空と風

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船岡山の謎 ⑤ 天村雲命~神武天皇


かれ、日向(ひむか)に坐(いま)しし時に、阿多(あた)の小椅(をばし)の君が妹(いも)、
名は阿比良(あひら)比売(ひめ)を娶(めと)りて~

とあります。

『勘注系図』には、天村雲命の話として、

日向國之時、娶吾俾良依姫命

と記され、「阿比良比売(あひらひめ)」と「吾俾良依姫(あひらよりひめ)」(『天孫本紀』では「阿俾良依姫」)は同一人物に見えますが、

古事記では、神武天皇の妻、勘注系図では、天村雲命の妻、となっています。

どちらが正しいのかは不明ですが、

『大同本紀』逸文には、

天村雲命は、瓊々杵尊天孫降臨のさいに随伴して、瓊々杵尊から「小椅」の号をもらった、と記されています。

これが正確であれば、「小椅の君」とは天村雲命のことで、阿比良比売は、命の妃ではなく妹で、神武天皇の妃、ということになります。


ただし、古代の「妹」は現在のそれとは意味合いが違います。
以下(Wikipedia

①古語においては妹は「いも」と呼び、年齢の上下に関係なく男性からみた同腹(はらから)の女を指した。女性から見た同胞の女は年上を「え」と呼び、年下は「おと」と呼んだ。これは男性から見た同胞の男に対する呼び名と同じである。

②また、恋人である女性や妻のことも妹(いも)と呼んだ。「我妹子」(わぎもこ)とも言う。これは古代においては近親婚が広く行われており、妻や恋人と妹を同一視していたためという説がある。一般に女性を親しんでよぶ場合の名称でもあった。

②を当てはめれば、古事記と勘注系図の矛盾が消え去りますが、本当のところはわかりません。


地理的には、阿多といえば鹿児島県の地名で、日向は宮崎ですから、矛盾がないように見えます。
阿波説では、もちろん日向は徳島県内であると考えています。

日向という地名もあるにはありますが、研究者によって比定地が異なります。
周辺の状況や根拠、物語との一致性を重視するからです。

多くは県南東部の海岸地方にあたる長の国(那賀・海部地方)に比定しています。
この地に古代「薩摩」の地名があったことも書きました。
現在も字名でありますが、この古記録の薩摩と同じ場所であるかどうかは、まだわかりません。



ところで、徳島の阿波市土成町には、神武天皇を祀る「樫原神社」が鎮座します。
奈良県に「樫原神宮」が存在しますが、こちらは明治23年の創建です。

阿波の樫原神社は創祀年代は不詳ですが、往古より祀られていました。
地名もまた「樫原」で、すぐ東隣の地名が「御所」で、そのまた東が「熊野」です。
その南が「吉野」になります。

神武天皇が俗に「神武東征」と呼ばれれる行軍をしたときに通る「熊野」「吉野」とは、この地のことです。

どこだったか、検索で調べているときに、紀伊半島の熊野~吉野地方出身の方が、「そのルートに軍隊が歩いて通り抜けることができるような山道などない」と書いたページがありました。

物語に、天皇八咫烏に導かれ「吉野川の川尻に至るとき」(原文は、到吉野河之河尻)、とありますが、「河尻」とは川の下流・河口のことで、奈良県吉野川には当てはまりません。

下流和歌山県に流れ込んで「紀ノ川」となっているからです。

この一点を見ても、奈良の吉野川が、阿波の吉野川にちなんでつけられた後付けの名前であることがわかります。



また、阿波国の式外の古社に「伊比良咩神社」があります。

「伊比良咩」(いひらめ・いひらひめ)=「阿比良比売」(あひらひめ)で、神武天皇の妃神です。
「伊比良咩」「阿比良比売」の名を冠した神社も全国で当社のみです。


日本三代実録』 貞観14年11月29日乙未条(872)に、

 阿波国正六位上伊比良咩神

と記される大社で、記録としては、延喜式(927)よりも古い格式ある神社です。


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伊比良咩神社

現在は藍住町徳命にありますが、もとは同町「東中富」に鎮座していました。

現在の地名として残っている「東中富」「西中富」の、この「なかとみ」が、「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ)」が居た「とみ」の地で、のちの「中臣氏」の本貫地というのが岩利説です。

はじめて聞くと、突拍子もない説に聞こえますが、知れば知るほど説得力を持ちますからお楽しみに。

その登美にいたのが、那賀須泥毘古の妹を妃にした「饒速日尊」(天村雲命の祖父)なのですから、阿波説に当てはめると記紀の登場人物の地理的位置関係が実に自然に繋がるのです。

以上、前回の船岡山の謎 ⑤ 天村雲命 その二と合わせて、もう一度地図上の位置関係をご覧ください。


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