空と風

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式内社 阿波国美馬郡 伊射奈美神社

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「伊射奈美神社」、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社です。
この「も」が大変多いので、今後少しずつ紹介したいと思っています。
古事記の神話の世界で主要な活躍をされる神の名を冠した式内社が、徳島にしかないというのはどういうことなのでしょうか?

しかも今後紹介しますが、それが複数あるのです。
式内社以外にも、たとえばお寺でも、朝廷から厚く保護されたり、源頼朝や徳川家などからも特別な扱いを受けた事実が阿波の地や神社などに複数残されています。
逆にその地が「古事記の舞台である」とされているにもかかわらず、現実にはその国が朝廷から何の計らいも受けたあとがなく、そのせいで「古事記が史実ではない」と考えられるようなケースもあるそうです。


大杉氏は、
「徳島は式内社だけでなく全ての神社の祭神を調べてみても、記紀神話に登場するあらゆる神が祀られ、そしてむしろこちらが重要なのだが、記紀神話に登場しない神はほとんど祀られていない」
と言い、また
「徳島は、天孫族出雲族がほぼ半々、バランスよく祀られていて、記紀神話の舞台はこうでなくてはおかしい」
と分析します。

まったく私もそう思います。
この状態で、これらが全て「贋物」や「勧請した神社」であったとすれば、古代の徳島県人というものは相当にイカれたミーハーだったということにしかなりません。
第一、そのほとんどは「式内社」なんですから、贋物なわけはありません。
朝廷が贋物に対し、それを赦すわけも官社認定するわけもないではありませんか?


延喜式式内社に比定されている「伊射奈美神社」は、徳島県内に3か所あります。
この美馬町の他、穴吹町の「伊射奈美神社」と、山川町の「高越神社」です。

高越神社に関しては、江戸時代の『阿府志』にも

「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山の絶頂にあり、俗に高越大権現、祭神一座伊射奈美尊 別当高越寺神主早雲治郎」

とあり、これを古事記の「伊邪奈美神は,出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき」と重ねて、
比婆山高越山高越神社伊射奈美神社と考えるものです。


私は、伊射奈美神社は「美馬町」か「穴吹町」の比定が正しいのではないか?と思っています。
古来から「イザナミ」の名を冠しているというのは、それだけで理由のあることだからです。

古事記の「国生み」で、伊邪那岐尊伊邪那美尊は、まずオノゴロ島を生み、そこに降りたわけですが、そのオノゴロ島が共に川中島である美馬町の「中鳥島」か穴吹町の「舞中島」であり、その両島にあるそれぞれの伊射奈美神社のどちらかが式内社ではないかと考えます。
あるいは、どちらかの島がオノゴロ島であるため、分祀されたのかもしれません。
ちなみに大杉氏は、仁徳天皇が淡路島で詠んだ歌や「釈日本紀」の記述から、オノゴロ島を阿南市沖の丸島に比定しています。

仮に「比婆山」=「高越山」だったとしても、それは高越山が伊射奈美尊が葬られた場所ということで、
「陵墓」=「神社」ではありません。
どちらにせよ、どれが贋物というわけではなくて、二社は元社である式内社を勧請したものでしょう。
それよりも、この三社が徳島の中でも比較的同じエリアの中に集中していることのほうが重要で、やはり吉野川沿い中西部に伊射奈美尊謂れの地があることは確実でしょう。


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三つの赤丸が比定社

私は個人的には中鳥島を推しています。
根拠があるからではなくて「近い」からです。(笑)
古代の徳島に思いをはせたり研究している人たちも、見てみると、大体はご自分の生活地を中心に仮説を展開しています。しがない人間の性ですね。

「中鳥島」は小さな川中島ですが、昭和63年に28戸が立ち退き移転になり、現在無人島になっています。
元は「中鳥村」で1500~1600年ころは、なんと三百有余の人家があったのですが、1726年の吉野川の大洪水で川中島になりました。
それまでは、吉野川南岸と陸続きでしたが切り離され、その後は川の本流が島の南になり、北岸と陸続きになりました。


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西(上流)から見たところ

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東(下流)から見たところ

私の中学時代に同級生がここに住んでおり、一度遊びにいったことがあります。
島と北岸の間には道路もなく、石だらけの川原を自転車を押して行きました。
川原には人や車が通った後に自然に道らしきものができているだけです。
雨が降って増水すると北岸にも流れができて、完全な離れ島になってしまいます。
授業中でも大雨が降り出せば、中鳥に住む子達は学校を早退し帰宅していました。


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増水で川中島になった中鳥島

島の形態は「自凝(おのごろ)島」という表現にぴったりします。
今思えば、伊射奈美神社の元社を訪れたり、お年寄りに話を聞いたりしたかったと残念です。
この島の住人たちは、現在は他所にばらばらに住まわれていて、今は近くを通りかかっては道路からの島の様子を感慨深げに眺めるのみです。

比較的人口の多いお金のある自治体だったら、公園にでもするような趣のある小島です。
田舎では、保護できず野ざらしにするしかなく、また県内のいろいろな神社や遺跡を見ても、荒れ放題だったり、未調査だったり、逆に開発で破壊してしまったりで、田舎の自治体の辛さと限界を見る思いです。

鳥島も例外ではなく、もと人家のあった部分は、かなり削られてしまっています。
現在こんもりと木々が茂っているあたりが島の中心地、神社の元地付近だそうです。
今は雑草と雑木で何一つ見えませんが、当時は南岸の国道から家々が見えていました。

伊射奈美神社のことを知り、いつかこの島を探検して元社へ行こうと思っていましたが、鳥居や狛犬、灯篭その他全て現在の社地に移しているようなので、元地にはもう何の痕跡もないかもしれません。


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大洪水で沈みかけた中鳥島(まだ堤防や上流のダムもなく水量が現在の倍以上あった)