徳島新聞に『阿波の民話』というコーナーがありますが、先日の話は 「男狭磯」 でした。
男狭磯 鳴門市
ほんで、島の神様におうかがいすると、
「ケモノがとれんのはわしがそうさせとるからじゃ。
赤石(あかいし)の海の底に見事な真珠がある。
ほの真珠を捕ってきてわしにまつれば猟は思いのままじゃ」
赤石(あかいし)の海の底に見事な真珠がある。
ほの真珠を捕ってきてわしにまつれば猟は思いのままじゃ」
って、おおせられた。
早速、全国から潜りの名人を集めて赤石の海の底へ潜らせた。
ところが、海があんまりにも深いんで、だれ一人海の底まで届いたもんはおらなんだ。
ところが、海があんまりにも深いんで、だれ一人海の底まで届いたもんはおらなんだ。
「海の底に大けなあわびがおりました。ほの辺りが光っとります」
と、申し上げた。天皇は
「ほれじゃ。島の神が欲しいちゅう玉はほのあわびの腹ん中にあるはずじゃ」
ほんで、男狭磯はまた海の底へ潜った。だいぶんしてから男狭磯は、
大けなあわびを抱えて浮き上がってきた。
しかし、海ん中であんまりおったんで、息が絶えて波の上でのうなってしもうた。
大けなあわびを抱えて浮き上がってきた。
しかし、海ん中であんまりおったんで、息が絶えて波の上でのうなってしもうた。
島の神さんは、
「こんな見事な真珠をまつってくれたんはうれしいが、ほのため海士(あま)が死んだそうな。
丁重に葬ってやれ」
丁重に葬ってやれ」
と、言われた。天皇は早速家来に命じて墓を造らせた。ほれが里浦にあるアマヅカじゃ。
さて、男狭磯の住んどったとこが阿波の国、長邑(ながのむら)じゃ。
大昔、旧の那賀郡(なかごおり)、海部郡(かいふごおり)を長国(ながのくに)(邑(むら))
ちょった。ほこの海士じゃった。
ちょった。ほこの海士じゃった。
長邑の潜りは有名で「延喜式(えんぎしき)」の中に、
那賀(なか)の潜女(かつぎめ)が「あわび四十五編(しじゅうごあみ)、
すあわび十五坩(じゅうごつぼ)」を献上したとある。
すあわび十五坩(じゅうごつぼ)」を献上したとある。
潜女は海女じゃ。男狭磯は男じゃ。
椿泊浦(つばきどまりうら)や海部郡(かいふごおり)では
男も女も潜りをして暮らしをたてておった。
男も女も潜りをして暮らしをたてておった。
おーしまい。
徳島新聞Web 阿波の民話 より。
この物語は、『日本書紀』卷十三 允恭紀 に記されています。
原文
十四年秋九月 癸丑朔甲子 天皇獦于淡路島
時麋鹿、猿、豬、莫莫紛紛盈于山谷 焱起蠅散 然終日以不獲一獸 於是獦止以更卜矣
島神祟之曰 「不得獸者是我之心也 赤石海底有真珠 其珠祠於我 則悉當得獸」 爰更
集處處之白水郎 以令探赤石海底 海深不能至底
島神祟之曰 「不得獸者是我之心也 赤石海底有真珠 其珠祠於我 則悉當得獸」 爰更
集處處之白水郎 以令探赤石海底 海深不能至底
唯有一海人 曰-男狹磯 是阿波國長邑之海人也
勝於諸海人 是腰繫繩入海底 差頃之
出曰 「於海底 有大鰒 其處光也」
諸人皆曰 「島神所請之珠 殆有是鰒腹乎」 亦入探之
出曰 「於海底 有大鰒 其處光也」
諸人皆曰 「島神所請之珠 殆有是鰒腹乎」 亦入探之
爰男狹磯抱大鰒而泛出之 乃息絕以死浪上
既而下繩測海底,六十尋
既而下繩測海底,六十尋
則割鰒 實真珠有腹中 其大如桃子 乃祠島神而獦之 多獲獸也
唯悲男狹磯入海死之
則作墓厚葬 其墓猶今存之
則作墓厚葬 其墓猶今存之
阿波國長邑之海人 |
「男狹磯」を
赤石海底 |
へ潜らせました。
上記のように原文にもしっかり「赤石」と書かれていますが、「通説」ではこれが兵庫県の「明石」のことになっています。
「赤石」とは、現・小松島市の地名なのでした。
「難波」(仁徳)天皇の御子、「鳴門」(大麻)地方の(おあさづま わくごのすくね)天皇が、「淡路島」の神の神託を受け、「長邑」の「男狹磯」を呼び寄せ、「赤石」の海底に潜らせた、という物語です。
自然な位置関係です。
自然な位置関係です。
全て Yahoo!地図 |
民話に出てくる「里浦にあるアマヅカ」というのが、徳島県鳴門市里浦字坂田にある「蜑(あま)塚」です。
男狭磯の墓と云われるものには、淡路島の石寝屋古墳などもありますが、根拠はないようです。
詳しい地図で見る
蜑塚 |
あま塚にも諸説あり、例によって後世のこじつけもまぎれているようです。
男狭磯の墓であるという説のほかには、阿波で崩御された土御門上皇の塚という説、清少納言の墓という説があります。
つまり、あま塚の「あま」を、「海」(あま)、「天」(あま)、「尼」(あま)、と読み分けているのです。
人丸神社 |
明石市には、柿本人麻呂を祀る「柿本神社」がありますが、鳴門にも「人丸神社」があり、以前そこへ参拝した時、すぐ近くで「清少納言の墓」という案内板を見つけ、なんでこんな場所に清少納言の墓が?と思いながら通り過ぎたのでした。
男狭磯は赤石で水死したのだから、普通であれば、その赤石の地か、住まいのある長邑の海辺の里に葬られるでしょう。
唯悲男狹磯入海死之 則作墓厚葬.其墓猶今存之
「男狭磯が海に入って死んでしまった事を悲しみ、墓をつくり厚く葬った。その墓は今も残っている」
このように天皇の痕跡や男狭磯の出身地、「淡路島」と「赤石」と「長の邑」の位置関係などを総合すると、あま塚は男狭磯の墓であると考えるのが一番自然でしょう。