空と風

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仁徳天皇は讃岐の天皇 1


難波(なにわ)が、現・大阪の古い呼称であるとされたのは、いつの時代からでしょうか?
調べてもわかりません。

記紀に登場する「難波」とは、『倭名抄』(931~938)に記されている香川県の「難波郷」のことなのです。

現在の「さぬき市」津田町の付近です。
少なくとも『倭名抄』大阪地方の郡名郷名に、難波の名は記されていません。




 第16代天皇。大雀命(おおさざきのみこと)。万葉集では難波天皇
 応神天皇の皇子。
 宮居は、難波の高津宮。

宋書』夷蛮伝、「倭国条」にみえる【倭の五王】のなかの【讃】を仁徳天皇とする説がありますが、
もしそうであれば、難波が讃岐の一部だからこそ、難波天皇倭王「讃」、と称されたと考えるのが自然でしょう。
通説では「難波は大阪」と思い込んでいるから、そういう発想が出てこないのです。
阿波説で言えば、応神天皇仁徳天皇の親子が讃岐とかかわり合いの深い天皇です。


大雀命、坐難波之高津宮、治天下也。  此天皇、娶葛城之曾都毘古之女、石之日賣命【大后】 生御子、大江之伊邪本和氣命。 次、墨江之中津王。 次、蝮之水齒別命。 次、男淺津間若子宿禰
 

 大雀命、難波の高津宮に坐(いま)して、天(あめ)の下、治(し)らしめしき。

 此の天皇、葛城の曾都毘古が女(むすめ)、石之日売命(いはのひめのみこと)【大后】
 に娶(あ)ひて、生れませる御子、大江の伊邪本和気命。
 次に墨江の中津王。次に蝮の水歯別命。次に男浅津間若子宿禰命。




古事記には、この大后(おほきさき)「石之日売命」が、大変に嫉妬深い女性であったと記されています。

 其の大后石之日売命、いたく多(さは)に、嫉(うはなり)妬(ねたみ)したまふ。
 故(かれ)天皇(すめらみこと)の使はせる妾(みめ)たちは、宮の中(うち)にえ臨(のぞ)まず、
 言(こと)立てば、足も阿賀迦(あがか)に、嫉みたまひき。

 ※天皇と妃の誰かの噂が立つと、皇后は足をばたつかせて嫉妬した。


 尓(しか)して天皇、吉備の海部直が女(むすめ)、名は黒日売、
 其の容姿端正(かたちうるは)しと聞こし看(め)して、喚(め)し上げて使ひたまふ。

 然れども、其の大后の嫉みを畏(かしこ)み、本つ国に逃げ下る。

 天皇、高き台(うてな)に坐し、其の黒日売の船、出でて海に浮かべるを
 望み瞻(み)て、歌ひ曰(の)りたまはく、

  沖方(おきへ)には 小船連(つら)らく くろざやの まさづこ我妹(わぎも) 国へ下らす

(私訳)
 沖を見ると小船が連なっている 黒鞘の刀のように妖しく美しい我妻が 故郷へ帰ってしまう

故、大后、是の御歌を聞き、いたく忿(いか)りたまひ、人を 大浦 に遺はし、
 追ひ下ろして、歩(かち)より追ひ去(や)りたまふ。



この「大浦」とは、いったいどこなのでしょうか?

難波之高津宮(なにはのたかつのみや)がどこにあったかは、通説でもはっきりしていません。
現在の大阪市中央区法円坂と「推定」されています。(難波宮跡公園)

「難波」が「大阪市」なので、「大浦」は、現在の「大阪湾のどこか」と言われています。

黒日売の故郷は「吉備」なのです。
吉備とは現在の岡山県のことですが、古代においてのその範囲は、はっきりせず、(Wikipedia)によれば、
現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部にまたがる古代有数の地方国家のひとつ、
となっています。



阿波古代史では、記紀に記されている時代の吉備國とは阿波にあり、徳島県東海岸部と考えています。
関連する話は、また今後書くことになると思います。

上記のように、難波之高津宮の場所は海の近くで、沖の様子が一望できる高台が宮の付近にあったのです。

大后の石之日売は、嫉妬の怒りのため、配下の者に黒日売の船を追わせ、「大浦」で追いつき、
強制的に日売を下ろし、歩いて帰郷させたのです。

黒日売の故郷は、大浦からは船でも歩きでも帰れる地方にあったことがわかります。
吉備が瀬戸内海対岸の国であれば、歩いて返すことはできません。


イメージ 1


現・鳴門市北灘町に「大浦」の地名がそのまま残っています。


イメージ 2

『倭名抄』 阿波国那賀郡 讃岐国寒川郡 他

黒日売は、吉備の「海部直」の娘、と記されていますが、徳島南東部には「海部郡」があります。
古代からの地名です。「海部」は(あまべ)とも読まれますが、阿波では古代から加伊布(かいふ)です。
『倭名抄』に記される阿波国那賀郡「海部郷」です。


丹後の海部直のルーツとも考えられる地方なのです。



話がいったん前後しますが、この逸話の後、大后のまた別の嫉妬話が語られます。

自此後時、大后爲將豐樂而、於採御綱柏、幸行木國之間、天皇婚八田若郎女。  於是大后、御綱柏積盈御船、還幸之時、 所驅使於水取司、吉備國兒嶋之仕丁、是退己國、於難波之大渡、遇所後倉人女之船。  乃語云、「天皇者、此日婚八田若郎女而、晝夜戲遊、若大后不聞看此事乎、靜遊幸行。」  尓其倉人女、聞此語言、即追近御船、白之状具如仕丁之言。  於是大后大恨怒。  載其御船之御綱柏者、悉投棄於海。故、號其地謂御津前也。

 此れより後時に、大后、豊楽(とよのあかり)したまはむと為(し)て、
 御綱柏(みつなかしわ)を採りに、木国(きのくに)に幸行(い)でましし間に、
 天皇、八田若郎女(やたのわかいらつめ)を婚(ま)きたまふ。

 是(ここ)に大后、御綱柏を御船(みふね)に積み盈(み)て、還(かへ)り幸(い)でます時に、
 水取司(もひとりのつかさ)に駈(は)せ使はゆる、吉備国の児島の仕丁(よほろ)、
 是、己が国に退(まか)るに、難波の大渡りに、後れたる倉人女(くらひとめ)の船に遇(あ)ふ。

 乃ち語りて云はく、
 「天皇は、比日(このごろ)八田芳郎女を婚きたまひて、昼夜戯遊(たはぶ)れます。
 もし大后は、此の事を聞こし看さねかも、静かに遊び幸行でます。」といふ。

 尓して、其の倉人女、此の語る言を聞き、御船に追ひ近づき、
 白(まを)す状(さま)具に(つぶさ)に仕丁の言の如し。

 是に大后、大(いた)く恨み怒り、
 其の御船に載せたる御綱柏、悉(ことごと)く海に投げ棄てたまふ。

故、其地(そこ)に号(なづ)けて、 御津(みつ)の前(さき) と謂(い)ふ。


上の地図をもう一度見てください。先の「大浦」の西に、「三津」の地名も見えます。

(続く)