次に、「都奴賀」とは、どこでしょうか。
故建内宿禰命率其太子爲將禊而經歴淡海及若狹國之時於高志前之角鹿造假宮而坐 尓坐其地伊奢沙和氣大神之命見於夜夢云「以吾名欲易御子之御名」 尓言祷白之「恐隨命易奉」亦其神詔「明日之旦應幸於濱獻易名之幣」 故其旦幸行于濱之時毀鼻入鹿魚既依一浦於是御子令白于神云「於我給御食之魚」 故亦稱其御名號御食津大神故於今謂氣比大神也 亦其入鹿魚之鼻血槌故號其浦謂血浦今謂都奴賀也 |
故、建内宿禰命、其の太子を率たてまつり、禊せむとして、淡海と若狭国を経歴し時に、
高志の前の角鹿に、仮宮を造りて坐せまつる。
尓して、其地に坐せる伊奢沙和気大神之命、夜の夢に見えて云はく、
「吾が名を以ち、御子の御名に易へまく欲し」と、いふ。
尓して、言祷き白さく、「恐し、命のまにまに易へ奉らむ」と、まをす。
「吾が名を以ち、御子の御名に易へまく欲し」と、いふ。
尓して、言祷き白さく、「恐し、命のまにまに易へ奉らむ」と、まをす。
亦、其の神、詔りたまはく、「明日の旦、浜に幸でますべし。
名を易ふる幣を献らむ」と、のりたまふ。
故、其の旦、浜に幸行でます時に、鼻毀てる入鹿魚(いるか)、既に一浦に依れり。
ここに、御子、神に白さしめて云りたまはく、「我に御食の魚を給へり」と、のりたまふ。
名を易ふる幣を献らむ」と、のりたまふ。
故、其の旦、浜に幸行でます時に、鼻毀てる入鹿魚(いるか)、既に一浦に依れり。
ここに、御子、神に白さしめて云りたまはく、「我に御食の魚を給へり」と、のりたまふ。
故、亦其の御名を称へて、御食津(みけつ)大神と号す。故、今に気比(けひの)大神とは謂ふ。
亦其の入鹿魚の鼻の血、槌し。故、其の浦に号づけて血浦と謂ふ。今は都奴賀と謂ふなり。
「都奴賀」とは、通説では敦賀市のことですが、「高志の前(さき)」に位置すると記されています。
古代においては、世界的に海水面の上昇が発生していたことが確認されていて、日本では縄文時代をピークに「縄文海進」と呼ばれる水位上昇がありました。
場所によっても違いますが、現在よりも数メートル海面が高かったと言われ(現在の各地都市部はほぼ水没)、徐々に下降しましたが、弥生時代でもまだ現在の平野部のかなりの部分が海でした。
ひとつのシミュレーションですが、日本列島・海進地図(日経BP)の地図が下です。
場所によっても違いますが、現在よりも数メートル海面が高かったと言われ(現在の各地都市部はほぼ水没)、徐々に下降しましたが、弥生時代でもまだ現在の平野部のかなりの部分が海でした。
ひとつのシミュレーションですが、日本列島・海進地図(日経BP)の地図が下です。
現在の海岸線 |
海進5m |
海進7m |
「故、其の浦を号づけて、血浦と謂ひき」と記されたごとく、そこは「浦」だったのです。
つまり、「都奴賀」は現在の石井町・上板町付近と考えられます。
「この蟹やいづくの蟹 百伝ふ都奴賀の蟹」と歌われていますが、上板町には「字 カニハ」の地名もあります。
また上記文中、都奴賀の地の神「伊奢沙和気大神」を、「御食津大神」と号す、と記されています。
御食津大神とは、『古事記』国生みにおける阿波の国名「大宣都比売」の別名で、都奴賀が阿波国内であることを示します。
御食津大神とは、『古事記』国生みにおける阿波の国名「大宣都比売」の別名で、都奴賀が阿波国内であることを示します。
