空と風

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仁徳天皇は讃岐の天皇 6

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香川県さぬき市津田町にある、鵜の部山古墳です。
 
何度も書いたように、この一帯は、和名抄に記される唯一の難波(郷)です。
記紀に記される「難波」とは、この地のことで、すなわち、難波天皇と称される仁徳天皇の高津宮は、この地の何処かにありました。
 
この鵜の部山古墳は、仁徳天皇の皇后の御陵である、という、地元に伝わる言い伝えがあります。
地元も含め香川県人が一般的に、津田が本来の難波であって、仁徳天皇の皇居があった地だと思っているわけではありません。
むしろそんな話は、ほとんどの人は聞いたこともないでしょうし、仮に聞いても皆笑い飛ばすでしょう。
そこにこのような言い伝えが残ることに意味があります。
 
岩利大閑氏が『道は阿波より始まる』の中で、この鵜の部山古墳を「私は八田若郎女の御陵と考えている」と書いてあったのを初めて読んだときには、勉強不足でその意味が分かりませんでした。
 
古事記』では、仁徳天皇の大后は、石之日売命、御一人となっています。
 

石之日売が「きの国」へ行幸されている間に、天皇難波宮に八田若郎女を招き入れ、怒った大后は実家のある「葛城」(鳴門)方向へ向かいます。
ただし、実家には戻らず、筒木の韓人、奴理能美の家に入ります。
 
 つぎねふや、山代川を宮のぼり、我が上れば、あをによし  
 那良を過ぎ、小楯を過ぎ  わが見が欲し国は、葛城、高宮、我家のあたり
 
この歌を詠んだ後、 
 
如此歌而還 暫入坐筒木韓人 名奴理能美之家也 (記)
更還山背 興宮室於筒城岡南 而居之 (紀)
 
と記され、山代(山背)に引き返しています。
天皇は使者を送ったり自ら出向いたりして、石之日売命のご機嫌を伺います。
 
その後に記される女鳥王(めどりのみこ)=八田若郎女の妹の事件で、
 
 
後日談として、女鳥王の亡骸から腕輪を奪い、自分の妻に与えた山部大楯連に対し、宴席でそれに気づいた石之日売命が、その非礼な行動に死刑(ころすつみ)を言い渡す逸話が記されます。
 
古事記』は、必ずしも時系列的な正確を期して書かれてはいないのですが、素直に読めば、石之日売命は天皇のもとに戻っていたことになります。
 
逆に、八田若郎女は、
 
天皇、八田若郎女を恋ひたまひて、御歌を賜はり遣りたまひき。
その歌に曰りたまひけらく、
 
 八田の 一本菅は 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原 言をこそ 菅原と言はめ あたら清し女
 八田の一本菅は、子を持たないままで立ち枯れてしまうのであろうか。惜しい菅原よ。
 言葉では菅原と言うが、まことに惜しい清々しい女であるよ。
 
爾、八田若郎女、答へて歌曰ひけらく、
 
 八田の 一本菅は ひとり居りとも 大君し よしと聞さば ひとり居りとも
 八田の一本菅は、一人でいようとも、大君さえそれでよいと仰せられるならば、
 一人でいようともかまいません。
 
故、八田若郎女の御名代と為て、八田部を定めたまひき。
 
と、一人を通したことになっています。
 
 
ところが、『日本書紀』では全くの逆になっています。
 
石之日売(紀では、磐之媛)は、天皇の説得に応じず(大妃の留守中に八田若郎女(八田皇女)を反対を押し切って妃としたため)、難波へ戻らず、そのまま筒木(筒城)宮で亡くなりました。
 
そしてその2年後、皇后を那羅山(奈良山)に葬った、とあります。
 
八田若郎女が皇后となったのです。
女鳥王の腕輪の事件で厳罰を命じたのも八田若郎女とされています。
自分の実の妹の飾り物だからこそ、それが盗まれたものと気づいたとみれば、納得できます。
 
紀によれば、仁徳天皇35年(347年)6月に磐之媛命が崩御し、同38年(350年)1月6日に八田皇女が新たな皇后に立てられたとなっています。
 
石之日売が葬られたのが、奈良山ならば、津田(難波)に葬られた皇后とは、日本書紀に照らせば、八田若郎女ということになります。
 
 
Wikipedia
 
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年(312年)・『古事記』では、宇遅能和紀郎子)は、応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 ・宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)。
 
同母妹に八田皇女・雌鳥皇女。
 
天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。
 
百済から来朝した阿直岐王仁を師に典籍を学んで通達し、父の天皇から寵愛された。
応神天皇40年(309年)1月に皇太子となる。翌年に天皇が崩じたが、太子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。
 
そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵する。
大鷦鷯尊はこれをいち早く察知し、大山守皇子はかえって太子の謀略に遭って殺された。
 
 
この後、太子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。
 
尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の八田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたという。
 
菟道山上に葬られた。同墓は現在、宇治市莵道丸山の丸山古墳に比定され、宮内庁の管理下にあるが、この地は宇治川右岸に近接して「山上」と呼ぶに相応しくない。
 
 (一部省略)
 
『紀』の同じ仁徳天皇の条に3回「那羅山」が出てきますので、少なくともこの3つはすべて同じ山だと考えられます。
 
 乃、葬于那羅山        大山守命が葬られるとき
 越羅山、望葛城、歌之  石之日売が歌を詠むとき
 葬皇后、於那羅山      石之日売が葬られるとき

記紀の物語から、宇遅(菟道)宮筒木(筒城)宮訶和羅(かわら)木幡三島、これらの地は、難波からはやや離れ、奈良山の近く にあることがわかります。
 
阿波倭説では、記紀「奈良」は、吉野川対岸「川島町奈良」を含む日開谷川河口一帯の平野部、「奈良山」は市場町奈良坂」付近の山と考えます。
 
 
この奈良坂のすぐ上の山に、四国霊場八十八箇所の第十番札所切幡寺(きりはたじ)」が在ります。
 
寺伝によれば、
修行中の空海弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。
これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。
そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち即身成仏して千手観音の姿になったという。
山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。  (Wikipedia
 
空海らしいじゃないですか。
 
私は、応神天皇が宮主矢河枝比売に出会ったという「木幡の道」の「木幡」を(きはた)と読み 「切幡」に置き換えたのだと考えます。
 
 木幡の道に 遇はしし嬢子 後ろでは 小楯ろかも
 
仁徳天皇は讃岐の天皇3」では、「奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城(かづらき) 高宮(たかみや) 吾家(わぎへ)の辺り」と、石之日売が詠んだことから、鳴門(葛城)方向を目指した、と高木隆弘氏の説に沿って解説しましたが、実は逆だったのではないか?と今考えています。
 
「小楯」と聞いてすぐ思い浮かぶ光景がありましたが、逆方向なので違うだろうと考えたのです。
 
 
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(続く)