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下加茂神社 三好市三野町

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下加茂神社

鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492-2

御祭神 玉依姫命


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玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。


創立年代不詳。
山城国下鴨神を遷祀せしものと伝える。  『徳島県神社誌』

吉野川上流対岸の鴨神社ともども、京都から勧請されたというのが通説になっている。
根拠は、鴨神社の鎮座する加茂村が、山城(やましろ)国・賀茂別雷神社神領(荘園)「福田庄」として、寿永二年(1183)の記録に残っているためである。

全国数十か所に荘園を持っていた賀茂別雷神社賀茂御祖神社は、その管理のため、それぞれの地に勧請社を建立したようである。
その由緒が比較的はっきりしている年代の新しい神社もあり、阿波の上鴨・下鴨社も同様と推測されているわけである。


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京都上賀茂社の創祀は不明、社殿の造営は678年と社伝にある。

全国に、鴨(加茂・賀茂)神社の数は多いが、ほとんどが京都からの勧請社といわれる。
有名なところをざっと調べてみると、勧請は8世紀~16世紀と、ばらばらである。
すくなくとも京都上賀茂社の社殿建立以後であることが分かる。

阿波の鴨神社は、『徳島県神社誌』でも、「鎮座は、六世紀ごろとみてよかろう」と推測している。

つまりは、京都賀茂別雷神社の社殿建立よりも前に、阿波の上鴨神社は現在地に鎮座していたと、相当に控え目な『徳島県神社誌』でさえ記している。

岩利大閑説の通り、丹田古墳を阿遅鉏高日子根神の陵墓だとすると、4世紀以前にまでさかのぼる可能性さえある。

もちろん、『徳島県神社誌』も「鎮座年代」そのものの比較では、京都が古い?という含みを残しているのだが、そんな根拠はどこにもない。


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史書上では、崇神天皇七年の社の瑞垣造営『鴨社造営記』を根拠に、京都鴨社はその歴史の古さを大々的に謳っている。
つまり、平安京(794)よりはるか古代から山城国に鎮座していたというわけである。
もちろん、崇神記にいう「鴨社」が、山城国の「賀茂神社」のことであるなら?、である。

その時代に、崇神天皇が京都にいらしたのだろうか?
奈良から指示を出されたのだろうか?

崇神天皇」や、その母「伊加賀志許賣命」、その親族が、式内社も含めてどこに祀られているであろうか?
阿波一国である。



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崇神」は諡号
記紀での御名は、「御真木入日子印恵(みまきいりひこいにえ)命」「御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)」である。

「みま(城)(岐?)いりひこ」とは、初めて「ミマの地に入った天皇」という意味、というのが阿波郷土史家の見解であるが、くわしくはこれも別の機会に書く。
当社と鴨神社の鎮座する三好市・三好郡とは、古代の美馬(みま)郡から別れた地名である。

貞観2(860)年に美馬郡から三好郡が分離した。『三代実録』

三好市には山城(やましろ)町もある。
また、当社のある加茂野宮は、万葉集に歌われる情景から吉野宮のあった地といわれ、吉野宮の場所を当社の真北に在る滝寺に比定する研究者もいる。


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阿波の鴨神社の記録にも、

 当社の祭式は荘厳を極め、奉仕の神主三人と十人の社人により行われて、
 福田庄時代には、京都賀茂摂社の神官毎年出張神事を奉掌していた。

とあるが、他国の鴨(加茂)神社とは、別格の扱いのようにも見える。


当社の祭式に関しては、

 文化八年の春、京都より従三位上阿部加賀守下向し、
 美乃下鴨社の「 旧記録を改め 」、「 祭式を京都下鴨社式に改め 」させられた。

という三野町史の記録を当ブログでも既に紹介したが、当社が独自(オリジナル?)の祭式を持っていて、
それへ京都が圧力をかけてきたことが分かる。

さて、どちらが元宮なのだろうか?