船岡山(低い山です) |
昨年の夏から、高松市教育委員会と徳島文理大学文学部文化財学科との共同調査が行われていましたが、
古墳時代前期前半(3世紀中頃~4世紀前半)とみられる前方後円墳と、形・規模が不明の別の古墳、計2基が発掘されました。
香川と徳島西部でよくみられる積石塚ですが、粗く積んだ直径約30~50センチの石を土で覆う造り方で墳丘を作っており、香川県内では他に類例のない築造方法だそうです。
地図① 2号墳の端です。石積みでそれがわかります。
地図② 形状がまだ不明の2号墳の上です。
写真の奥側が、1号墳(前方後円墳)になります。
このように土を少し掘ると、石がごろごろ出てきます。
石はこの船岡山でとれるものではなく、単体の山の頂上なので、自然にその上を土が覆うこともありません。
古墳の形を造るために、運んできた石を積み、その上に人工的に土をかぶせているのです。
石はこの船岡山でとれるものではなく、単体の山の頂上なので、自然にその上を土が覆うこともありません。
古墳の形を造るために、運んできた石を積み、その上に人工的に土をかぶせているのです。
地図③ 後円部の北端です。横から見ると石積みがカーブしていることがわかります。
地図④ 前方部の南端です。
地図⑤ 前方部の側面です。
説明のおにいさんが触っている部分が、古墳の側面石積みです。
その前に、タイル状の石が散乱していますが、これは古墳の側面に装飾用に貼られていたとみられています。
古墳の上に生えた木の根っこで壊されて散らばった状態になっています。
この石も、船岡山のものではありません。
その前に、タイル状の石が散乱していますが、これは古墳の側面に装飾用に貼られていたとみられています。
古墳の上に生えた木の根っこで壊されて散らばった状態になっています。
この石も、船岡山のものではありません。
手に取ってみました。
この石を、1750年くらい前の人が、実際に古墳に貼り合わせていたのかと思うと感動ですね。
どんな人がどんな思いで作業していたのでしょうか?
この石を、1750年くらい前の人が、実際に古墳に貼り合わせていたのかと思うと感動ですね。
どんな人がどんな思いで作業していたのでしょうか?
地図⑥ 前方後円墳の「くびれ」の部分です。
白いロープが、予測される古墳の外周になっています。
この北側、後円部の側面は、若干斜面に崩れています。
この北側、後円部の側面は、若干斜面に崩れています。
後円部の中心付近の祠です。
この山は、地元の教師が山頂から埴輪の破片を拾っていたことから、古墳であることは予想されていましたが、実態は判明してませんでした。
この山は、地元の教師が山頂から埴輪の破片を拾っていたことから、古墳であることは予想されていましたが、実態は判明してませんでした。
他の石積み古墳は、見てすぐ、それと分かるように露出しているものだそうで、この船岡山古墳は外見は全くの山。
木を切り、土を掘ると、すぐにいたるところから石積みが出てきて、調査員も人口的に土を盛った古墳など予想していなかったため、たいへん驚いたそうです。
木を切り、土を掘ると、すぐにいたるところから石積みが出てきて、調査員も人口的に土を盛った古墳など予想していなかったため、たいへん驚いたそうです。
後円部端の③から、前方部④方向を見ています。
前方後円墳の全長は約45メートルです。
また、出土品は埴輪の破片を中心に約100点ですが、円筒埴輪の一部と見られている破片には、勾玉(まがたま)のような形の透かし穴と線で刻まれた複雑な模様があり、高松市教委は、
「地域色が強いとされる石清尾山古墳群の埴輪とは系統が異なる。県内で出土例がなく、他の地域からの影響がありそうだ」
「古墳や埴輪の形が詳しくわかれば、どのような地域と交流があったのかを知る手がかりになる」
と、コメントしています。
調査は引き続き行われるとのことで、今後何が判明するか、とても楽しみですね。