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式内社(室比賣神社)比定① 阿津神社 海部郡海陽町

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日本一社 延喜式式内社 阿波國那賀郡 室比賣神社  (論社) 阿津神社
 
鎮座地 徳島県海部郡海陽町相川字阿津1
 
御祭神 木花開耶姫(このはなさくやひめ)命
 
 
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 創立年代不詳。往古より室比売(むろひめ)神社と称し、遠近の崇敬が厚い。
 
永亨元年(1429)の棟札写に、式内室比売神社とある。
 
明治3年、阿津神社と改称。
昭和28年、付近の拾弐社を合祀。
 
 
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 御祭神のコノハナノサクヤヒメは、
 
古事記』では、神阿多都比売(カムアタツヒメ) 
日本書紀』では、鹿葦津姫(カシヅヒメ)、または、葦津姫(アシヅヒメ)、を本名としている。
 
大山津見神の娘で、天孫邇邇芸命の后である。
 
木花開耶姫は、邇邇芸命の子を一夜で身籠るが、そのために国津神の子ではないかと疑われ、その疑いを晴らすために、「室」を作り、火を放ち、その中で出産するという「誓約」を行った。
室姫の名は、ここから起こったと考えられる。
 
神阿多都比売阿多は、地名の可能性が高いが、思い出されるのは、神武天皇の妃である阿比良比売の兄、阿多の小椅の君、である。
 
「小椅の君」とは、天村雲命のことであると、当ブログで何度か書いてきた。
天村雲命は、高天原からの降臨に随伴して、邇邇芸命から小椅の称号を得ているのである。
当社と同じ、海部郡海陽町式内社に 和奈佐意富曾神社 がある。
この神社と、当地の地名「海部」と「海部氏」、「和奈佐」と出雲・丹後の関係、天村雲命とこれらの関わりについても記してきた。
 
 
神武天皇の時代、天村雲命は当地にあったと思われる阿多にいた可能性が高い。
 
 
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 『阿波志』に
 
 室比売祠……或は曰く、海部郡相川村室津 阿津神是也。相川村に御室祠あり
 
と。
また『阿府志』には
 
 室比売神社、相川村室津と云ふ所に在り。安津明神と号す。
 吾田鹿葦津姫(あたかあしづひめ)を祭る。
 又木花咲耶姫、大山祇等大宣津姫之娘也と。
 述者按には安の字は室の字の誤りならん、無戸室の字なるべし。
 今安津明神とは謬れるか。室津は此郷の名地
 殊に霊験あらたかに諸人尊敬し、病人痛所等所るに忽ち霊験ありと。
 今は社も甚微なり。
 
と記す。
 

葦津姫は上記のように、木花開耶姫の別名で、その頭に「吾田=阿多」の地名が付いている。
阿津神社は、江戸時代には「安津明神」と呼ばれていたが、文献上の誤字のせいで、本来は「室津明神」だったのではないか?という。
 
つまりは、
 
 室の津の姫」を、 阿多の都(つ)の姫」、 「吾田の葦津(あしづ)の姫」
 
と、呼んだと考えられるわけである。
 
ところで、室津という地名は、淡路島にもあるのだが、その地の由来は、神武天皇の東征先導役が室津に港を建設した、というものである。
なんという偶然、というよりも、阿波説を知る者なら、う~んと唸ってしまうのではないか。
 
 
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 大日本史』に
 
 室比売神社、今在海部郡相川村室津阿津明神者蓋是
 
『寛保帳』に
 
 相川村三室大明神、神主細野村、惣太夫(式内室比売神社恐是)
 
『神社覈録』に
 
 室は牟呂と訓べし。比売は假字也。祭神明か也。在所慥ならず。当国神社帳。
 相川村、御室大明神と云うあり。
 度会清在云或云開化皇子日子坐王御子室日古王と云うあり。
 若狭耳別之祖也。此皇子の后にや。
 かかる例自余にもあり 。
 
