下加茂神社
御祭神 玉依姫命
玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。
吉野川上流対岸の鴨神社ともども、京都から勧請されたというのが通説になっている。
根拠は、鴨神社の鎮座する加茂村が、山城(やましろ)国・賀茂別雷神社の神領(荘園)「福田庄」として、寿永二年(1183)の記録に残っているためである。
根拠は、鴨神社の鎮座する加茂村が、山城(やましろ)国・賀茂別雷神社の神領(荘園)「福田庄」として、寿永二年(1183)の記録に残っているためである。
全国数十か所に荘園を持っていた賀茂別雷神社と賀茂御祖神社は、その管理のため、それぞれの地に勧請社を建立したようである。
その由緒が比較的はっきりしている年代の新しい神社もあり、阿波の上鴨・下鴨社も同様と推測されているわけである。
その由緒が比較的はっきりしている年代の新しい神社もあり、阿波の上鴨・下鴨社も同様と推測されているわけである。
京都上賀茂社の創祀は不明、社殿の造営は678年と社伝にある。
全国に、鴨(加茂・賀茂)神社の数は多いが、ほとんどが京都からの勧請社といわれる。
有名なところをざっと調べてみると、勧請は8世紀~16世紀と、ばらばらである。
すくなくとも京都上賀茂社の社殿建立以後であることが分かる。
有名なところをざっと調べてみると、勧請は8世紀~16世紀と、ばらばらである。
すくなくとも京都上賀茂社の社殿建立以後であることが分かる。
阿波の鴨神社は、『徳島県神社誌』でも、「鎮座は、六世紀ごろとみてよかろう」と推測している。
岩利大閑説の通り、丹田古墳を阿遅鉏高日子根神の陵墓だとすると、4世紀以前にまでさかのぼる可能性さえある。
もちろん、『徳島県神社誌』も「鎮座年代」そのものの比較では、京都が古い?という含みを残しているのだが、そんな根拠はどこにもない。
歴史書上では、崇神天皇七年の社の瑞垣造営『鴨社造営記』を根拠に、京都鴨社はその歴史の古さを大々的に謳っている。
つまり、平安京(794)よりはるか古代から山城国に鎮座していたというわけである。
もちろん、崇神記にいう「鴨社」が、山城国の「賀茂神社」のことであるなら?、である。
つまり、平安京(794)よりはるか古代から山城国に鎮座していたというわけである。
もちろん、崇神記にいう「鴨社」が、山城国の「賀茂神社」のことであるなら?、である。
「みま(城)(岐?)いりひこ」とは、初めて「ミマの地に入った天皇」という意味、というのが阿波郷土史家の見解であるが、くわしくはこれも別の機会に書く。
当社と鴨神社の鎮座する三好市・三好郡とは、古代の美馬(みま)郡から別れた地名である。
当社と鴨神社の鎮座する三好市・三好郡とは、古代の美馬(みま)郡から別れた地名である。
阿波の鴨神社の記録にも、
当社の祭式は荘厳を極め、奉仕の神主三人と十人の社人により行われて、
福田庄時代には、京都賀茂摂社の神官毎年出張神事を奉掌していた。
福田庄時代には、京都賀茂摂社の神官毎年出張神事を奉掌していた。
とあるが、他国の鴨(加茂)神社とは、別格の扱いのようにも見える。
当社の祭式に関しては、
さて、どちらが元宮なのだろうか?