淡道嶋に坐し、遙かに望(みさ)けて、歌ひ曰りたまはく、
淤志弖流夜、那尓波能佐岐用 伊傳多知弖、和賀久迩美禮婆 阿波志摩、淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能志麻母美由 佐氣都志摩、美由
天皇はたびたび淡路島を訪れたようですが、淡路島のどこへ行かれたのでしょうか?
次女、中日賣命の御子の一人が仁徳天皇です。そして、三女、
仁徳天皇は、この異母妹のもとを訪れていたと考えられます。
弟日賣命の御子の一人に | 阿具知能(あはぢの)三腹(みはら)の郎女(いらつめ) | がいます。 |
仁徳天皇は、この異母妹のもとを訪れていたと考えられます。
淡路島の南部、現在の南あわじ市付近が、「あわじの三原(みはら)」です。
天皇の目的は黒日売のあとを追うことでした。
難波では居ても立っても居られず、日売に恋焦がれた気持ちで淡路島に立ち寄っているのです。
180度後ろを振り返って、のんびり景色を詠んでいるような穏やかな心持ちでいるはずがないのです。
淡路島から、日売のいる方向を眺めるのが当然ではないでしょうか?
難波では居ても立っても居られず、日売に恋焦がれた気持ちで淡路島に立ち寄っているのです。
180度後ろを振り返って、のんびり景色を詠んでいるような穏やかな心持ちでいるはずがないのです。
淡路島から、日売のいる方向を眺めるのが当然ではないでしょうか?
そして、その方向には「我が國」“も”、見えたのです。
赤が通説 青が阿波説 |
そこから見えた「我が国」の景色は、
阿波志摩 淤能碁呂志摩 (淡島)(オノゴロ島)
阿遲摩佐能志麻 (アジマサの島)
佐氣都志摩 (サケつ島)
佐氣都志摩 (サケつ島)
です。
『阿波志』には、「粟島祠 中林海中に在り」と記され、「青島」が「阿波志摩」のことであるのは明白です。
当地のイントネーションでは「あわ」を「あお」と発音する例があり(阿波井神社なども「あおいさん」と呼ばれる)、
「あおしま」と訛ったものでしょう。
「あおしま」と訛ったものでしょう。
他の島々については研究者によって比定が違いますが、岩利大閑氏は徳島県沖を南部から手前(北部)に眺めながら詠んでいるとし、最後の「裂(割)けつ島」を、現・鳴門市の島田島、大毛島に比定しています。
海に浮かんだ島ならば、単純に「島」でしょうし、「裂けつ島」という表現は、まさに陸地から、またそれぞれが裂けかかっているような地形を表していると考えられます。
海に浮かんだ島ならば、単純に「島」でしょうし、「裂けつ島」という表現は、まさに陸地から、またそれぞれが裂けかかっているような地形を表していると考えられます。
『古事記』垂仁天皇の条には、本牟智和気御子、出雲国に至り、「檳榔の長穂宮」に坐す、とあります。
通説に当てはめると矛盾がでますが、「太古の日本では、島根県にも亜熱帯性樹木が自生していたのだろか?」などと言って誤魔化しています。
通説に当てはめると矛盾がでますが、「太古の日本では、島根県にも亜熱帯性樹木が自生していたのだろか?」などと言って誤魔化しています。
ここから見ても、記紀の「出雲国」が、現在の島根県ではないことがわかります。
阿波説では、阿南市を中心に県南海岸地方を「イヅモ」としているのですから、ここでも辻褄が合います。
前回の『倭名抄』の写真を、もう一度見てください。
つまり、“そういうこと” なのです。
阿波説では、阿南市を中心に県南海岸地方を「イヅモ」としているのですから、ここでも辻褄が合います。
前回の『倭名抄』の写真を、もう一度見てください。
「海部」と同じ那賀郡に、 | 「島根」 | 郷があるでしょう。 |
つまり、“そういうこと” なのです。
オノゴロ島は、高木氏は橘湾周辺の島(『大日本地名辞書』でも同見解)、岩利氏は徳島市の「いの山」と考えています。
徳島市周辺も古代は入江状に大きく海が入り込み、現在の市内はほとんど無数の島々で構成されていたのです。
江戸時代の地図ですら、その様子が確認できます。
太古は、この状況よりもはるかに大きく海水が入り込んでいたのです。
徳島市周辺も古代は入江状に大きく海が入り込み、現在の市内はほとんど無数の島々で構成されていたのです。
江戸時代の地図ですら、その様子が確認できます。
太古は、この状況よりもはるかに大きく海水が入り込んでいたのです。
位地から見て右下の島が「淡島」 1641年頃の地図とされる |
淡路島の南部からは、まさにこの通り、徳島県阿南市沖から徳島市沖、目前の鳴門まではっきり見えます。
私も、よく地図も見ずにこの周辺を車で走っていて、案内標識を見て驚きました。
これらの島々、大阪湾ではどこに比定するのでしょうか?
(続く)