香川県さぬき市津田町にある、鵜の部山古墳です。
この鵜の部山古墳は、仁徳天皇の皇后の御陵である、という、地元に伝わる言い伝えがあります。
地元も含め香川県人が一般的に、津田が本来の難波であって、仁徳天皇の皇居があった地だと思っているわけではありません。
むしろそんな話は、ほとんどの人は聞いたこともないでしょうし、仮に聞いても皆笑い飛ばすでしょう。
地元も含め香川県人が一般的に、津田が本来の難波であって、仁徳天皇の皇居があった地だと思っているわけではありません。
むしろそんな話は、ほとんどの人は聞いたこともないでしょうし、仮に聞いても皆笑い飛ばすでしょう。
そこにこのような言い伝えが残ることに意味があります。
岩利大閑氏が『道は阿波より始まる』の中で、この鵜の部山古墳を「私は八田若郎女の御陵と考えている」と書いてあったのを初めて読んだときには、勉強不足でその意味が分かりませんでした。
つぎねふや、山代川を宮のぼり、我が上れば、あをによし
那良を過ぎ、小楯、倭を過ぎ わが見が欲し国は、葛城、高宮、我家のあたり
那良を過ぎ、小楯、倭を過ぎ わが見が欲し国は、葛城、高宮、我家のあたり
この歌を詠んだ後、
如此歌而還 暫入坐筒木韓人 名奴理能美之家也 (記)
更還山背 興宮室於筒城岡南 而居之 (紀)
と記され、山代(山背)に引き返しています。
その後に記される女鳥王(めどりのみこ)=八田若郎女の妹の事件で、
後日談として、女鳥王の亡骸から腕輪を奪い、自分の妻に与えた山部大楯連に対し、宴席でそれに気づいた石之日売命が、その非礼な行動に死刑(ころすつみ)を言い渡す逸話が記されます。
逆に、八田若郎女は、
天皇、八田若郎女を恋ひたまひて、御歌を賜はり遣りたまひき。
その歌に曰りたまひけらく、
その歌に曰りたまひけらく、
八田の 一本菅は 子持たず 立ちか荒れなむ あたら菅原 言をこそ 菅原と言はめ あたら清し女
八田の一本菅は、子を持たないままで立ち枯れてしまうのであろうか。惜しい菅原よ。
言葉では菅原と言うが、まことに惜しい清々しい女であるよ。
言葉では菅原と言うが、まことに惜しい清々しい女であるよ。
爾、八田若郎女、答へて歌曰ひけらく、
八田の 一本菅は ひとり居りとも 大君し よしと聞さば ひとり居りとも
八田の一本菅は、一人でいようとも、大君さえそれでよいと仰せられるならば、
一人でいようともかまいません。
故、八田若郎女の御名代と為て、八田部を定めたまひき。
と、一人を通したことになっています。
ところが、『日本書紀』では全くの逆になっています。
そしてその2年後、皇后を那羅山(奈良山)に葬った、とあります。
八田若郎女が皇后となったのです。
女鳥王の腕輪の事件で厳罰を命じたのも八田若郎女とされています。
自分の実の妹の飾り物だからこそ、それが盗まれたものと気づいたとみれば、納得できます。
(Wikipedia)
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年(312年)・『古事記』では、宇遅能和紀郎子)は、応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 ・宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)。
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年(312年)・『古事記』では、宇遅能和紀郎子)は、応神天皇の皇子で、母は和珥臣祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 ・宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)。
同母妹に八田皇女・雌鳥皇女。
そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵する。
大鷦鷯尊はこれをいち早く察知し、大山守皇子はかえって太子の謀略に遭って殺された。
尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の八田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたという。
(一部省略)
乃、葬于那羅山 大山守命が葬られるとき
越那羅山、望葛城、歌之 石之日売が歌を詠むとき
葬皇后、於那羅山 石之日売が葬られるとき
記紀の物語から、宇遅(菟道)宮、筒木(筒城)宮、訶和羅(かわら)、木幡、三島、これらの地は、難波からはやや離れ、奈良山の近く にあることがわかります。
寺伝によれば、
これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。
そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち即身成仏して千手観音の姿になったという。
山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。 (Wikipedia)
そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち即身成仏して千手観音の姿になったという。
山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる。 (Wikipedia)
空海らしいじゃないですか。
私は、応神天皇が宮主矢河枝比売に出会ったという「木幡の道」の「木幡」を(きはた)と読み 「切幡」に置き換えたのだと考えます。
木幡の道に 遇はしし嬢子 後ろでは 小楯ろかも
「仁徳天皇は讃岐の天皇3」では、「奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城(かづらき) 高宮(たかみや) 吾家(わぎへ)の辺り」と、石之日売が詠んだことから、鳴門(葛城)方向を目指した、と高木隆弘氏の説に沿って解説しましたが、実は逆だったのではないか?と今考えています。
「小楯」と聞いてすぐ思い浮かぶ光景がありましたが、逆方向なので違うだろうと考えたのです。
(続く)