空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

地名の一致は阿波忌部進出の痕跡か?①

熱海の海底遺跡は、鎌倉幕府の巨大軍港だった!?http://www.dailymotion.com/swf/x60xld&related=0

Dailymotion

この動画の続きは今週あたり放送されたと思うのですが、例によって私は見ていません。
予告から見て「村上水軍」との関連や、水軍ネットワークのようなものを持っていたという話になったのではないでしょうか?

動画の最後に勝浦という地名の話がちらっと出ていますが、地名の伝播という話は「勝浦」だけではないのです。
まず、有名なのは「徳島」と「和歌山」の地名が似ていることです。
私も子供のころから「似たような地名がところどころあるな~」と思っていました。
たとえば、大杉氏はじめ多くの人が指摘するように、徳島と和歌山~奈良で、吉野川吉野の地名が向かい合っています。

 

イメージ 1

 

これを見てください。 
紀淡海峡交流研究会という組織のHPに掲載されている地図です。(クリックで拡大)



イメージ 2

 

同じ地名、似通った地名がこれだけあります。
(実は他にもあります)
徳島と和歌山の地名の共通点は、比較的多くの人に認識されていますが、それだけでは、どちらの地名が元なのかがわかりません。
両県以外にも共通する地名をさらに追い、それを太古の忌部の移動に重ねると、阿波がルーツではないかという仮説が自然に立ち上がります。

 

また、徳島弁と和歌山弁は非常によく似ています。
関西弁のルーツが阿波弁だというのも有名な説です。
他地域の人が「徳島弁」を聞くと「関西弁」に聞こえて、何を真似しているんだ?と思うようです。
しかし、これは昔からの言葉であって、昔の人の流れは、両地域で言えば、主に徳島→関西でありその逆はないのですから当然です。
今のようにテレビがあって他地方の人間が関西弁を真似るというような環境はないのです。
言葉の伝播は、もっぱら人の移動に沿う、ということです。

 

しかし、徳島の人間から見れば、徳島弁と関西弁は「似て非なるもの」です。
(人によっては、徳島弁は関西弁より京都弁に近い、と言います)
ところが、以前はじめて和歌山に行ったとき、その言葉を聴いてびっくりしたことがあります。
(これ、まんま徳島弁やないか!?)と思ったのです。
その場所は、フェリーから降り立った那智勝浦でした。
ちなみに、その先の三重の言葉も似ている部分が多いです。
徳島弁も和歌山弁も近年はだいぶ変化しているようですが、もともとは人々の交流や移動が大量にあったのでしょう。



千葉県にも一部似た地名がありますが、私は以前この件に関し全く無知だったので、「似たような地名ってあるものだな~」くらいにしか思っていなかったのでした。
千葉県の一部は、徳島の忌部氏が太古に進出し、そこに地名を名づけ、神社を創建したことなど、まったく知らなかったのです。
阿波忌部は日本の各地に進出していますが、もっとも有名で、その痕跡がもっともはっきりと残っているのが千葉県なのです。
忌部は、海路をとって房総半島に上陸し、開拓しながら北上し、茨城~栃木あたりまで進出しています。
その手前では、和歌山、三重、静岡、東京、埼玉など、黒潮に乗って関東へ向かうルート上に、その痕跡があります。

この忌部の東征・開拓は、大和朝廷の成立と同時進行で行われているのです。



イメージ 3

 

同じ番組で、数回にわたって、「関東日本王国」というものを放送しています。
大和朝廷と同時期に、それと同じかそれ以上の文化国家が関東に築かれていたという話で埼玉古墳を紹介しているのですが、これに忌部が加担していないか?と、今興味を持っています。
まったく西と関係ない国家ではないでしょう。
前方後円墳の埋葬文化だからです。
現在判明している日本最古の前方後円墳は、徳島県萩原墳丘墓です。

 

 

関東日本王国も、利根川をさかのぼって海人族が築いたと言われており、阿波忌部族も吉野川をさかのぼった現在の吉野川市が本拠地です。
ともに、独自に朝鮮半島と交流を持った痕跡があります。
それだけの航海術を持った氏族が、あの時代に同時期に複数存在しえたでしょうか?

