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地名の一致は阿波忌部進出の痕跡か? ③ 伊豆國編

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                 三嶋大社

 

古代、阿波忌部を中心とした阿波人たちが全国各地に進出、それらの地に阿波の地名を名付けたらしい痕跡を追いました。
中でも、阿波の「長の国」が「那賀」となり、進出先にも付けた「ナカ(ナガ)」の地名が、「那珂」「那賀」として各地に残っています。
三輪山・大物主神話のルーツは阿波にあった!?に書いたように、「長の国」が「葦原中国」であったなら、各地の「那珂」「那賀」には「大国主命」系の神社が存在するはず、と考えました。

 

上記②では、忌部・阿波との関わりだけを追ったのですが、それでも「ナカ(ナガ)」の地にその痕跡がありました。これに出雲系の係わりが重なれば、「長の国」=「葦原中国」は決定的になります。

 

上記②の文章を書いた時点で、まだ知らなかった「那珂」「那賀」について、情報を追加します。地名変更や合併で、現在は消滅してしまったものがあるからです。

 

~「消滅した郡の一覧」(Wikipedia)から~

 

 

 1896年2月26日 福岡県御笠郡・席田郡・那珂郡(合併して筑紫郡に)

 

 1896年3月29日 埼玉県賀美郡那珂郡児玉郡編入

 

 1896年4月1日 静岡県那賀郡 (賀茂郡の一部と合併して賀茂郡に)

 

 1896年4月1日 宮崎県北那珂郡宮崎郡編入

 

 1899年3月16日 香川県那珂郡・多度郡(合併して仲多度郡に)

 

 2005年10月1日 島根県那賀郡(浜田市と合併して浜田市に)

 

 2006年4月1日 和歌山県那賀郡(岩出町が市制施行して岩出市に)

 

ほぉ、こんなところにもあったのか。という感じですね。
これらの地域について、前回と同じように忌部系の進出と絡めて、簡単に調べた範囲で書いてみます。



① 那珂郡(なかのこおり・なかぐん)は日向国および宮崎県に存在した郡。

 

成立当初の那珂郡は現在の宮崎市のうち佐土原・住吉周辺のみの非常に狭い領域。
(現住所に那珂の町名が残る)
1884年那珂郡北那珂郡南那珂郡に分割され消滅。
1896年に北那珂郡宮崎郡編入されて消滅。
2009年3月30日(予定)日南市が発足、同日南那珂郡消滅。

 

地図を見てびっくり。この「那珂」の地、宮崎市「阿波岐原」町のすぐ隣でした。
日向国は7世紀の設立。「日向」の地名は『日本書紀』によれば、景行天皇命名
よって、古事記神話の伊邪那岐命による禊祓いの地、

 

「竺紫日向之橘小門之阿波岐原

 

は、宮崎県の「日向」のことではない、というのは神話舞台の阿波説だけでなく、北九州説でも主張されています。

 

では、この「阿波岐原町」の地名は、いつから使われているのか?調べようとしましたが不思議なくらい何も出てきません。
禊祓いの記述に合わせ、近代になって町名を名付けたんんじゃないでしょうか?



② 那珂郡(なかのこおり・なかぐん)は筑前国にかつて存在した郡。

 

調査中。
日向国を含め、九州は忌部の痕跡を探ることが難しいです。
何か発見したら書き改めます。



③ 那珂郡(なかぐん)は、武蔵国、埼玉県にかつて存在した郡で。那賀郡ともいう。
 
  調査中。
 

 

④ 那賀郡(なかぐん)は伊豆国東部の郡、中郡、仲郡、那可郡ともいう。
  合併して賀茂郡。

 

☆ 式内社 伊豆國賀茂郡 伊豆三嶋神社(三嶋大社
 
  御祭神 大山祇命積羽八重事代主神
  配祀  阿波神 伊古奈比咩命 楊原神

 

  伊予国一の宮大三島の「大山祇神社」から勧請。
  御祭神の「大山祇命」「八重事代主神」は阿波ゆかりの神。 
  また別の機会に詳しく書きます。

 

☆ 式内社 伊豆國賀茂阿波神社 名神大

 

  御祭神 阿波咩命(阿波神)

 

  『續日本後紀』に「承和七年九月乙末伊豆ノ国言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。
   此島坐阿波神ハ是三島大社本后也。又坐物忌奈命即前社御子神」とあります。



☆ その他

 

 式内社 伊豆國那賀郡 井田神社
 御祭神 大己貴命

 

 式内社 伊豆國那賀郡 伊那下神社
 御祭神 積羽八重事代主命

 

 式内社 伊豆國那賀郡 多尓夜神社
 御祭神 積羽八重事代主命

 

 式内社 伊豆國那賀郡 哆胡神社
 御祭神 積羽八重事代主命 哆胡若宮命

 

 式内社 伊豆國那賀郡 宇久須神社
 御祭神 積羽八重事代主命 哆胡若宮命

 

 式内社 伊豆國那賀郡 部多神社
 御祭神 大國主命

 

