空と風

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阿波国と伊倭国

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今回はほとんど、カッコよく言えば、私の仮説、まあ、妄想の類です。

 

このブログでも以前書きましたが、岩利大閑氏、大杉博氏、阿波古事記研究会、など多くの郷土史家が、阿波の古代の国名が「イ」国であることを説いています。

 

古事記に記される国生みの、

 

  生子 淡道之穗之狹別嶋

 

  次生 伊豫之二名嶋

 

  此嶋者 身一而有面四 毎面有名

 

 故、伊豫國謂 『愛(上)比賣』
    讚岐國謂 『飯依比古』
    粟國 謂 『大宜都比賣』
    土左國謂 『建依別』

 

における四国の表記「伊豫之二名嶋」の、「伊」が徳島を中心とする東部のことで、「豫」が愛媛を中心とする西部のことであるという説です。



私もそうだろうと思うのですが、何かがすっきりしない。
いろいろ考えていて、ふと『古事記』の記載そのものに疑問を持ちました。で、ちょっと調べてみると、



古事記の原本は存在せず、写本は約四十本もあるのだそうで、

 

『校本(古典などの諸種の異本を校合し、その本文の異同を示した本)古事記』、
『定本(異本を比較・検討して誤りや脱落などを正し、その本の最初の姿に復元するように努めた書物)古事記

 

なども出版されていますが、上では、本居宣長古事記伝』を「底本」(写本や複製本の原本)とすることには疑問が多く、最古の写本『真福寺本』に頼ったと書き、
下では、『真福寺本』は、「祖本を盲目的に書写したにすぎず、その際に、おびただしい誤写を犯し、そのうえに脱字・衍字などがきわめて多く、まことに天下の最大悪本」で、本居宣長『訂正古訓古事記』を底本としたと書いています。

 

写本の中には、一字一句そのまま写したというよりは、やはりその時代時代の「校正(文字・文章を比べ合わせ誤りを正す)本」のようなものも多いようです。
つまり、原本を忠実に写した写本というものは案外ないものだということです。



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国宝 古事記真福寺本』
 
それはいいんですが、何がすっきりしないかというと、

 

古事記では、四国のことを、「伊豫」之「二名」嶋 と書いているわけです。
ところがその直後に、「身一つに面四つ有り 毎面に名有り」と書き、愛比賣一国を「伊豫國」と書く。

 

こんな文章の幼稚な矛盾は、極めて不自然に感じます。
矛盾をなくす唯一の方法は、

 

「次生、伊豫○○之二名嶋」

 

と書かれてあった、と考えるしかありません。

 

私の仮説は、それが「伊倭」ではないか? というものです。
「二名嶋」とは本来、「伊豫」と「伊倭」だったのではないか?と考えるのです。

 

原本には、あるいは、「伊倭豫之二名嶋」「伊豫倭之二名嶋」などと記されていたのではないでしょうか。

 

そして、写本する人間は、この「倭」とは何だ?と首をひねり、伊豫ならば四国のことだからと、底本の書き間違いだと勝手に判断して「倭」の字を省略して写本したのではないでしょうか?

 

四国はもともと、「イの国」だった。それが二つに分かれ「イワの国」と「イヨの国」になった。




韓国の『桓壇古記』には、

 

 任那伊倭之屬  〈高句麗國本紀〉

 

 (任那は、伊倭に属す)

 

 日本舊有伊國 亦曰伊勢與倭同隣  〈大震國本紀〉

 

 (日本は、舊(もと)は、伊国に有り。 
  また、「伊勢」は「倭」に與(あずか)り、同隣すと曰う)

 

とあります。

 

上の訳は私流ですが、無学ゆえ自信はありません。
検索すると違う訳が出てきます。

 

たとえば、「日本舊有伊國」を、何人かの方が 「日本には、もと伊國があった」 としていますが、それでいいんでしょうか?

 

「日本」の国号ができるよりも「イ」国のほうが先に在ったんじゃないんですか?

 

後漢書東夷傳』における、1世紀。

 

 建武中元二年(57年)  「倭國」之極南界 にあるという 「倭奴国

 

 永初元年(107年)    「倭國」王帥升

 

この時代は、「ワ」国ではなく、「イ」国です。

 

同じく 「亦曰伊勢」 の部分を、 「(伊國を)または伊勢という」 と訳していますが、

 

「亦曰」(またいわく)は、 「伊勢與倭~」 に係るんじゃないですか?

 

別名ならば「亦名~」と書くのではないでしょうか?

