空と風

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允恭天皇と男狭磯の墓

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徳島新聞に『阿波の民話』というコーナーがありますが、先日の話は 「男狭磯」 でした。

男狭磯 鳴門市

 允恭天皇(いんぎょうてんのう)の十四年九月十二日、
 天皇は淡路島へ狩りに出かけられたそうな。

 淡路島には鹿や猿、猪がようけおった。ところが、天皇や家来どもが島中を走り回っても、
 一匹のケモノも捕れなんだ。
 こんなことは今までになかった。

 ほんで、島の神様におうかがいすると、

 「ケモノがとれんのはわしがそうさせとるからじゃ。
 赤石(あかいし)の海の底に見事な真珠がある。
 ほの真珠を捕ってきてわしにまつれば猟は思いのままじゃ」

 って、おおせられた。

 早速、全国から潜りの名人を集めて赤石の海の底へ潜らせた。
 ところが、海があんまりにも深いんで、だれ一人海の底まで届いたもんはおらなんだ。

 ほのとき、天皇は阿波(あわ)の長邑(ながのむら)に男狭磯(おさし)ちゅう
 潜りの名人がおるんを聞いて呼び寄せた。


 ほんで、天皇は男狭磯を呼ばせた。
 やってきた男狭磯に、腰に長い縄をくくり付けて海底へ潜らせた。
 だいぶんして浮き上がりながら、

 「海の底に大けなあわびがおりました。ほの辺りが光っとります」

 と、申し上げた。天皇

 「ほれじゃ。島の神が欲しいちゅう玉はほのあわびの腹ん中にあるはずじゃ」

 ほんで、男狭磯はまた海の底へ潜った。だいぶんしてから男狭磯は、
 大けなあわびを抱えて浮き上がってきた。
 しかし、海ん中であんまりおったんで、息が絶えて波の上でのうなってしもうた。

 天皇が縄で海の深さを測らせると、なんと六十尋(109.72メートル)もあった。
 この深さでは並の海士はよう潜れんだろうとささやきおうた。

 早速、あわびの腹を割くと桃の実ほどの大けな真珠が出てきた。
 天皇はほの真珠を島の神さんにお供えして狩りを始めた。おもっしょいほどの獲物があった。


 島の神さんは、

 「こんな見事な真珠をまつってくれたんはうれしいが、ほのため海士(あま)が死んだそうな。
 丁重に葬ってやれ」

 と、言われた。天皇は早速家来に命じて墓を造らせた。ほれが里浦にあるアマヅカじゃ。

 さて、男狭磯の住んどったとこが阿波の国、長邑(ながのむら)じゃ。

 大昔、旧の那賀郡(なかごおり)、海部郡(かいふごおり)を長国(ながのくに)(邑(むら))
 ちょった。ほこの海士じゃった。

 長邑の潜りは有名で「延喜式(えんぎしき)」の中に、

 那賀(なか)の潜女(かつぎめ)が「あわび四十五編(しじゅうごあみ)、
 すあわび十五坩(じゅうごつぼ)」を献上したとある。

 潜女は海女じゃ。男狭磯は男じゃ。

 椿泊浦(つばきどまりうら)や海部郡(かいふごおり)では
 男も女も潜りをして暮らしをたてておった。

 今でも海部郡(かいふぐん)では海へ入ってあわびやさざえを捕るんを「かづく」ちよるが、
 これは古い言葉で、すでに允恭天皇の時代から那賀郡、海部郡の潜りはよう知られとった。

 おーしまい。






この物語は、『日本書紀』卷十三 允恭紀 に記されています。

原文

十四年秋九月 癸丑朔甲子 天皇獦于淡路島

  時麋鹿、猿、豬、莫莫紛紛盈于山谷 焱起蠅散 然終日以不獲一獸 於是獦止以更卜矣
  島神祟之曰 「不得獸者是我之心也 赤石海底有真珠 其珠祠於我 則悉當得獸」 爰更
  集處處之白水郎 以令探赤石海底 海深不能至底

