かれ、日向(ひむか)に坐(いま)しし時に、阿多(あた)の小椅(をばし)の君が妹(いも)、
名は阿比良(あひら)比売(ひめ)を娶(めと)りて~
とあります。
名は阿比良(あひら)比売(ひめ)を娶(めと)りて~
『勘注系図』には、天村雲命の話として、
日向國之時、娶吾俾良依姫命
どちらが正しいのかは不明ですが、
『大同本紀』逸文には、
①古語においては妹は「いも」と呼び、年齢の上下に関係なく男性からみた同腹(はらから)の女を指した。女性から見た同胞の女は年上を「え」と呼び、年下は「おと」と呼んだ。これは男性から見た同胞の男に対する呼び名と同じである。
②また、恋人である女性や妻のことも妹(いも)と呼んだ。「我妹子」(わぎもこ)とも言う。これは古代においては近親婚が広く行われており、妻や恋人と妹を同一視していたためという説がある。一般に女性を親しんでよぶ場合の名称でもあった。
日向という地名もあるにはありますが、研究者によって比定地が異なります。
周辺の状況や根拠、物語との一致性を重視するからです。
周辺の状況や根拠、物語との一致性を重視するからです。
多くは県南東部の海岸地方にあたる長の国(那賀・海部地方)に比定しています。
この地に古代「薩摩」の地名があったことも書きました。
現在も字名でありますが、この古記録の薩摩と同じ場所であるかどうかは、まだわかりません。
この地に古代「薩摩」の地名があったことも書きました。
現在も字名でありますが、この古記録の薩摩と同じ場所であるかどうかは、まだわかりません。
阿波の樫原神社は創祀年代は不詳ですが、往古より祀られていました。
地名もまた「樫原」で、すぐ東隣の地名が「御所」で、そのまた東が「熊野」です。
その南が「吉野」になります。
地名もまた「樫原」で、すぐ東隣の地名が「御所」で、そのまた東が「熊野」です。
その南が「吉野」になります。
神武天皇が俗に「神武東征」と呼ばれれる行軍をしたときに通る「熊野」「吉野」とは、この地のことです。
どこだったか、検索で調べているときに、紀伊半島の熊野~吉野地方出身の方が、「そのルートに軍隊が歩いて通り抜けることができるような山道などない」と書いたページがありました。
また、阿波国の式外の古社に「伊比良咩神社」があります。
と記される大社で、記録としては、延喜式(927)よりも古い格式ある神社です。
現在の地名として残っている「東中富」「西中富」の、この「なかとみ」が、「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)」が居た「とみ」の地で、のちの「中臣氏」の本貫地というのが岩利説です。
はじめて聞くと、突拍子もない説に聞こえますが、知れば知るほど説得力を持ちますからお楽しみに。
以上、前回の船岡山の謎 ⑤ 天村雲命 その二と合わせて、もう一度地図上の位置関係をご覧ください。