「伊知遅志麻」、「美志麻」については、通説も含め、現在まで「所在不明」とされています。
都奴賀(石井町)、佐佐那美(鳴門市)、とあるので、徳島市の三島のことか?と考えましたが、どうやら違うようです。第一、この時代の徳島市街は海の底です。
この歌の前半は、「この蟹はどこを経て、この地へ来たのか」と、御自分の行程を連想して、御機嫌よく詠まれたもので、全体的には東から西へ向かっています。
この歌の前半は、「この蟹はどこを経て、この地へ来たのか」と、御自分の行程を連想して、御機嫌よく詠まれたもので、全体的には東から西へ向かっています。
故 到坐木幡村之時 麗美孃子遇 其道衢
「淡海國」へ行幸し、「宇遲」の高所から「葛野」を眺めた後、「木幡村」に至ったとき、矢河枝比売に出会いました。
木幡の道に 遇はしし嬢子 後ろでは 小楯ろかも
これを一般に、「矢河枝比売の背中は楯のように真っ直ぐに伸びて」と解釈しているのですが、石之日売が詠んだ歌では「小楯」が山の形容詞として使われていました。
応神天皇と矢河枝比売の御子で、次の皇位を継承する予定だった
を、岩利大閑氏は「倭岐」の王だったと言います。
現在の「美馬市脇町」です。
そこで、古事記の記述を眺めてみます。
「 | 宇遅 | 能 | 和紀 | 郎子 」 |
現在の「美馬市脇町」です。
そこで、古事記の記述を眺めてみます。
於是伏隱河邊之兵 彼廂此廂 一時共興 矢刺而流
故到訶和羅之前而沈入【訶和羅三以以音】
是に 河の辺に伏し隠れたる兵 彼廂此廂(そなたこなた) 一時共(もろとも)に興り 矢刺して流す。 |
故到訶和羅之前而沈入【訶和羅三以以音】
故 訶和羅の前(さき)に到りて沈み入る。 |
故以鉤 探其沈處者繋其衣中甲 而 | 訶和羅 | 鳴 故號其地謂訶和羅前也 |
故、鈎を以ち、其の沈める処を探れば、其の衣の中の甲(よろひ)に繋(か)かりて、訶和羅(かわら)と鳴る。 |
故、其地に号づけて訶和羅前と謂ふなり。 |
大山守命が死した川の流れる地を | かわら | と言うとあります。 |
美馬市「わき」町に、「かわら」町、の地名が残っています。
「宇治の渡し」がある川、とは、現・野村谷川なのでしょう。
大山守命は、上板町の「大山」付近に宮を構えた皇子でしょう。
応神天皇の歌。
「都奴賀の蟹」は、最終的に「美志麻」に至った、とあります。
吉野川を東から西へ運ばれたのです。
天皇は、鳴門市大阪山の北側、「佐佐那美路」を進み、
さぬき市の「葛野」付近を眺めながら、阿讃山脈を越え、
真南に位置する美馬市「わき」町へ入ったのです。
その御子が、「うじ」の「わき」いらつこ。
「宇遲」から「葛野」を眺めたというのですから、「うじ」というのは阿讃山脈の、四国霊場第八十八番札所「大窪寺」から大滝山辺りのことだと思われます。
大滝山山頂には、「大滝寺」「西照神社」が在り、大窪寺ともども空海が関わっています。
岩利大閑氏が、倭高安城の所在地に比定している場所でもあります。
大滝山山頂には、「大滝寺」「西照神社」が在り、大窪寺ともども空海が関わっています。
岩利大閑氏が、倭高安城の所在地に比定している場所でもあります。
その大滝山から流れ注でた野村谷川が、吉野川に接するところが「かわら」なのです。
矢河枝比売命とその御子、宇遅能和紀郎子の住所が判明したようなものです。
(続く)