  唯有一海人 曰-男狹磯 是阿波國長邑之海人也 

  勝於諸海人 是腰繫繩入海底 差頃之
  出曰 「於海底 有大鰒 其處光也」
  諸人皆曰 「島神所請之珠 殆有是鰒腹乎」 亦入探之

  爰男狹磯抱大鰒而泛出之 乃息絕以死浪上
  既而下繩測海底,六十尋

  則割鰒 實真珠有腹中 其大如桃子 乃祠島神而獦之 多獲獸也 

  唯悲男狹磯入海死之
  則作墓厚葬 其墓猶今存之



阿波古代史では、第19代允恭天皇、雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくね)天皇の「おあさ」は「大麻」で、現在の鳴門地方に坐す天皇

かつて、この鳴門市大麻の地に日本唯一の「允恭天皇神社」が在りました。
明治期の『阿波名勝案内』にも記されているほどの神社でした。
関連する二基の古墳も残っています。

父、仁徳天皇は、讃岐の難波天皇、兄の第18代反正(はんぜい)天皇も阿波に坐して、江戸時代、幕命によって徳島藩が古墳を発掘しています。

したがって、允恭天皇鳴門海峡を渡って淡路島へ狩りに出かけたのですが、神託に従って

阿波國長邑之海人

「男狹磯」を

赤石海底

へ潜らせました。

上記のように原文にもしっかり「赤石」と書かれていますが、「通説」ではこれが兵庫県の「明石」のことになっています。

万葉集などの歌にも「赤石」を詠んだものが何首もありますが、全て「明石」のこととされています。
ひどいものです。

「赤石」とは、現・小松島市の地名なのでした。


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「難波」(仁徳)天皇の御子、「鳴門」(大麻)地方の(おあさづま わくごのすくね)天皇が、「淡路島」の神の神託を受け、「長邑」の「男狹磯」を呼び寄せ、「赤石」の海底に潜らせた、という物語です。
自然な位置関係です。


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全て Yahoo!地図

民話に出てくる「里浦にあるアマヅカ」というのが、徳島県鳴門市里浦字坂田にある「蜑(あま)塚」です。
男狭磯の墓と云われるものには、淡路島の石寝屋古墳などもありますが、根拠はないようです。


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蜑塚

あま塚にも諸説あり、例によって後世のこじつけもまぎれているようです。
男狭磯の墓であるという説のほかには、阿波で崩御された土御門上皇の塚という説、清少納言の墓という説があります。

つまり、あま塚の「あま」を、「海」(あま)、「天」(あま)、「尼」(あま)、と読み分けているのです。


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人丸神社

明石市には、柿本人麻呂を祀る「柿本神社」がありますが、鳴門にも「人丸神社」があり、以前そこへ参拝した時、すぐ近くで「清少納言の墓」という案内板を見つけ、なんでこんな場所に清少納言の墓が?と思いながら通り過ぎたのでした。


男狭磯は赤石で水死したのだから、普通であれば、その赤石の地か、住まいのある長邑の海辺の里に葬られるでしょう。

しかし、男狭磯は淡路島の神(島神とあるので伊弉諾命のことか?)の神託を実現しようと、允恭天皇のために深海に潜り亡くなったわけだから、

 唯悲男狹磯入海死之 則作墓厚葬.其墓猶今存之

「男狭磯が海に入って死んでしまった事を悲しみ、墓をつくり厚く葬った。その墓は今も残っている」

とあるように、允恭天皇の坐す大麻(おあさ)現・鳴門地方で一番淡路島寄りの海辺の地に厚く葬られたのであり、その扱いは長邑の家族や親族にとっても名誉なことだったに違いありません。

このように天皇の痕跡や男狭磯の出身地、「淡路島」と「赤石」と「長の邑」の位置関係などを総合すると、あま塚は男狭磯の墓であると考えるのが一番自然でしょう。