「天照大御神」は後の時代の諡名、とは、よく言われることですが、そういった神名は他にもたくさんあると知るべきです。
一番わかりやすいのは「記紀の物語上のキャラクターに一致した意味を持つ漢字」を当てた神名です。
記紀に中心的に登場する神々が、仮に実在した人物を神格化したものとして(そう考えているわけですが)、これらの方々が生きていた時代には日本ではまだ漢字を使っていなかったのですから、字義を当てた名前は漢字が輸入されたあとの産物だとわかります。
記紀に中心的に登場する神々が、仮に実在した人物を神格化したものとして(そう考えているわけですが)、これらの方々が生きていた時代には日本ではまだ漢字を使っていなかったのですから、字義を当てた名前は漢字が輸入されたあとの産物だとわかります。
そのひとつが「天手力男命」で、物語では岩戸を開いた天照大御神の手をとって外にお連れした神ですが、一般的には天照大御神が少しだけ開いた岩戸を一気に引き開いた(日本書紀の一書)高天原一の怪力の神といわれ、「天手力男」はいかにもそのエピソードに添って付けられた神名です。
したがって、その本来の名は「天背男命」か、また別の名でしょう。
したがって、その本来の名は「天背男命」か、また別の名でしょう。
そしてまた同じように、後世この神は「天石門別神」とも呼ばれたのです。
また、前回、記紀を読む上で注意するべき点として、古代の実力者は複数名を持つ、と書きましたが、付け加えるならば、その複数名の中には「称号名」があるということです。
称号の場合は、特定の個人を指すものもありますが、それが称号であるがゆえに、引き継がれるものもあります。
「天照大御神」が二人いた、と考える研究者は多いのですが、それは「天照大御神」「大日孁貴」が称号だからだともいえます。
称号の場合は、特定の個人を指すものもありますが、それが称号であるがゆえに、引き継がれるものもあります。
「天照大御神」が二人いた、と考える研究者は多いのですが、それは「天照大御神」「大日孁貴」が称号だからだともいえます。
記紀のなかに、それに匹敵するような称号がないだろうか?という目線で読めば、誰でも気づくと思いますが、その最たるものが「大国主」です。
だからこそ、記紀ともに、大国主命の系譜は乱れているのです。
大国主は一人ではなかったのだから、系譜が一致しなくて当然なのです。
だからこそ、記紀ともに、大国主命の系譜は乱れているのです。
大国主は一人ではなかったのだから、系譜が一致しなくて当然なのです。
天手力男命の子、天日鷲命も、その「称号」を引き継いだと考えられます。
『続阿波国風土記』には、天日鷲命の次妃が豊玉姫だと書かれていますが、前回書いたように、私は父の天手力男命と天日鷲命を「天石門別神」の称号で混同していると考えているので、もしそうなら、あるいは豊玉姫は本后かもしれません。
その子が、サルタヒコ。後のウズヒコ。そして後世「事代主」と呼ばれた人物です。
そして居住した地名または祭祀職名から取った名前が「大麻比古」です。
阿波国式内社の事代主神社の一社は勝浦郡にあり、事代主の生まれた土地であると伝わっています。
現在の徳島県勝浦郡に徳島市の一部と小松島市を含んだ海沿いの土地です。
同じ勝浦郡には、大国主命を祀る式内社、勝占神社もあります。
現在の徳島県勝浦郡に徳島市の一部と小松島市を含んだ海沿いの土地です。
同じ勝浦郡には、大国主命を祀る式内社、勝占神社もあります。
葛城・大麻(鳴門市)は、まさに事代主命縁の地ですが、その海岸部の一地域が「三津」です。
記紀は、それが書かれた当時の地名・神名・人名を当てて数百年前の物語を記していると書きましたが、この「三津」もその類なのです。
事代主命はこのときすでに、大国主命の跡を継ぎ(次の大国主になる予定だったと思われます)阿波の海岸部全域を支配していたのです。その居住地が旧板野郡(現在の鳴門市を含む)です。
記紀は、それが書かれた当時の地名・神名・人名を当てて数百年前の物語を記していると書きましたが、この「三津」もその類なのです。
事代主命はこのときすでに、大国主命の跡を継ぎ(次の大国主になる予定だったと思われます)阿波の海岸部全域を支配していたのです。その居住地が旧板野郡(現在の鳴門市を含む)です。
大麻比古神社の御祭神、大麻比古神は、天日鷲命の御子、猿田彦命=事代主命、と前回書きましたが、鹿江比賣神社の御祭神、鹿江比賣についても、『安房忌部氏系図』にある、大麻比古命の娘、千鹿江比売命の可能性が高いと思います。
『神名帳考証』には、
應神皇妃ニ宮主矢河枝比売ト云名アリ
とあり、定かではない御祭神について、候補となりうる複数の女神名をあげています。
また、鹿屋野比売神は八河比売に同じと書いてありますが、この八河比売についてははっきりわかりません。
記の大国主命の系譜において、子孫の国忍富神の后が、葦那陀迦神(あしなだかのかみ)、亦の名は八河江比売(やかはえひめ)とあります。
滋賀県甲賀市の式内社、矢川神社では、系譜の「この神」が大国主にかかると解釈して、八河江比売は大国主命の后としています。
