場所も行き方もわからず向かったが、ナビには丹田古墳の文字が!
ましてや、土地勘のない人、県外の人などは何も実感が得られないと思います。
試しに丹田古墳に位置を合わせ、「ここへ行く」とナビに指令してみたら案内を始めた。
これまで丹田古墳に行かなかったのは、一つは場所がよく分からなかったこと、もう一つは丹田古墳を紹介する写真のほとんどが石室入り口の写真で、イメージとしては山の斜面に石室が露出しているというような感じで、今ひとつ直に見てみたいという気持ちにならなかったからです。
しかし、今まではっきりとしなかった古墳の形態が前方後円墳と確定したことで、どうしてもこの目で見なければという気持ちになりました。
ナビの指示通りに進むと行き止まりに・・・(ここから山の急斜面を歩いて登れということらしい)
迦毛大御神とまで呼ばれた実力者です。
昨年、「不思議の徳島」に大国主命のことを書いていましたが途中で放置したままとなっています。
何をどこまで書いて次に何を書こうとしていたのか?ぶっつけ本番で書いていたので覚えていません。
ただ、話の展開として当然、次は阿遅志貴高日子根神に触れなければと考えていました。
古事記を読んでいて、誰もが不思議に思うはずのシーンがありますが、あまりそのことに触れる人もいません。
なぜここで、系譜上は長男で「大御神」とまで称される阿遅志貴高日子根神が出てこないのでしょう。
阿波説に当てはめれば、あまりにも当然の展開ですね。
古墳の位置をナビで右手に見ながら、深渕方向へ進むとやっと加茂山への登り口が現れる。
一番下に小さく丹田古墳の文字が見える。
阿波説において、葦原中国とは葦原(形容詞・葦原中国を示す“豊葦原の千五百秋の瑞穂の国”)の、国名・中国(なかのくに)、のちに長国と書かれた徳島の一部の国のことであり、国譲り当時の中心地は現在の鳴門市(旧板野郡)であり、支配者は事代主命でした。
通説では、阿遅志貴高日子根神は島根のどこにいたのでしょうか?
なぜか、この交差点を曲がった途端、前方にピンクの道が現れ、古墳までの案内を始める。
古墳周辺の地図を最大に拡大しても周辺道路は表示されなかったのに・・・。
しかも、板野郡と同じ前方後円墳なのです。
同じ血族の被葬者であることが裏付けられます。
更にこの二又を矢印に従い右へ。
民家と畑脇の狭い道を過ぎると未舗装路に入り、その先に石碑が見えてくる。
ここへ来て立ってみれば、「ああ。なるほどね」と分かります。
すぐ下の山裾にあるのが、式内社鴨神社です。
※右下クリックで拡大
どの地図にも載っていなかった古墳への道がプロアトラスオンラインにあった。
その神社が「かも神社」ということは、この古墳の被葬者が「かも神」なのです。
なぜ、阿遅志貴高日子根神は、迦毛大御神と呼ばれたのでしょうか?
昨年の私の説を読まれた方は、「もうわかった、みなまで言うな」と言うでしょうが、一応書いておかないわけにはいきませんね。
さっき、秘密のケンミンショーを見ていたら、岡山ではいい加減な字や絵の書き方を「チャラ書き」と言うんだそうです。
しかもこの「ちゃら」は、最近の「チャラチャラした」という意味ではなく、江戸時代以前からの方言だそうで、その意味を聞いていてわかりました。
これは、阿波弁の「じゃら」ですね。