『海部郡取調廻在録』に
 
神社、小名室津、阿津大明神、此社は延喜式神名帳に出たる室比売神社とまふし伝ふ、
按に小名室津に御鎮座なればめでたけれ、さて社号の阿字安字も書し事のあるよし、されば室字を誤りて安字を書きしものにあらんか、いつにても式社とまかいるもかるべし、さて御神徳あらたにて都中はさらなり土洲などよりもおびたゞしく参詣あるよし小名 村山、御室大明神、さて室比売神社は安津大明神よりも此社ならん、考ひなおそんじはべる、
さて小名の村山のムラムロと通ふなればなり、さすれば室山大明神となり、
社号は慥に室字をしけるこそよりところならんか、
ここかしこと定めて式社とまふしがたければかくまふしおくものなり。
 
と。
なお延喜式内室比売神社については、阿南市新野町室久保、轟神社に比定する説もあるが、「阿波志」「式社畧号」「神祇史料」等、当社にあてている説が有力である。

※参考『徳島県神社誌』
 
 
 『海部郡取調廻在録』では、さらにくわしく、上記の 阿津大明神は、相川村の室津
御室大明神は、相川村の村山、に鎮座する別の神社であると記している。
 
御室大明神は現存するのだろうか?
もっと調べてから行けばよかった。
 
この御室大明神について、上に「度会清在云・・・云々」とあるが、補足しておく。
 
「度会清在」(わたらいきよあり)とは、1682~1736江戸時代中期の国学者神職で、伊勢神社外宮の高宮玉串内人である。
 
師の一人である度会延経(わたらいのぶつね)が、30年をかけ全国の式内社を考証した『神名帳考証』(1714・完成1733)をもとに、度会延賢が書いた『神名帳考証撿録』に加筆している一人である。
 
その度会清在が云うには、或云(あるいはいう)として、
 
開化天皇の皇子である日子坐王(ひこいますのみこ)の御子「室日古王」(むろひこのみこ)の后が、室比賣神社の祭神たる「室比賣」
 
である、という説を紹介している。
ちなみに、この度会神主(伊勢外宮)の祖神が、上記の天村雲命である。
 
開化天皇=若倭根子日子大毘々命(わかやまとねこひこおおびびのみこと)は、第9代天皇で、父は孝元天皇=大倭根子日子国玖琉命(おおやまとねこひこくにくるのみこと)。
 
孝元天皇の妃で、開化天皇の皇后、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を祀る式内社は、日本で唯一、徳島県吉野川市の 「伊加賀志神社」 のみである。
 
孝元天皇の妃の一人、埴安媛は、徳島県小松島市の式内「建嶋女祖命神社」で祀られている。
 
開化天皇の兄で孝元天皇の第一皇子、大彦命(おおびこのみこと)は、香川の式内「布勢神社」で祀られている。
 
第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命を祀る式内「水主神社」の西隣である。 
 
第5代孝昭天皇=御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかえしねのみこと)を祀る式内社も、日本唯一、徳島県佐那河内村の「御間都比古神社」のみ。
 
孝元天皇の皇女にも「御真津比売命」(みまつひめのみこと)がいる。
古代の皇族、豪族の氏名には、地名が使われることが多いのは言うまでもない。
 
伊勢神社外宮の神職、度会氏を中心に数十年、数代、数人をかけて考証した式内社の研究で、当社の御祭神を開化天皇の親族に求める一説が浮上するには、このような周辺の式内社やその御祭神、由緒や沿革、所在地と地名等の傍証があったものと想像される。
 
 
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左の丸印付近の地名が村山なので、この神社が御室大明神か ?
 
当社の場所は分かりづらい。
R298を西に向かい、室浄(地図には室浄となっているが室津の間違いか?)集会所を過ぎて、左を注視していると小さな案内板がある。
それを左折し道なりに未舗装の道を進むと在る。
 
 
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