空と風

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徳島の奈良街道と「犬の墓」

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阿波市 犬墓

以前テレビの「秘密のケンミンSHOW」を見ていると、「世界ケンミン遺産」というコーナーで、和歌山県の「犬の墓」という名のバス停が取り上げられていました。

過去に認定された「ケンミン遺産」を紹介する映像で、その本放送は見ていません。
調べてみると、和歌山県紀の川市の桃山町営バスのバス停だそうです。

その名前の由来は、その昔、川で溺れていた子供を助けた犬がいて、その犬の墓が近くにあることだそうです。


テレビを見たときには、(あれ?『犬の墓』とは徳島にもあるのになあ)と思ったものです。


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しかも徳島の場合は、バス停のみならず、れっきとした地名なのです。
(ネットで調べたが、和歌山の『犬の墓』は、地名かどうか不明)

他にも、岡山県に『犬墓山』という山があります。名前の由来は不明です。

(和歌山と岡山か・・・。何かにおうなぁ。)

と、阿波の古代史に興味を持っている人なら感じるのではないでしょうか?


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神社は式内社(論社含む)

私が徳島に戻ったころ、地図を片手に徳島や香川をあちこち車でドライブしましたが、阿波市に「犬の墓」という地名を発見して驚きました。
地名が犬の墓って・・・。と、いろいろ考えたものです。

由来も分からず、面白がってこのブログにも写真を載せました。


ここに、~「犬の墓」という地名を、もう一箇所県内で見つけました。
そこにはどんな物語があるんでしょうね?~
と書きましたが、それが、

犬の墓 (イヌノハカ)  所在地 徳島県美馬郡つるぎ町一宇

です。観光地図に載っていたので地名かと思っていましたが、史跡なのかもしれません。由来は、

 その昔、高清左衛門という猟師が野宿をしていたところ、
 愛犬があまりにしきりにほえるので、狂ってしまったと思い、その首を切り落とした。

 すると、その首は対岸に飛び、ひそかに高清左衛門をねらっていた大蛇にかみついた。

 彼は愛犬の忠節に感銘し、墓を立て弔った。

というものです。



阿波市の「犬の墓」のほうは、リンクのページで書いているように、由来は空海の忠犬の話となっています。


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犬墓大師堂

上の写真の像と石碑は、最近建立されたもので、この北側に、元からの墓石が立っています。 

 犬を連れてこの地の山に分け入ったお大師さまがイノシシと遭遇したところ、
 犬がこのイノシシを追い払おうとして、誤って滝壷に落ちて死んでしまった。
 とも、お大師さまを守り抜いたが、イノシシの攻撃で負傷し絶命したとも伝わる。

人々これを憐れみ、犬の墓を立て山の名前を犬嶽、土地を犬墓と名づけたと言われています。

現存する墓は、享保(1716~36)の頃、犬墓村庄屋松永傳太夫が造ったとされています。
その墓は、元は盛土の上に台石があり、その上に楕円状の丸石が乗っていましたが、今はコンクリートで周囲が整備されています。
台石の正面には「戌墓」と刻まれています。


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私が犬墓大師堂の写真を撮っていると、近所のおじさんが通りかかり、
「こっちが、お大師さんが立てた元からのお墓でよ」
と教えてくださいました。
地元では、空海その人がこの墓石を立てたと伝えられているようです。


ところで、この「犬の墓」の正確な地名は、

 徳島県阿波市 市場 町 犬墓(いぬのはか)

といいます。

和歌山県の「犬の墓」のある桃山町にも「 市場 」の地名があります。

岡山県の『犬墓山』の近くにも「 市場 」の地名があります。

偶然でしょうかね?