 

ちなみに、原文を Google翻訳 にかけてみたら、

 

 日本の王は、旧イラク李越です伊勢 同じ地区の伊藤アメリカ合衆国筑紫も一E.ONの東には日本では国にも
 結納は、高句麗ルーユエ大隅の南の端にいたが、急私も北の山阿蘇羅の事務所にした後、
 その日本語羅羅の南東の一部を集め属しているルーマニアの国営スタート銃を人々が
 このNanwo周美漢火南蛮のバブル崩壊で、
 畑の場合に比べて、夏以降れた南蛮柔術はLi Gongヤンイーシャンユエライ自己よりも、
 自己のそれらの種類の総統陳目の当たり畑もハン夏高句麗一の和解切削収集時からShidori分スレーブ、
 ヒル島は韓国の最大の邪悪な邪悪な人々が自分の海上船舶のルールは、
 この犬は自分の犬が100以上の国々にも、
 トランザクションの種類の島は非常に越呉偉傑トンヤンされます応じて唯一の海を渡る-

 

も~ええわい!



というわけで、もう一度『桓壇古記』を見てみます。
『桓壇古記』は偽書とされますが、偽書偽史ではなく、むしろ全文作話することの方が難しいでしょう。
不確かなことが一部でも書かれていれば文献全てが信用ならない、というならば『記紀』も『魏志倭人伝』も参考になりません。

 

上に引用した部分では、

 

 伊倭 伊國 伊勢 倭

 

が別々に出ています。



「伊倭」でひとつ。 「伊」でひとつ。 「倭」でひとつ。

 

桓壇古記では、「伊」の字を(イ)、「倭」の字を(ワ)として使っているらしいことがわかります。



任那(369~562年)の時代には、「イワ」国であったことが分かります。
〈大震國本紀〉の文章は見てわかるように伝聞です。

 

日本国は、元は「イ」国だった。
「イセ」は隣り合う「ワ」の関係国である。

 

ここにいう「ワ」国が「イワ」国のことではないでしょうか?
私の仮説は下の地図の通りです。



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「イ」国の直属氏族の代表的一族が後の「忌部氏」。
イザナミの命も忌部の祖のような気がします。

 

「イ」国の真北が忌部の邑にあたり、そのさらに北部吉野川対岸が「イ」国の直轄地「イ国の背」にあたる「イセ」で、神聖な地とされたのではないかと思います。
吉野川流域は平野部が狭く、平野から剣山地を見渡せるのは吉野川北岸になります。



その東「ワ」国は、「イ」国が国譲りさせた「イツモ」にあたる「ナガ」国から出発した神武天皇が、支配者の「ナガスネ彦」を倒し、「イワ」国となりました。
「イツモ」を国譲りした大国主命は、その「イワ」エリアに移住していたのでしょう。
御子の事代主命建御名方命ともに、吉野川沿岸の式内社に祀られていることでもそれがわかります。

 

建御名方命は、イツモを逃げて諏訪(石井町の地名)へ逃げた、とはっきり古事記に記され、事代主命にいたっては、那賀(長)郡と、吉野川沿いの阿波郡の両方で祀られています。
逃げた建御名方命を追ったのは、建御雷神。
同じく阿波郡の式内社「建布都神社」で祀られています。



神倭伊波礼琵古命(かんやまといわれひこのみこと)の「伊波(いわ)」はこの地を制した証しの諱と考えられます。

 

その後、第10代崇神天皇が西部の「ミ」国を統一します。

 

御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)      - 『古事記
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀
美萬貴天皇(みまきのすめらみこと)              - 『常陸国風土記

 

上のように字が違えども、「美萬城」(ミマキ)へ入り、神武天皇ともども(はつくにしらしし)天皇と称されます。
神武天皇のような戦闘がなかったのは、もともと忌部氏の支配地だったからでしょう。
 
「イ」に属する「ミ」として「イミ」国となり、

 

「イミ」 に、 「忌」 の字が当てられ、支配者層が 「忌」氏 ~ 「忌部」氏 と呼ばれたものと考えます。



この地「ミ」国は、古代の「美萬(ミマ)郡」。

 

のちに分かれても「美馬郡」「三好郡」で、『和名抄』を見ても、

 

 美馬郡         三次〈美須木〉   

 

 三好郡にいたっては、 三繩〈美奈波〉 三津〈美都〉 三野〈美乃〉

 

と全て、「美(ミ)」ではじまる地名となっています。

 

阿波には全域に「カモ」の地名が点在しますが、この地の「加茂」だけは頭に「ミ」が付いて、

 

「ミカモ」

 

という地名になっています。




※ Yahoo!辞書 ※

 

 いみ【忌(み)/▽斎】
 
 1 (斎)心身を清浄に保ち、けがれを避けて慎むこと。

 

 2 (忌み)死・不浄など、はばかりのあること。

 

 3 (忌み)人の死後、近親者が、しばらくの間家に慎みこもること。喪。喪中。忌(き)。

 

 4 (忌み)陰陽道(おんようどう)などで、ある方角・日取りなどをはばかって避けること。物忌み。かたたがえ。

 

 5 他の語の上に付いて複合語をつくり、汚れを清めた、神聖な、の意を表す。

 

 
まさに忌部氏にふさわしい意味ですが、これは言葉が先にあったのではなく、忌部氏の氏族的特徴から生まれた言葉と意味ではないでしょうか。