 

何でも、スーパーマンのように忌部のせいにしているように見えると思いますが、実際それだけマルチな活躍をした一族です。
そのため、研究者も忌部をただの一氏族とは考えていないようです。



古語拾遺』に

仍、令天富命日鷲命之孫、求肥饒地遣。
阿波國殖穀・麻種。共裔、今在彼国。當大嘗之年、貢木綿・麻布及種種物。所以、郡名爲麻殖之縁也。
天富命更求沃壤、分阿波齋部、率往東上、播殖麻・穀。
好麻所生。故、謂之総國。穀木所生。故、謂之結城郡

 

と、あり、天富命率いる阿波忌部が関東に上陸し、開拓。
「麻」がよく育った地を「総国(上総・下総)」、「穀木」がよく育った地を「結城郡」と名づけた、と書かれてあります。

 

この「天富命」とは、古事記の神話に登場する「天太玉命(忌部の祖)」の孫であり、10代崇神天皇の第二王子です。



前半部。

 

天富命」が「(天)日鷲命之孫」を率いて、肥饒の地を求めて「阿波国」へ入り、「麻」を植えた。
そして、その地を「麻植郡」と名づけた。(平成の大合併にて吉野川市

 

その子孫が今もいて動画に出ている三木氏、歴代天皇大嘗祭のとき、「木綿・麻布及種種物」を貢いでいる。

 

その後、「天富命」は、更によき地を求め、「阿波齋(忌)部」を「分け」て率いて、関東に向かった。

 

とあります。
古語拾遺』の、この一節だけが有名なため、天富命は「中央忌部」で、「阿波忌部」も地方忌部のひとつ、という解釈が一般的で、千葉県の関係神社の由緒などにも、ほとんどそう解説されています。



しかし、天富命が率いた者たちの祖である天日鷲命とは、もともと「阿波忌部」であり、天富命の母も阿波忌部の女性とみられています。
つまり、彼らは里帰りしたというのが事実であって、未開の阿波の地を中央忌部が開拓したというイメージこそ、情報不足による勘違いなのです。

 

古語拾遺を書いた斎部広成は、わざとこういう書き方をしたのではないか?とも思います。
つまり、後世に読む者のために、忌部のルーツは阿波なのだということを文章に含ませたのです。
何故なら、天富命が率いた者たちを、わざわざ「日鷲命之孫」と記しています。
意味がなければ、そんな書き方をする必要はありません。
忌部の者たちを率いて、とか、普通はそんなことも書かない。「天富命は~」で終わりです。



千葉以外では、忌部の関東進出があまり知られていないので、神社の由緒などが失われているばかりか改変されているところも多いようです。
たとえば、明らかに忌部系の神社なのに、由緒が不明(古すぎるので)になったとみえ、古事記の有名な神(関東の神社で一番目立つのはヤマトタケル命)を御祭神としているところが多いです。
その他、大きな神社のほとんどが「出雲系」の神々を御祭神にしていて、後年に勧請したり、産土神と合祀したらしい様子が見て取れます。



忌部の痕跡が一番はっきりしているのが千葉であって、その他、忌部系の神社や、阿波または忌部ゆかりの地名で確認するならば、かなりの広範囲に進出していることがわかります。
ただし、有名な神社(たとえば鷲神社)などは、後年に勧請されて広がっていることもあると想像できるので、忌部氏が実際に開拓した地域の範囲より、痕跡は広範囲になっていると思われます。
これらの神社や地名についても、また別の機会に書きたいと思います。



文章を追加したら制限文字数をオーバーしたので(こんなのはじめて)、2回に分けます。
後半で、上の動画に出ていた「勝浦」のほか、個人的に気になっていた「白浜」と「牟婁」、「那賀」「那珂」について、地名の一致を追います。