空と風

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式内社 事代主神社 阿波市市場町

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延喜式式内社 阿波國阿波郡 事代主神

鎮座地 徳島県阿波市市場町伊月字宮の本100-1

御祭神 事代主神 大国主命  『徳島県神社誌』


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創祀年代不詳。
比定論争はない。
式内 事代主神社は、全国で阿波の2社のみである。

『増補古城記』伊月城の項には、
~当国の元祖人皇三代安寧天皇の御宇出雲国事代主命当国に移り給ふとき五十鈴依姫斎御座す。
  御子残って中川・郡・守等是その神孫なり~
と、記されている。


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地名の「伊月」は、当社の関連で「斎き奉る(いつきたてまつる)」の「斎」の意味という説があるが、
私は「イツ(阿波のこと)岐 または、城」ではないか?
と以前から考えていた。

「いつき」の地名は他にも、

 徳島市伊月町
 阿波市土成町秋月(字伊月)
 三好郡東みよし町足代(字伊月)

など、吉野川流域に県の西部から東部まで点在する。

地図を眺めていると、東みよし町足代の伊月に、なんと「 委津岐神社 」があった。
「伊月」は、後世の当て字である可能性が高い気がする。

全国的に、地名や神社名に関しては、後世の人間が想像で適当な由緒を語ることが多いので、
根拠のない場合は一説として記憶に留めるのがいい。


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当社は吉野川の北岸に位置し、南には、粟島(善入寺島・日本最大の川中島)があり、
対岸が忌部の本拠地である麻植郡吉野川市)である。

私は、漠然と古事記を読んでいて、
「式内 伊射奈美神社」が鎮座する吉野川上流の美馬町鳥島が「淤能碁呂嶋」で、
「水蛭子」に次いで生んだ「淡嶋」が、この「粟島」ではないか?と考えた。

であれば、中鳥島と粟島の間に「蛭子」の痕跡があるかもしれない、と考え、蛭子の地名を探ったが、
その条件に該当するのは、美馬市美馬町(字蛭子) くらいだった。
当社のある阿波市にも3か所存在する。

他にも、Yahoo!地図の住所検索で、ざっと探して

 美馬市美馬町(字蛭子)

 阿波市土成町秋月(字蛭子)
 阿波市市場町上喜来(字蛭子)
 阿波市市場町尾開(字蛭子)

 板野郡北島町北村(字蛭子)
 板野郡板野町川端(字蛭子野)

 鳴門市撫養町大桑島(字蛭子山)
 鳴門市撫養町南浜(字蛭子前)
 鳴門市大津町長江(字蛭子)

 徳島市上助任町(蛭子)

 小松島市大林町(字蛭子免)
 小松島市新居見町(字蛭子)
 小松島市中田町(字蛭子ノ本)

 阿南市中林町(蛭子浜)
 阿南市柳島町(蛭子面)
 阿南市横見町(蛭子面)
 阿南市柳島町(蛭子裏)

 那賀郡那賀町鮎川(字蛭子)

が、ある。
県内にも多い「蛭子神社」は、また近々に調べる予定。


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古事記には、蛭子(ひるこ=えびす)を、「葦船で流し去った」と記されている。
上の住所を見て、土地勘のある人ならば、全て川沿い・海沿いであることが分かる。

吉野川の一番上流が、美馬町の蛭子である。そこから上流には蛭子の地名がない。
そこから下流に地名が続き、海に出て、南下。
那賀川を登ったところが、那賀町の蛭子である。

当社の鎮座地である阿波市に「吉野」があり、この那賀町鮎川のすぐ南に「吉野」がある。
那賀町の一部に「鷲敷」(元鷲敷町)があり、鷲敷竜王が此の地に流れ着いた(ひるこ)を救い、
(えびす)と名付けて養育したという伝説を空海も記している。

「阿波國勝浦郡 事代主神社」で書く予定。

その「勝浦郡 事代主神社」のすぐ南に「善入寺」という寺がある。
できすぎである。仮説が裏付けられるかのようで、ちょっと怖い。
ちなみに、阿波郷土史家のほとんどは、この勝浦郡事代主神社の地が、「えびすの生まれた地」としていて、
私の説とは逆になる。


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善入寺島(粟島)は、忌部氏が開拓し粟を作った場所で、阿波の地名の起こりとも云われ、
事代主命の后神「天津羽命」を祀った「八條神社」が鎮座していた。
(現在は、阿波市市場町八幡の「粟島神社」に遷座

天津羽命は、阿波忌部の祖「天日鷲命」の御兄弟である。


記紀に「あわ郡にいる神」という記述がある。
他県の「あわ神社」の御祭神に「あわ郡にいる神」・「あわ神」が見える。
すべて、当社の「事代主命」や、その后神「天津羽命」、同阿波郡の「建布都神社」の「武甕槌神」のことである。


「不思議の徳島」と「徳島の神社」の区別があいまいになってきたのは、御勘弁。