応神天皇の物語は改めて書く予定ですが、その一部を紹介します。
というのも、仁徳天皇が、大后、石之日売命の留守中に、難波宮に迎えた八田若郎女(やたのわきいらつめ)とは、応神天皇の皇女なのです。
仁徳天皇の異母妹に当たります。
というのも、仁徳天皇が、大后、石之日売命の留守中に、難波宮に迎えた八田若郎女(やたのわきいらつめ)とは、応神天皇の皇女なのです。
仁徳天皇の異母妹に当たります。
一はしらの名は 高木之入日売命 次は中日売命 次は弟日売命。
又 丸邇之比布礼能意富実の女 名は宮主矢河枝比売に娶ひて
生みませる御子 | 宇遅能和紀郎子 | 。 |
次に妹 | 八田若郎女 | 次に女鳥王。 |
当地の神官、井開氏が、その天足彦国押人命の子孫であることは、何度か紹介しました。
応神天皇が、八田若郎女の母「矢河枝比売」と出会うくだりです。
故 木幡の村に到ります時に 麗美しき嬢子(おとめ)に其の道衢(ちまた)に遇(あ)へり。
尓(しか)して天皇 其の嬢子に問ひて 「汝(な)は誰(た)が子ぞ」と曰りたまふ。
答へて 「丸邇之比布礼能意富美の女、名は宮主矢河枝比売」と 白(まを)す。
天皇 其の嬢子に詔りたまはく「吾、明日還り幸いでまさむ時、汝の家に入り坐さむ」とのりたまふ。
故 矢河枝比売 委曲(つぶさ)に其の父に語る。
是に 父の答へて曰く。
「是は天皇に坐すなり。 恐(かしこ)し。 我が子 仕へ奉れ」
と云ひて 其の家を餝(かざ)り 候(さもら)ひ待てば 明日入り坐しき。
許能迦迩夜、伊豆久能迦迩 毛毛豆多布、都奴賀能迦迩 余許佐良布、伊豆久迩伊多流 伊知遲志麻、美志麻迩斗岐 美本杼理能、迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布、佐佐那美遲袁 須久須久登、和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知迩、阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波、袁陀弖呂迦母 波那美波、志比比斯那須 伊知比韋能、和迩佐能迩袁 波都迩波、波陀阿可良氣美 志波迩波、迩具漏岐由惠 美都具理能、曾能那迦都尓袁 加夫都久、麻肥迩波阿弖受 麻用賀岐、許迩加岐多禮 阿波志斯袁美那、迦母賀登 和賀美斯古良、迦久母賀登 阿賀美斯古迩、宇多多氣陀迩 牟迦比袁流迦母、伊蘇比袁流迦母 |
この蟹や いづくの蟹 百伝ふ | 都奴賀 | の蟹 |
横去らふ いづくに到る
伊知遅志麻 | 美志麻 | に着き |
みほどりの 潜き息づき
しなだゆふ | 佐佐那美路 | を すくすくと 我が行ませばや |
木幡の道に 遇はしし嬢子
後ろでは 小楯ろかも
歯並は 椎菱(しひひし)なす
櫟井(いちひゐ)の 丸邇坂(わにさ)の土(に)を
初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ
終土(しはに)は 丹黒(にぐろ)ぎ故
三栗の 其の中つ土を 頭突く 真日には当てず
眉がき 濃にかき垂れ 遇はしし女
かもがと 我が見し児ら
かくもがと 吾が見し児に
うたたけだに 向かひ居るかも い添ひ居るかも
かく御合ひして 生みませる御子 宇遅能和紀郎子なり。
「佐佐那美路」とは、どこでしょうか。
神功皇后が三韓征伐から倭に戻るとき、皇子(応神天皇)の異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が反乱を起こしますが、将軍・武振熊命の働きにより、これを平定します。
そして海辺の「沙沙那美」で反乱軍は壊滅し、忍熊皇子は、自軍の伊佐比宿禰とともに船で海に逃げます。
両軍は「山代」で戦いますが、太子軍が優勢になり、 | 逢坂 | へ追い詰めます。 |
そして海辺の「沙沙那美」で反乱軍は壊滅し、忍熊皇子は、自軍の伊佐比宿禰とともに船で海に逃げます。
伊奢阿藝 布流玖麻賀
伊多弖淤波受波 迩本杼理能
阿布美能宇美迩 迦豆岐勢那和
伊多弖淤波受波 迩本杼理能
阿布美能宇美迩 迦豆岐勢那和
即入海共死也
いざ我君(あぎ) 振熊が 痛手負はずは
海に入り、共に死にき。
にほどりの | 淡海の海 | に 潜(かづ)きせなわ |
海に入り、共に死にき。
「沙沙那美」とは、「淡海の海」の浜のことでした。
通説では、この「逢坂」が滋賀の「逢坂山」、「淡海の海」が「琵琶湖」ということになっています。
これは、「逢坂」が現・鳴門市の「大坂」、「淡海」はもちろん、「阿波の海」で、鳴門市沖を中心とした一帯の海です。
『万葉集』巻二、百五十三番
鯨魚取、淡海乃海乎、奥放而榜来[舟エ]邊附而、榜来船 奥津加伊、痛勿波祢曽、邊津加伊、痛莫波祢曽、若草乃嬬之念鳥立 |
「淡海乃海」には「クジラ」捕りの船が行き交っているのです。
これを琵琶湖とするような通説が、他の説を笑うことはできないでしょう。
文献には、「淡海」「淡海乃海」「近淡海」「遠淡海」と、いろいろ出てきますので、別の機会に書いてみます。
「淡海」は単純に海の名ですが、「淡海乃海」と書くからには、その海に面する地名がまた「淡海」となったと考えられます。
「淡海国」「近淡海国」というような表記もあります。
「淡海」は単純に海の名ですが、「淡海乃海」と書くからには、その海に面する地名がまた「淡海」となったと考えられます。
「淡海国」「近淡海国」というような表記もあります。
近淡海が(おうみ)で「近江」だというのですが、阿波、讃岐には、播磨灘を囲むように4か所の「小海」「青海」(共に“おうみ”)の地名があります。
「丸邇臣の祖。難波根子建振熊命」
「難波の吉師部の祖。伊佐比宿禰」
と記します。
すなわち、「沙沙那美」は、鳴門市北部の瀬戸内海沿岸ということになります。
(続く)