阿波國美馬郡 天椅立神社 の表記をよく見ると、天「 椅 」立。
「 橋(はし) 」の字と似てはいるが違う。
というHPの「延喜式神名帳」を見ると、式内 天椅立神社は、(あめよりたち)神社と振り仮名されている。
『記・紀の説話は阿波に実在した』 巻末資料の式内社一覧にも同じく、“あめよりたち”と記されている。
延喜式神名帳には、「椅」の字が使われているらしい。
そして写本のどれかに、アメヨリタチ とルビが振られているようだ。
『記・紀の説話は阿波に実在した』 巻末資料の式内社一覧にも同じく、“あめよりたち”と記されている。
延喜式神名帳には、「椅」の字が使われているらしい。
そして写本のどれかに、アメヨリタチ とルビが振られているようだ。
この点について、何人かの方が、「誤字」ではないかと言っている。
つまり本来「 橋 」と書くべきところを、「 椅 」と書いてしまったというわけである。
であれば、現存する延喜式神名帳に書かれているところからみて、原本から間違っていたか、写本の段階で間違えたということになる。
つまり本来「 橋 」と書くべきところを、「 椅 」と書いてしまったというわけである。
であれば、現存する延喜式神名帳に書かれているところからみて、原本から間違っていたか、写本の段階で間違えたということになる。
この神社も「 椅 」の字を(はし)と読んでいるのである。
磐椅神社を解説したページには、(「椅=梯」と「橋」は同義語) と書いてあった。
磐椅神社を解説したページには、(「椅=梯」と「橋」は同義語) と書いてあった。
すなわち、延喜式の記載間違いというよりは、古来全国的に、「(はし)だて」は、「(椅)立」と記すのが普通だったことが分かる。
ちなみに全国で、そのものずばり「天椅立」神社という名の式内社は、ここだけである。
ところで、なぜ、椅 という字を使ったのだろうか?
「椅」という字は、調べても「椅子(いす)」という使い方くらいいしか見当たらない。
「奇」一字の意味は、「折れ曲がる」「不安定」「半端な」「不完全」。
「椅」は、「傾いて寄りかかる木」になり、→ 椅子 の字が生まれる。
「椅」は、「傾いて寄りかかる木」になり、→ 椅子 の字が生まれる。
発音は、呉音でも漢音でも( イ )である。
此の里の海に長く大きなる前あり。
長さ一千二百廾九丈、廣さ或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廾丈以下なり。
長さ一千二百廾九丈、廣さ或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廾丈以下なり。
先を天の椅立と名づけ、後を久志の濱と名づく。
然云ふは、國生みましし大神、伊射奈藝命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。
~天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立て~
とあるため、意味から考えて 「椅」 は 「橋(はし)」 または 「梯子(はしご)」 のこととされているのである。
とあるため、意味から考えて 「椅」 は 「橋(はし)」 または 「梯子(はしご)」 のこととされているのである。
倒れた梯子というよりは“弓”に見える?「天椅立」 |
もう一つは誰も言わないが、(はしだて)という読みそのものが間違っているという可能性だ。
日本三景、(あまのはしだて)という読みがあまりに有名なため、そう読むものと追い込み、時には 「天椅立」 を「 天橋立」 と誤記までしているのが現状なのではないか?
そうだとしたら、本来はなんと読むのだろうか?
普通に (いだち)(いだて) なのではないか?というのが私の新説である。
それでは「いだち」「いだて」という神社がどこか他所に存在しないのか?と調べてみると、
播磨国 射楯兵主(いだてひょうず) 神社 御祭神・射楯神
「伊達氏」なども元の読みは(いだて)であったが、江戸時代に(だて)へと読みが変遷した。
この天村雲神の別名がなんと、「 天五多底命 ( あめのいだてのみこと ) 」 なのである。
現在の山川町は、古代、忌部郷・射立郷 という二つの郷からなっていた。
御祭神の天村雲命は、「 射立神 」とも呼ばれる。
周辺地域や神社には、弓に関する伝承や神事が残されている。
周辺地域や神社には、弓に関する伝承や神事が残されている。
そうすると、上記「射楯兵主神社」の御祭神と同神という可能性が出てくるのである。
この「射立郷」とはどのような場所にあったか?
このような一致が見られた場合、阿波の出雲族などと同じように、「 阿波のほうが丹後から何らかの影響を受けたのだ 」と、ほとんどの人が考えるのである。
それは、誰もが「 現時点で、より有名なほうの、地名・神名・社名 を元につながりを考えるから 」である。
それを先入観という。
(▼0▼)/~~see you again!