空と風

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仁徳天皇は讃岐の天皇 2

ここでもう一度、黒日売の話に戻ります。
天皇は、大后に「淡路島へゆく」と偽って、黒日売の後を追いました。
カムフラージュのために、一旦、淡路島に上陸し、そこで歌を詠みます。


是(ここ)に天皇、其の黒日売に 戀(こ)ひたまひ、 大后を欺きて曰(の)りたまはく
 
 「淡道(あわぢ)嶋を見んと欲(おも)ふ」とのりたまひて、幸行(いでま)す時に、

 淡道嶋に坐し、遙かに望(みさ)けて、歌ひ曰りたまはく、


淤志弖流夜、那尓波能佐岐用  伊傳多知弖、和賀久迩美禮婆  阿波志摩、淤能碁呂志摩  阿遲摩佐能志麻母美由 佐氣都志摩、美由


  おしてるや 難波の崎よ 
  
  出で立ちて 我が國見れば
  
  阿波島 淤能碁呂島
   
  檳(あじまさ)の島も見ゆ
   
  離(さけ)つ島、見ゆ




天皇はたびたび淡路島を訪れたようですが、淡路島のどこへ行かれたのでしょうか?

仁徳天皇の父は、応神天皇
応神天皇の痕跡も、阿波、讃岐の東部に残りますが、またの機会に書きます。

この応神天皇品陀和氣命)は、品陀眞若王の娘三姉妹をみな后とします。
三姉妹はそれぞれ、阿波の石井町、「東王子神社」「中王子神社」「西王子神社」で祀られています。

次女、中日賣命の御子の一人が仁徳天皇です。そして、三女、
弟日賣命の御子の一人に 阿具知能(あはぢの)三腹(みはら)の郎女(いらつめ) がいます。

仁徳天皇は、この異母妹のもとを訪れていたと考えられます。


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淡路島の南部、現在の南あわじ市付近が、「あわじの三原(みはら)」です。


天皇は、その淡道嶋で歌を詠みます。
難波の崎を出て、淡路島から 我が國 を遠望し、その景色を詠んだのです。
 

通説では、淡路島のどこからどこを眺めた景色だと解釈しているのでしょうか?
淡路島北部から大阪湾を眺め、目的の黒日売がいる吉備国は逆方向ということになります。

天皇の目的は黒日売のあとを追うことでした。
難波では居ても立っても居られず、日売に恋焦がれた気持ちで淡路島に立ち寄っているのです。
180度後ろを振り返って、のんびり景色を詠んでいるような穏やかな心持ちでいるはずがないのです。
淡路島から、日売のいる方向を眺めるのが当然ではないでしょうか?

そして、その方向には「我が國」“も”、見えたのです。


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赤が通説 青が阿波説

そこから見えた「我が国」の景色は、

  阿波志摩 淤能碁呂志摩 (淡島)(オノゴロ島)

  阿遲摩佐能志麻 (アジマサの島)
  佐氣都志摩   (サケつ島)

です。


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阿波志摩(あわしま)とは、現在の阿南市沖「青島」のことで、往古から島内に「淡島神社」があり、
現在は陸地側の「淡島海岸」にも分祀されていますが、青島の神社は「沖の淡島」と呼ばれています。

『阿波志』には、「粟島祠 中林海中に在り」と記され、「青島」が「阿波志摩」のことであるのは明白です。

当地のイントネーションでは「あわ」を「あお」と発音する例があり(阿波井神社なども「あおいさん」と呼ばれる)、
「あおしま」と訛ったものでしょう。


他の島々については研究者によって比定が違いますが、岩利大閑氏は徳島県沖を南部から手前(北部)に眺めながら詠んでいるとし、最後の「裂(割)けつ島」を、現・鳴門市の島田島、大毛島に比定しています。
海に浮かんだ島ならば、単純に「島」でしょうし、「裂けつ島」という表現は、まさに陸地から、またそれぞれが裂けかかっているような地形を表していると考えられます。


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高木隆弘氏によれば、「アジマサ」は「檳榔(びろう)」のことで、亜熱帯性樹木の自生できる北限が「阿南市橘湾」周辺だそうです。

古事記垂仁天皇の条には、本牟智和気御子、出雲国に至り、「檳榔の長穂宮」に坐す、とあります。
通説に当てはめると矛盾がでますが、「太古の日本では、島根県にも亜熱帯性樹木が自生していたのだろか?」などと言って誤魔化しています。

ここから見ても、記紀の「出雲国」が、現在の島根県ではないことがわかります。
阿波説では、阿南市を中心に県南海岸地方を「イヅモ」としているのですから、ここでも辻褄が合います。
前回の『倭名抄』の写真を、もう一度見てください。
「海部」と同じ那賀郡に、 「島根」 郷があるでしょう。

つまり、“そういうこと” なのです。



オノゴロ島は、高木氏は橘湾周辺の島(『大日本地名辞書』でも同見解)、岩利氏は徳島市の「いの山」と考えています。
徳島市周辺も古代は入江状に大きく海が入り込み、現在の市内はほとんど無数の島々で構成されていたのです。
江戸時代の地図ですら、その様子が確認できます。
太古は、この状況よりもはるかに大きく海水が入り込んでいたのです。


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位地から見て右下の島が「淡島」 1641年頃の地図とされる

淡路島の南部からは、まさにこの通り、徳島県阿南市沖から徳島市沖、目前の鳴門まではっきり見えます。
私も、よく地図も見ずにこの周辺を車で走っていて、案内標識を見て驚きました。

この淡路島の「三原」の西、最も徳島県よりの町の名が「阿那賀」(アナガ)なのです。
まさしく「阿波」の「那賀」じゃないですか。



これらの島々、大阪湾ではどこに比定するのでしょうか?

(続く)