「市場」という地名自体は、古代の市場跡地に日本各地に残っているのですけれど。

犬墓山周辺の地図を見ただけでも、他にも「三ツ木」「秦」「久米」など、ドキッとする地名が見えます。


ということで、ついでに徳島のもう一方の「犬の墓」周辺の地図も見てください。


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神社は式内社(論社含む)

「犬の墓」の周辺に、「市場」「樫原」「「喜来」、水辺に「須賀」など、阿波市と一致する地名が見えるでしょう。

さらに、「市場町」付近の地図には、「奈良」「御所」などの地名が確認できますが、

こちら「つるぎ町」周辺には、「京都」「葛城」「蘇我」などの地名があります。

阿波の古代史を知らない人には、不思議に見えるでしょうね。



さて、上記の犬の墓「弘法大師空海の愛犬説」は、実は一説であります。

もう一つは、岩利大閑説、捕鳥部万(ととりべのよろず)愛犬の説話です。

この時代の日本書紀の物語の舞台は、阿波~讃岐、だからです。

捕鳥部万は、物部守屋(もののべのもりや)の難波(なにわ)邸を守ろうとしたのですが、この時代の「難波」とは、香川の「難波郷」のことだからです。



上の阿波市の地図、吉野川北岸が、饒速日命(にぎはやひのみこと)一族の本拠地。

その南岸、吉野川市忌部氏の本拠地に鎮座する「天村雲神伊自波夜比売神社」の御祭神「天村雲神」は、饒速日命の御孫です。

そのまた孫が、阿波忌部氏の祖「天日鷲命」です。

また「伊加賀志神社」の御祭神「伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)」の御兄弟は、饒速日命の6世孫にあたります。

この伊加賀色許雄命が、『日本書紀』や『新撰姓氏録』に 物部氏の祖神 と書かれています。


上記の神社は、ともに日本唯一の延喜式式内社です。
この地が、饒速日命~忌部~物部の本拠地で、その親族関係の繋がりも自然に理解できます。

つまり、吉野川北岸が、「饒速日命」の本拠地で、その御孫「天村雲神」は、石井町の式内社・多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社で祀られる「建御名方命」のひ孫の「伊自波夜比賣」を妃とし、吉野川南岸に祀られ、その御孫の「天日鷲命」は、忌部の大祖「天太玉命」を義理の兄とし、阿波忌部の祖となる。

その忌部の地で祀られる「伊加賀志許賣命」は10代崇神天皇の母となり、弟の「伊加賀色許雄命」から物部氏が生まれる。
この地の南、県境を高知に入ったところが「物部村」です。

このように、地理上からも血統の関係がはっきり確認できるのが、この一帯です。


その地の真北に、『紀』に記された本当の「難波」があるのですから、この物語の舞台が当地なのも当然なのです。



物語は、『日本書紀』の崇峻天皇前紀 に記されています。


捕鳥部万は、物部守屋の近侍だった。

用明天皇2年(587)7月、蘇我馬子(そがのうまこ)が守屋を攻めたとき、万は百人の兵士を率いて難波の守屋邸を守護した。

しかし、主人の死を聞き、馬で脱出、妻の実家があった茅渟県の有真香邑(ありまかのむら)のに山に隠れた。

朝廷は数百の兵士を遣わして万を囲んだ。

天皇のみ楯としてその勇をあらわそうとしたが、聞いて頂けず、かえってこの窮地に追い込まれてしまった。
共に語るに足る人は来い。自分を殺そうとするのか捕らえようとするのか聞きたい」

と叫んだ万は、追手の兵士三十余人を殺したのち、力尽き、小刀で自らの頸を刺して自害した。

報告を受けた朝廷は、万を八つ切りにして、八つの国に串刺しにしてさらせと国司に命じた。


命令を実行しようとしたその時、雷鳴が轟き大雨が降りだし、そこへ万が飼っていた白犬が現れた。

犬は万の屍の周りをぐるぐる回り、天に向かって吠えたのち、その頭をくわえて運び出し、古い墓を掘ってそこへ埋めた。

白犬は、その後も人が近づくと吠えて寄せ付けず、そのままその場に横臥したまま、ついに飢え死にした。



話を聞いた朝廷は、この犬を哀れに思うとともに賞賛し、

 此犬世所希聞。可観於後。須使万族作墓而葬。

「此犬、世にもめずらしきところなり、後にしめすべし。万が同族をして、墓を作りて葬さしめよ」

と命じた。



という話です。
この犬の墓こそが、その捕鳥部万の白犬の墓だというのです。



万と愛犬を埋葬した墓は、現在の岸和田市にある天神山古墳群の中の2つの古墳ではないか、という説があります。
が、いつ誰が何を根拠に言い出したものか? 
まったく不明の一説でしかありません。


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