 式内社 伊豆國那賀郡 佐波神社二座
 御祭神 廣幡八幡大神 積羽八重事代主命

 

書いていて寒気がしてきます。
伊豆國那賀郡の式内社の神は、ことごとく出雲系です。
上記「阿波神社」の箇所を見てもらえば分かるように、三嶋大社の御祭神は大國主命の御子「八重事代主命」。
その八重事代主命本后が、阿波神社御祭神「阿波神」です。



この「事代主命の本后、阿波咩命(阿波神)」とは、どなたのことか?
式内社に詳しいHP、伊豆の神社を解説したHP等を見ても、一切記載されていません。
事代主命の本后、阿波神と記すだけで、どのような神か?追及は無しです。
例によって、徳島の阿波と関係があるとは夢にも思わないようです。



徳島県阿波市市場町八幡の「粟島神社」の御祭神は「天津羽々命」と申します。
徳島県阿波市市場町伊月の式内社事代主神社」(阿波には出雲にさえ無い、式内社事代主神社が2か所もある)の御祭神、事代主命の后神です。



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                 事代主神

 

安房斎部系図』によれば、「天津羽々命」は「天日鷲翔矢命」(阿波忌部の祖・天鷲命)の妹神。
『神代系譜』(平田篤胤)によると、その別名が「阿波神」「阿波咩」「阿波々神」「阿波津比売命」です。
すなわち、
事代主命」は阿波の人物、妻の「天津羽々命」は「阿波神」とも呼ばれる阿波忌部直系の女性。



式内社阿波國勝浦郡事代主神社、おそらくこれが長の国、事代主命ゆかりの地。
式内社阿波國阿波郡事代主神社、こちらは長国(葦原中国)国譲り後、阿波忌部の祖・天日鷲命の御兄弟、后神の天津羽々命と過ごされた地なのでしょう。

 

 

事代主命の弟、建御名方神は、葦原中国を追われ、スワまで逃げた、と古事記に記されています。
葦原中国を開拓、これまで治めてきたのは我が親父。今さら無条件で譲れとは、いくら本家とはいえ虫が良すぎる」と唯一正論で逆らった建御名方神は武力で追い詰められました。

 

葦原中国を追われた建御名方神、通説では島根から長野まで逃げ、その地で建御雷神に降参します。

 

 何で一気にそんな遠方まで逃げたのか?
 何故、逃げた先が信州なのか?

 

まともな解説を見たことがありません。
「わからない」または、「神話だから」で、終わりです。



建御名方神を祀る諏訪の「多祁御奈刀弥神社」は「名西郡石井町」、母、高志の沼河比売はその北隣「板野郡上板町」の女性、兄の事代主命を祀る「事代主神社」が鎮座するのはその西隣「阿波郡」。
事代主の妻、天津羽命はその南隣り「麻植郡吉野川市)」出身の女性。
この位置関係を地図でご覧ください。
古代史の本当の舞台が阿波でなければ、こうはいきません。

 

建御名方神の逃走話も、阿波に当てはめれば、母のもとへ、あるいは母の出身地へ、その一族を頼って逃げた、という筋の通ったものになります。
(移動距離も妥当)
あるいは、この事件の前に、既に兄事代主命が天津羽命と結婚していたならば、兄嫁の忌部一族の助けも得ようと考えたのかもしれません。
どちらにせよ、あるいは両方にせよ、諏訪方向へ逃げる根拠があったのです。



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赤丸が高天原。右下が葦原中(那賀)国。線引きはアバウトです。

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逃げた先は、吉野川の河口付近。
現在は上流のダムで川の水量が減り、河口付近の埋め立てで地形が変わっていますが、古代は、その石井町付近まで海が入り込んでいました。
建御名方神古事記に記されたとおり、スワの海まで逃げたのです。
長野に海はありません。




兄の事代主命は、麻植郡を本拠地とする忌部の長の姉または妹と結婚、勢力を拡大し、国譲り後は、東国開拓に活躍しました。
それが、伊豆の各神社に残される痕跡なのでしょう。

 

事代主命と違って、県外の那賀(那珂)の地に、建御名方神の名がほとんど出てこないのは、古事記に記されたとおり、「この地(諏訪)からは外に出ない」という約束と引き換えに命を救われたという経緯があったからでしょう。



阿波の「長の国」と、「那珂」「那賀」の地と、「出雲」と「阿波忌部」のつながりは、明白となりました。



ちなみに、三嶋大神(事代主命)の「後后」と称される「伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)」が祀られている伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)の鎮座地は、静岡県下田市白浜

 

※「地名の一致は阿波忌部進出の名残か?徳島~和歌山~千葉 ②」 参照 ※

 

またしても地名が意味を持ってつながりました。



また、那賀郡ではありませんが、田方郡に、
式内社 伊豆國田方郡 白浪之彌奈阿和命(シラナミノミナアワノミコト)神社 があります。

 

古来から、通称「阿和神社」と呼ばれました。
御祭神は「伊弉諾尊」「伊弉册尊」です。
字が違えども、阿波に係わりがあるのは一目瞭然です。



(続く)

 

(▼0▼)/~~see you again!