空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

難波宮は難波になかった

ここでまた一旦、仁徳天皇の話から外れます。

 

記紀に登場する「難波」が、讃岐(香川県)の難波郷である、という事実をこれまでに数回書きましたが、その難波が大阪ではなかったことを裏付ける万葉集の歌を紹介します。



イメージ 1

 

 

聖武天皇(しょうむてんのう)
第45代天皇(在位724~749)
文武(もんむ)天皇の第1皇子。

 

岩利大閑説によれば、阿波(倭)から奈良(大倭)への遷都が完了したのが、文武天皇の御宇。
通説に照らしても、聖武天皇の時代の帝都は「平城京」です。



天平6年(734)3月、
聖武天皇難波宮行幸にお供した舟王(ふねのおおきみ)が詠んだ歌が万葉集に残されています。

舟王は、第47代 淳仁(じゅんにん)天皇の兄にあたります。

 

【春三月幸于難波宮之時歌六首】

 

 如眉 雲居尓所見 阿波乃山 懸而榜舟 泊不知毛
 (万葉集 巻6-998)
 眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊り知らずも

 

一般的な解釈は、
眉のように雲間に見える阿波の山 
その山々をめざし漕いでいく船は、どこに泊まるのだろうか。
というものです。



前回書いたように、通説の難波宮は、大阪市中央区法円坂です。
従って、この歌は大阪の海岸から沖の船とその向こうの風景を見て詠んだものと解釈されています。

 

みなそれで納得しているのです。
しかし、ここで大問題が発生します。

見えないのです。

 

しかも、「眉のごと、雲居に見ゆる」とは、もっとかなり近い距離から阿波の山を見上げている、と普通なら感じませんか?
そこで、苦し紛れの解釈が出てきます。
 
「阿波の山」 とは 「淡路島」 を含む

というのです。
これで納得しているのです。
いや、納得せざるを得ないのです。

 

なにせ、難波宮は、この歌を詠んでいる場所の後方、背中側なのですから。
しかし、土地鑑のある人、歌心のある人がそれで納得できますか?
淡路島も山だらけの島ですが、とても「雲居に見ゆる」という感じではありません。
徳島県海岸寄り地方の人々からも「空(そら)」と呼ばれる四国の山脈とはスケールが違うのです。

 

難波宮が通説通りなら、聖武天皇の一行は、平城宮を出て、陸路または淀川を利用して、現大阪市へ向かったと考えられます。
そして、目的地であるはずの難波宮を通り過ぎ、海辺に出たわけです。

 

岩利大閑氏は、この歌を「武庫浦を出港し、四国の難波宮へ向かう船上で詠んだ歌」であると解釈します。

 

そもそも、この歌を「阿波の山を目標に漕ぎゆく船を浜から眺めている」と解釈する方が不自然ではないでしょうか。
「懸けて」は、「掛けて」「架けて」であり、自分たちがその船に載っていることを表しているといえます。
あるいは、「目掛けて」と「掛けて(乗って)」を文字通り「かけて」歌を詠んだのかもしれません。

 

大阪の難波宮へ行くのに、その難波宮をはるかに通り過ぎ、さらに船に乗って四国沖へ漕ぎ出し、そこからUターンする人間はいないでしょう。

 

そこでもう一度この歌を見てみます。
この歌には「幸于難波宮之時歌六」との題がついています。
ではと、他の五首を見てみると、うち二首に地名がでてきます。

 

住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀度南
すみのえの こはまのしじみ あけもみず こもりてのみや こひわたりなむ

 

馬之歩 押止駐余 住吉之 岸乃黄土 尓保比而将去
うまのあゆみ おさへとどめよ すみのえの きしのはにふに にほひてゆかむ

 

ともに、住吉(すみのえ)です。
「住吉」「住之江」という地名は現存しますが、万葉集に出てくるこの住吉(すみのえ)は場所が不明で、現在の地名とは関係がありません。

 

同じく、万葉集の (巻3-283)には、次の歌がありました。
 
墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊従 出流船人
すみのえの えなつにたちて みわたせば むこのとまりゆ いづるふなびと

 

※住吉の得名津に立って見渡すと、武庫の港から舟人たちが漕ぎ出してゆくのが見える。
 
この歌で「武庫の港」と「住吉」は、隣接していたことが分かります。
つまり、上の舟王の歌が船上で詠まれたものならば、岩利氏の言うように、「武庫浦」の港を出港した可能性が高いのです。
この「武庫浦の港」の場所も特定されていませんが、おおむね現在の神戸市灘区の付近と考えられています。



イメージ 2

 

 

幸于難波宮之時」であるはずなのに、平城京から通説の難波宮をはるかに通り過ぎて、西へ移動しています。

 

私はこの場所に立ったことがないので、そこから四国がどう見えるかわかりません。
しかしどうでしょう?
地図で見る限り、淡路島に遮られ、「阿波の山」は到底見えそうにありません。

 

難波宮大阪市であり、住吉(すみのえ)・武庫浦からは阿波が見えない。
「阿波の山」とは「淡路島」、と解釈するしかないことがよくわかります。



しかし、これまで見てきたように、難波宮が讃岐にあり、この歌が四国へ向かう船上で詠まれたものだとすれば、何の矛盾もなく歌の通りに解釈できます。
遷都した後も、瀬戸内の風光明媚な難波宮は、今で言えば御用邸のような御静養先として利用されたのかもしれません。
ここで私の解釈を書いてみます。

 

「阿波の山」と聞けば、徳島県人なら「四国山地」を思い浮かべるでしょう。
しかし、古代において現在の県境線のようなものがあったわけでもなく、阿讃(讃岐)山脈も含まれていたかもしれません。

 

どちらにせよ、「眉のごと 雲居に見ゆる」距離までは船が近づいたのであり、それは古代阿波史の観点からすれば、聖地にも近い鳴門・徳島沖から眺める山々だったのでしょう。

地図を見ればわかるように、古代の関西最大の港「武庫浦」を出港し讃岐の難波宮へ往くには、明石海峡を抜けて淡路島の西側に出るのが普通だと思います。
ところが、せっかくの旅であるからと、故国阿波の景色を眺めつつの船旅にしようと、淡路島の東に航路をとったのではないでしょうか?

 

しかし、このルートを通ると日本一潮流の速い鳴門海峡に出ます。
そこから難波(讃岐)へ向かうには、若干迂回して阿波の沿岸に向かい、小鳴門海峡を抜けることになると思われます。

 

それゆえに、「泊り知らずも」(先の行程が読めない)、と詠ったのではないでしょうか?

 

さらに眺めると、万葉集には、こういう歌もありました。
 
武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
むこうらを こぎみるをぶね あはしまを そがひにみつつ ともしきをぶね
(巻3-358)

 

意味は、
武庫の浦を 漕ぎ回る舟は 粟島を 後ろに眺め 羨ましい船ぞ
羨ましきや 粟島を背後に 見る小船
だそうです。

 

「粟島」は、「未詳」「淡路島か、阿波の国かとも言われる」

 

と、されています。

 

前回 仁徳天皇は讃岐の天皇 ② の「淡島」を思い出してください。

 

この歌から、武庫の浦を出入りする船は、「阿波島」を間近に眺める航路を行き来していたことが分かります。