800年に発見されたとの記録がある。吉野川によって作られた砂礫層が浸食されて出来たものである。
この段丘礫層は吉野川が約130万年前にこの地が川底であったときにできたものである。
最も大きいものは波濤嶽(はとうがたけ)と名付けられ高さ10m前後の柱が南北約90m、東西約50mの範囲に多数立っている。 (Wikipedia・一部略)
イザ!産経ブログ「探訪」 動画で見ることができます。
世界に3か所、日本に1か所しかない浸食構造の自然の奇勝で、現在は崩れつつあるのですが、まさに盾のような景観で、古代でもランドマークとなったことでしょう。
応神天皇は、木幡(切幡)で矢河枝比売に出会い、小楯(土柱)を過ぎて、美志麻(三島)の家で御合されます。
かく御合して 生れませる御子 宇遲能和紀郎子也
その和紀(脇)の城へ攻めてきた大山守命が戦死したのが、訶和羅(川原)。
宇遲能和紀郎子は、その後、宇遅(菟道)宮に住まわれますが、この菟道を(うじ)とも(とどう)とも読むがごとく、現在の脇町川原町の隣、美馬町轟(とどろき)が、菟道城(とどうき)の転語ではないか?と推測します。
この轟に、式内社「天都賀佐毘古神社」があり、 そのすぐ上の山に段の塚穴という有名な古墳があります。
その規模の壮大さ、構築技術の精緻さにおいて、県内でもトップの古墳です。
宇遲能和紀郎は「菟道山上に葬られた」と記されますが、これかもしれません。
ただし、この古墳は古墳時代後期のものと言われており、正確であれば時代が100年ずれることになります。
天皇になる予定だった皇子ですから、子孫が造営したということも考えられますが、確証はありません。
ただし、この古墳は古墳時代後期のものと言われており、正確であれば時代が100年ずれることになります。
天皇になる予定だった皇子ですから、子孫が造営したということも考えられますが、確証はありません。
石之日売の歌
つぎねふや 山代河を 宮上り 我が上れば あをによし
奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し國は 葛城高宮 吾家のあたり
奈良を過ぎ 小楯 倭を過ぎ 我が見が欲し國は 葛城高宮 吾家のあたり
石之日売は、難波を南下し、山を越え、奈良を西へ折れ、小楯(土柱) 、倭(倭大国敷神社)を過ぎたあたりで上記の歌を詠みました。
「我が見が欲し(見たい)國は」とは見えないからそう詠んだのであって、つまり、奈良からは逆方向へ向かったのです。
そこは、このいさかいの種となった八田若郎女の出身地、その兄、宇遲能和紀郎子の国でした。
なぜ、自分が難波の宮に帰らないのか、どれほど怒っているのかを、仁徳天皇に伝えたかったのかもしれません。
『紀』では、仁徳天皇が磐之媛の反対を押し切ってまでも八田皇女を皇后としたのは、菟道稚郎子の遺言であると記されています。
この点に関しては、多くの推測がありますが、このブログの主題ではないので書きません。
「つづき」ってどこかで聞いたことあるよなぁ・・と思うのですが、地名を調べても見当たりません。
そこで、この辺でよく聞く「都築」さんの名字を調べると、美馬市のなかでは、この「轟」「川原」を中心とした東西10キロ程度の中だけにある名だと分かりました。
そこで、この辺でよく聞く「都築」さんの名字を調べると、美馬市のなかでは、この「轟」「川原」を中心とした東西10キロ程度の中だけにある名だと分かりました。
脇町と書かれた辺りが「かわら」
偶然にしては出来すぎかなと思います。
ちなみに公人でもあるからいいかな?と思いますが、西照神社(大滝寺の場所)の宮司さんも都築氏です。
山代の筒木宮とは、西照神社でしょうか?
山代の筒木宮とは、西照神社でしょうか?
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
八田若郎女(やたのわきいらつめ)
八田若郎女(やたのわきいらつめ)
この御二方の母である宮主矢河枝比売の妹、小甂媛(おなべひめ) もまた、応神天皇の妃となりますが、その御子が
宇遅能若郎女(うじのわきいらつめ)
であり、彼女もまた、仁徳天皇の妃となります。
この方々の名も、地名からとられていることは明白ですが、その地名とは 「うじ」「やた」「わき」に当たります。
阿波説に当てはめれば、「わき」が現在の美馬市脇町、「うじ」はその北側の阿讃山脈、と考えていますが、「やた」とはどこでしょうか?
この「八田」の読みに関しては「ヤタ」が一般的ですが、「ハタ」とする説もあります。
八咫烏と同じく、「ヤアタ」「ヤハタ」語源かもしれません。
八咫烏と同じく、「ヤアタ」「ヤハタ」語源かもしれません。
複数の研究者が、八田若郎女の「八田」を、現徳島市の八多町のことではないかと考えています。
であれば、出身地と現住所の両方を名に取り入れたという可能性があります。
八多町がまた、古代史に深く関る地域で、今後徐々に紹介します。
であれば、出身地と現住所の両方を名に取り入れたという可能性があります。
八多町がまた、古代史に深く関る地域で、今後徐々に紹介します。
また、このブログにアップした動画にもあるように、この「わき」町には、今も秦(ハタ)姓が多いのです。
故、爲八田若郎女之御名代、定八田部也。
『古事記』では、八田若郎女のため、御名代(一定の役割をもって皇族に奉仕することを義務づけられた私有民)として八田部を設けたと記します。
(延喜2)902年、日本最古の民間人戸籍、阿波国板野郡「田上郷(たのかみのごう)戸籍」には、
凡直、粟凡直、家部、物部、服部、海部、秦、宗我部、綿部、建部、葛部、忌部、飛鳥部、上主寸、伴、許世部、
葛木、などの名とともに、矢田部の姓が多く記されています。
このような戸籍をみると、一般的な日本人は、奈良か京都のものと思うのではないでしょうか?
また、仁徳天皇の条の逸話に、次のようなものがあります。
爾、建内宿斑命を召したまひ、歌以て鴈の卵生める状を問ひたまひき。
其の歌に曰りたまひけらく、
其の歌に曰りたまひけらく、
たまきはる うちのあそ 汝こそは 世の長人 そらみつ 倭の国に 鴈子産と 聞くや
ここに、建内宿斑、歌以て語りて白しけらく、
たかひかる 日の御子 うべしこそ 問ひたまへ まこそに 問ひたまへ 吾こそは 世の長人
そらみつ 倭の国に 鴈子産と いまだ聞かず
かく白して、御琴を給はり、歌曰ひけらく、
汝が王や 遂に知らむと 鴈は 子産らし
此は、木岐歌の片歌なり。
この「日女島」に関しては、諸説あり、観光の絡みもあり所在地を決着してはいませんが、おおむね大阪湾の小島と考えられているようです。
この一帯の歴史の深さの解説は、再度時代をかなりさかのぼらなければなりませんので、またの機会にしますが、その南西を見てください。
「木岐」の地名がそのまま残っています。
「木岐歌」とは、その地方の特色ある「歌ぶり」という意味なのです。