滋賀県甲賀市の式内社、矢川神社では、系譜の「この神」が大国主にかかると解釈して、八河江比売は大国主命の后としています。
また、大国主命の后というならば、稲羽の八上姫も近い名として連想されます。
鹿江比賣神社の論社のひとつは、板野郡の葦稲葉(あし・いなば)神社に合祀されており、そこから東に7キロほどの場所が矢上、南に2キロほどの場所が高志なのです。
鹿江比賣神社の論社のひとつは、板野郡の葦稲葉(あし・いなば)神社に合祀されており、そこから東に7キロほどの場所が矢上、南に2キロほどの場所が高志なのです。
※2の地図を参照
大麻比古神社を基点として、その母か、后か、娘を祀った、と考えるのが自然かと思います。
丸邇之比布礼能意富美(わにのひふれのおほみ)の家は三島にありました。
三島溝咋耳(陶津耳)命こと、天日鷲命の居住地です。
三島溝咋耳(陶津耳)命こと、天日鷲命の居住地です。
矢河枝比売にかかる「宮主」とは、鹿江比賣神社の祭主のことかもしれません。
応神天皇の皇子「大山守皇子」と「菟道稚郎子皇子」(矢河枝比売の御子)の間に皇位継承の戦いがあったことを見ても、「大山」「矢(八)河(鹿)枝」は、阿波の中~東部にかかわる名詞だといえるでしょう。
そして「カエヒメ」の名が複数人に受け継がれていることを見ても、この「カエ」には何かしらの意味があるのでしょう。
応神天皇の皇子「大山守皇子」と「菟道稚郎子皇子」(矢河枝比売の御子)の間に皇位継承の戦いがあったことを見ても、「大山」「矢(八)河(鹿)枝」は、阿波の中~東部にかかわる名詞だといえるでしょう。
そして「カエヒメ」の名が複数人に受け継がれていることを見ても、この「カエ」には何かしらの意味があるのでしょう。
また、丸邇氏(わにうじ)の祖は、第5代孝昭天皇の第1皇子、天足彦国押人命です。
天足彦国押人命が、大麻比古神社の本当の御祭神であるという説が、上記ぐーたら先生のブログに紹介されています。
またあとで触れます。
次に、宇志比古神社の御祭神も諸説ありますが、「宇志比古神」であることは間違いなく、別名を探すのではなく、大麻比古神社と同じように、その名の通りなのだとすると『古代氏姓系譜集成』には、
※ウカノミタマ
別名をミケツカミ(御饌津神)という。
※保食神
月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
天照大神が保食神の所に天熊人を遣すと、保食神は死んでいた。
保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。
保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。
天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。
『古事記』では同様の説話がスサノオとオオゲツヒメの話となっている。
よって、保食神はオオゲツヒメと同一神とされることもある。
また、同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
神名のウケは豊受大神の「ウケ」、宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物の意味である。
よって、保食神はオオゲツヒメと同一神とされることもある。
また、同じ食物神である宇迦之御魂神とも同一視され、宇迦之御魂神に代わって稲荷神社に祀られていることもある。
神名のウケは豊受大神の「ウケ」、宇迦之御魂神の「ウカ」と同源で、食物の意味である。
別称、豊由宇気神、大物忌神、豊岡姫、止由気大神、止与宇可乃売神、とよひるめ、等々。
神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。
後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂尊)(うがのみたま)と習合し、同一視されるようになった。
後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂尊)(うがのみたま)と習合し、同一視されるようになった。
オオゲツヒメは『古事記』において五穀や養蚕の起源として書かれているが、『日本書紀』では同様の話がツクヨミがウケモチを斬り殺す話として出てくる。
なお、ここでオオゲツヒメはスサノオに殺されている筈だが、後に大年神の系譜においてハヤマトの妻として八神を生んだとの記述がある。
なお、ここでオオゲツヒメはスサノオに殺されている筈だが、後に大年神の系譜においてハヤマトの妻として八神を生んだとの記述がある。
しかし、岡上神社の「岡上」はどう見ても「地形」にしか見えず、他の神社名と比べてもいかにも不自然です。
実は、これは「宇迦之神」(うかのかみ)が訛って、「おかのかみ」→「岡上」と当て字された、という解釈がなされています。
実は、これは「宇迦之神」(うかのかみ)が訛って、「おかのかみ」→「岡上」と当て字された、という解釈がなされています。
豊受比売の別名のひとつが、豊岡姫であるように、です。
(続く)