古代、阿波忌部を中心とした阿波人たちが全国各地に進出、それらの地に阿波の地名を名付けたらしい痕跡を追いました。
中でも、阿波の「長の国」が「那賀」となり、進出先にも付けた「ナカ(ナガ)」の地名が、「那珂」「那賀」として各地に残っています。
三輪山・大物主神話のルーツは阿波にあった!?に書いたように、「長の国」が「葦原中国」であったなら、各地の「那珂」「那賀」には「大国主命」系の神社が存在するはず、と考えました。
中でも、阿波の「長の国」が「那賀」となり、進出先にも付けた「ナカ(ナガ)」の地名が、「那珂」「那賀」として各地に残っています。
三輪山・大物主神話のルーツは阿波にあった!?に書いたように、「長の国」が「葦原中国」であったなら、各地の「那珂」「那賀」には「大国主命」系の神社が存在するはず、と考えました。
上記②では、忌部・阿波との関わりだけを追ったのですが、それでも「ナカ(ナガ)」の地にその痕跡がありました。これに出雲系の係わりが重なれば、「長の国」=「葦原中国」は決定的になります。
上記②の文章を書いた時点で、まだ知らなかった「那珂」「那賀」について、情報を追加します。地名変更や合併で、現在は消滅してしまったものがあるからです。
~「消滅した郡の一覧」(Wikipedia)から~
ほぉ、こんなところにもあったのか。という感じですね。
これらの地域について、前回と同じように忌部系の進出と絡めて、簡単に調べた範囲で書いてみます。
これらの地域について、前回と同じように忌部系の進出と絡めて、簡単に調べた範囲で書いてみます。
成立当初の那珂郡は現在の宮崎市のうち佐土原・住吉周辺のみの非常に狭い領域。
(現住所に那珂の町名が残る)
1884年に那珂郡は北那珂郡と南那珂郡に分割され消滅。
1896年に北那珂郡は宮崎郡に編入されて消滅。
2009年3月30日(予定)日南市が発足、同日南那珂郡消滅。
(現住所に那珂の町名が残る)
1884年に那珂郡は北那珂郡と南那珂郡に分割され消滅。
1896年に北那珂郡は宮崎郡に編入されて消滅。
2009年3月30日(予定)日南市が発足、同日南那珂郡消滅。
「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」
は、宮崎県の「日向」のことではない、というのは神話舞台の阿波説だけでなく、北九州説でも主張されています。
では、この「阿波岐原町」の地名は、いつから使われているのか?調べようとしましたが不思議なくらい何も出てきません。
禊祓いの記述に合わせ、近代になって町名を名付けたんんじゃないでしょうか?
禊祓いの記述に合わせ、近代になって町名を名付けたんんじゃないでしょうか?
④ 那賀郡(なかぐん)は伊豆国東部の郡、中郡、仲郡、那可郡ともいう。
合併して賀茂郡。
また別の機会に詳しく書きます。
御祭神 阿波咩命(阿波神)
☆ その他
書いていて寒気がしてきます。
伊豆國那賀郡の式内社の神は、ことごとく出雲系です。
上記「阿波神社」の箇所を見てもらえば分かるように、三嶋大社の御祭神は大國主命の御子「八重事代主命」。
その八重事代主命の本后が、阿波神社御祭神「阿波神」です。
伊豆國那賀郡の式内社の神は、ことごとく出雲系です。
上記「阿波神社」の箇所を見てもらえば分かるように、三嶋大社の御祭神は大國主命の御子「八重事代主命」。
その八重事代主命の本后が、阿波神社御祭神「阿波神」です。
この「事代主命の本后、阿波咩命(阿波神)」とは、どなたのことか?
