ここでまた一旦、仁徳天皇の話から外れます。
聖武天皇(しょうむてんのう)
第45代天皇(在位724~749)
文武(もんむ)天皇の第1皇子。
天平6年(734)3月、
聖武天皇の難波宮行幸にお供した舟王(ふねのおおきみ)が詠んだ歌が万葉集に残されています。
眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 懸けて漕ぐ舟 泊り知らずも
一般的な解釈は、
眉のように雲間に見える阿波の山
その山々をめざし漕いでいく船は、どこに泊まるのだろうか。
というものです。
みなそれで納得しているのです。
しかし、ここで大問題が発生します。
見えないのです。
しかし、ここで大問題が発生します。
見えないのです。
しかも、「眉のごと、雲居に見ゆる」とは、もっとかなり近い距離から阿波の山を見上げている、と普通なら感じませんか?
そこで、苦し紛れの解釈が出てきます。
「阿波の山」 とは 「淡路島」 を含む
というのです。
これで納得しているのです。
いや、納得せざるを得ないのです。
なにせ、難波宮は、この歌を詠んでいる場所の後方、背中側なのですから。
しかし、土地鑑のある人、歌心のある人がそれで納得できますか?
淡路島も山だらけの島ですが、とても「雲居に見ゆる」という感じではありません。
徳島県海岸寄り地方の人々からも「空(そら)」と呼ばれる四国の山脈とはスケールが違うのです。
淡路島も山だらけの島ですが、とても「雲居に見ゆる」という感じではありません。
徳島県海岸寄り地方の人々からも「空(そら)」と呼ばれる四国の山脈とはスケールが違うのです。
岩利大閑氏は、この歌を「武庫浦を出港し、四国の難波宮へ向かう船上で詠んだ歌」であると解釈します。
そもそも、この歌を「阿波の山を目標に漕ぎゆく船を浜から眺めている」と解釈する方が不自然ではないでしょうか。
「懸けて」は、「掛けて」「架けて」であり、自分たちがその船に載っていることを表しているといえます。
あるいは、「目掛けて」と「掛けて(乗って)」を文字通り「かけて」歌を詠んだのかもしれません。
「懸けて」は、「掛けて」「架けて」であり、自分たちがその船に載っていることを表しているといえます。
あるいは、「目掛けて」と「掛けて(乗って)」を文字通り「かけて」歌を詠んだのかもしれません。
そこでもう一度この歌を見てみます。
住吉乃 粉濱之四時美 開藻不見 隠耳哉 戀度南
すみのえの こはまのしじみ あけもみず こもりてのみや こひわたりなむ
馬之歩 押止駐余 住吉之 岸乃黄土 尓保比而将去
うまのあゆみ おさへとどめよ すみのえの きしのはにふに にほひてゆかむ
ともに、住吉(すみのえ)です。
「住吉」「住之江」という地名は現存しますが、万葉集に出てくるこの住吉(すみのえ)は場所が不明で、現在の地名とは関係がありません。
「住吉」「住之江」という地名は現存しますが、万葉集に出てくるこの住吉(すみのえ)は場所が不明で、現在の地名とは関係がありません。
同じく、万葉集の (巻3-283)には、次の歌がありました。
墨吉乃 得名津尓立而 見渡者 六兒乃泊従 出流船人
すみのえの えなつにたちて みわたせば むこのとまりゆ いづるふなびと
※住吉の得名津に立って見渡すと、武庫の港から舟人たちが漕ぎ出してゆくのが見える。
この歌で「武庫の港」と「住吉」は、隣接していたことが分かります。
つまり、上の舟王の歌が船上で詠まれたものならば、岩利氏の言うように、「武庫浦」の港を出港した可能性が高いのです。
この「武庫浦の港」の場所も特定されていませんが、おおむね現在の神戸市灘区の付近と考えられています。
この「武庫浦の港」の場所も特定されていませんが、おおむね現在の神戸市灘区の付近と考えられています。
私はこの場所に立ったことがないので、そこから四国がどう見えるかわかりません。
しかしどうでしょう?
地図で見る限り、淡路島に遮られ、「阿波の山」は到底見えそうにありません。
しかしどうでしょう?
地図で見る限り、淡路島に遮られ、「阿波の山」は到底見えそうにありません。
しかし、これまで見てきたように、難波宮が讃岐にあり、この歌が四国へ向かう船上で詠まれたものだとすれば、何の矛盾もなく歌の通りに解釈できます。
遷都した後も、瀬戸内の風光明媚な難波宮は、今で言えば御用邸のような御静養先として利用されたのかもしれません。
ここで私の解釈を書いてみます。
遷都した後も、瀬戸内の風光明媚な難波宮は、今で言えば御用邸のような御静養先として利用されたのかもしれません。
ここで私の解釈を書いてみます。
どちらにせよ、「眉のごと 雲居に見ゆる」距離までは船が近づいたのであり、それは古代阿波史の観点からすれば、聖地にも近い鳴門・徳島沖から眺める山々だったのでしょう。
地図を見ればわかるように、古代の関西最大の港「武庫浦」を出港し讃岐の難波宮へ往くには、明石海峡を抜けて淡路島の西側に出るのが普通だと思います。
ところが、せっかくの旅であるからと、故国阿波の景色を眺めつつの船旅にしようと、淡路島の東に航路をとったのではないでしょうか?
それゆえに、「泊り知らずも」(先の行程が読めない)、と詠ったのではないでしょうか?
さらに眺めると、万葉集には、こういう歌もありました。
武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟
むこうらを こぎみるをぶね あはしまを そがひにみつつ ともしきをぶね
(巻3-358)
意味は、
武庫の浦を 漕ぎ回る舟は 粟島を 後ろに眺め 羨ましい船ぞ
羨ましきや 粟島を背後に 見る小船
だそうです。
「粟島」は、「未詳」「淡路島か、阿波の国かとも言われる」
と、されています。
前回 仁徳天皇は讃岐の天皇 ② の「淡島」を思い出してください。
この歌から、武庫の浦を出入りする船は、「阿波島」を間近に眺める航路を行き来していたことが分かります。