郎子、八田若郎女の妹です。

また、異母弟に、糸井比売の御子、「速総別命」(はやぶさわけのみこと)がいました。

仁徳天皇は、この速総別命を媒(なかだち)として、女鳥王に求婚されます。
しかし、女鳥王は、大后の石之日賣命と八田若郎女の確執に恐れをなし、この申し出を辞退しました。

それどころか、彼女は「吾は汝命の妻と為りなむ」と、速総別命と結ばれてしまいます。
この物語の細部は、古事記日本書紀で違いますが、今回は詳しく書きません。

天皇は、女鳥王の気持ちを知りますが、事を荒立てずにいました。

しかしたまたま、

「雲雀(ひばり)は 天に翔ける 高行くや 速総別 雀(さざき)捕らさね」

という女鳥王の歌を耳にし、烈火の如く怒ります。

「さざき」とは「大雀(おおさざき)命」、すなわち仁徳天皇のことで、夫の速総別命に「天下を取ってしまいなさい」と詠ったというのです。


天皇、此の歌を聞きたまひ、軍を興し、殺さむと欲(おも)ほす。 尓して、速総別王・女鳥王、共に逃げ退りて、倉梯山(くらはしやま)に騰りましき。

ここに、速総別王、歌ひ曰く、

 梯立の 倉梯山を 嶮しみと

 巌かきかねて わが手取らすも

又、歌曰ひけらく、

 梯立の 倉梯山は 嶮しけど 

 妹と登れば 嶮しくもあらず

故、其地より逃げ亡せ、 宇陀 の蘇邇に到りし時に、御軍追ひ到りて殺す。


倉椅山は、奈良県桜井市倉橋付近の山と言われています。
阿波説に該当する山はあるでしょうか?

歌にある「はしだてのくらはしやま」でピンときました。

原文は、「波斯多弖能久良波斯夜麻」です。


「天椅立」の名を冠する日本唯一の式内社です。
しかもその裏山の名が、「箸蔵山」。

「はしくら」は「くらはし」の転語ではないでしょうか?

通説では「はしだての」の意味がわからず、「くらはし山」の枕詞・形容詞と言われています。
阿波では当然、「天椅立」と「箸蔵山」はワンセットの名所です。

それはコジツケだろう、という感想も当然あるでしょう。
古事記文中、「はしだてのくらはしやま」を登り逃げ、「宇陀」の蘇邇に到ったところで、速総別命と女鳥王は天皇の軍に追いつかれた、と記されています。

また、宇陀が出てきました。

箸蔵山の近くにそれらしい地名があるでしょうか?

特に明治以降、平成の現在まで、合併などに伴い、日本中で歴史的地名が失われ続けました。
現在の地図を見ても載っていません。


鵜足郡(うたりぐん・うたぐん)は讃岐国中部の郡。 鵜垂郡、宇足郡、宇多郡ともいう。

現在の自治体では、

丸亀市土器町・土居町・飯野町・川西町・飯山町・綾歌町、宇多津町全域、坂出市川津町、まんのう町長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

の各地域がおおむね鵜足郡に該当する。 (Wikipedia


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上のマークに沿った左右の線が、現在の県境線で、阿讃山脈の頂上線でもあります。
阿波の「天椅立」「箸蔵山」付近を、北に山脈を越えると「鵜足」です。


天皇の宮は難波(讃岐)ですが、女鳥王は矢河枝比売の子、宇遅能和紀郎子の妹です。
仁徳天皇は讃岐の天皇 5」で見たように、その住まいは阿波の脇町付近にあったと考えられます。
吉野川沿いを西に逃げ、天椅立神社付近を北上し、山を越えて逃げたと考えれば何の矛盾もありません。


「宇陀の蘇邇(そに)」とは、「宇多の塩入(しおいり)」でしょうか?

この鵜足郡は北上し、海辺まで続き、その先端は「宇多津」、「宇多」の「津」です。

「鵜足郡は、宇足郡、宇多郡ともいう」、という通り、まさに「宇陀」なのです。


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真ん中は、私が「宇遅」に比定した地域、その東西に「鵜峠」「宇多郡」と並び、「宇陀」は、阿波・讃岐に多く見られる複数地名のひとつ、または、阿讃山脈の頂上線そのものと考えられます。

「うだ」「うじ」と、頭に付く「う」に秘密があるかもしれません。