式内社に詳しいHP、伊豆の神社を解説したHP等を見ても、一切記載されていません。
事代主命の本后、阿波神と記すだけで、どのような神か?追及は無しです。
例によって、徳島の阿波と関係があるとは夢にも思わないようです。
式内社に詳しいHP、伊豆の神社を解説したHP等を見ても、一切記載されていません。
事代主命の本后、阿波神と記すだけで、どのような神か?追及は無しです。
例によって、徳島の阿波と関係があるとは夢にも思わないようです。
徳島県阿波市市場町八幡の「粟島神社」の御祭神は「天津羽々命」と申します。
徳島県阿波市市場町伊月の式内社「事代主神社」(阿波には出雲にさえ無い、式内社事代主神社が2か所もある)の御祭神、事代主命の后神です。
徳島県阿波市市場町伊月の式内社「事代主神社」(阿波には出雲にさえ無い、式内社事代主神社が2か所もある)の御祭神、事代主命の后神です。
事代主神社
すなわち、
「事代主命」は阿波の人物、妻の「天津羽々命」は「阿波神」とも呼ばれる阿波忌部直系の女性。
「事代主命」は阿波の人物、妻の「天津羽々命」は「阿波神」とも呼ばれる阿波忌部直系の女性。
式内社阿波國勝浦郡事代主神社、おそらくこれが長の国、事代主命ゆかりの地。
式内社阿波國阿波郡事代主神社、こちらは長国(葦原中国)国譲り後、阿波忌部の祖・天日鷲命の御兄弟、后神の天津羽々命と過ごされた地なのでしょう。
式内社阿波國阿波郡事代主神社、こちらは長国(葦原中国)国譲り後、阿波忌部の祖・天日鷲命の御兄弟、后神の天津羽々命と過ごされた地なのでしょう。
事代主命の弟、建御名方神は、葦原中国を追われ、スワまで逃げた、と古事記に記されています。
「葦原中国を開拓、これまで治めてきたのは我が親父。今さら無条件で譲れとは、いくら本家とはいえ虫が良すぎる」と唯一正論で逆らった建御名方神は武力で追い詰められました。
「葦原中国を開拓、これまで治めてきたのは我が親父。今さら無条件で譲れとは、いくら本家とはいえ虫が良すぎる」と唯一正論で逆らった建御名方神は武力で追い詰められました。
何で一気にそんな遠方まで逃げたのか?
何故、逃げた先が信州なのか?
何故、逃げた先が信州なのか?
まともな解説を見たことがありません。
「わからない」または、「神話だから」で、終わりです。
「わからない」または、「神話だから」で、終わりです。
建御名方神を祀る諏訪の「多祁御奈刀弥神社」は「名西郡石井町」、母、高志の沼河比売はその北隣「板野郡上板町」の女性、兄の事代主命を祀る「事代主神社」が鎮座するのはその西隣「阿波郡」。
事代主の妻、天津羽命はその南隣り「麻植郡(吉野川市)」出身の女性。
この位置関係を地図でご覧ください。
古代史の本当の舞台が阿波でなければ、こうはいきません。
事代主の妻、天津羽命はその南隣り「麻植郡(吉野川市)」出身の女性。
この位置関係を地図でご覧ください。
古代史の本当の舞台が阿波でなければ、こうはいきません。
建御名方神の逃走話も、阿波に当てはめれば、母のもとへ、あるいは母の出身地へ、その一族を頼って逃げた、という筋の通ったものになります。
(移動距離も妥当)
あるいは、この事件の前に、既に兄事代主命が天津羽命と結婚していたならば、兄嫁の忌部一族の助けも得ようと考えたのかもしれません。
どちらにせよ、あるいは両方にせよ、諏訪方向へ逃げる根拠があったのです。
(移動距離も妥当)
あるいは、この事件の前に、既に兄事代主命が天津羽命と結婚していたならば、兄嫁の忌部一族の助けも得ようと考えたのかもしれません。
どちらにせよ、あるいは両方にせよ、諏訪方向へ逃げる根拠があったのです。
逃げた先は、吉野川の河口付近。
現在は上流のダムで川の水量が減り、河口付近の埋め立てで地形が変わっていますが、古代は、その石井町付近まで海が入り込んでいました。
建御名方神は古事記に記されたとおり、スワの海まで逃げたのです。
長野に海はありません。
現在は上流のダムで川の水量が減り、河口付近の埋め立てで地形が変わっていますが、古代は、その石井町付近まで海が入り込んでいました。
建御名方神は古事記に記されたとおり、スワの海まで逃げたのです。
長野に海はありません。
兄事代主命と違って、県外の那賀(那珂)の地に、建御名方神の名がほとんど出てこないのは、古事記に記されたとおり、「この地(諏訪)からは外に出ない」という約束と引き換えに命を救われたという経緯があったからでしょう。
阿波の「長の国」と、「那珂」「那賀」の地と、「出雲」と「阿波忌部」のつながりは、明白となりました。
※「地名の一致は阿波忌部進出の名残か?徳島~和歌山~千葉 ②」 参照 ※
またしても地名が意味を持ってつながりました。
(続く)
(▼0▼)/~~see you again!