誰の説のどの部分から話したとしても、話が遠大過ぎて、整理して書くことなど出来ません。
思い出したり、目に付いた部分から、一つ一つ書いていきます。
思い出したり、目に付いた部分から、一つ一つ書いていきます。
複数の人が、古事記の神話の舞台が徳島である、と考えることの根拠の一つとして「神社」の存在を上げます。
これについては、また別に詳しく書かなければいけません。
これについては、また別に詳しく書かなければいけません。
「大國玉神」とは、都の地の産土神です。
「倭」の国の「大國玉神」を祀った神社があるということは、その地が倭の国の都だったということになるのです。
「倭」の国の「大國玉神」を祀った神社があるということは、その地が倭の国の都だったということになるのです。
倭大國玉神大國敷神社(美馬町)
倭大國玉神大國敷神社に比定されている神社は2社あり、ひとつは徳島県三好市池田町の「医家神社」、もうひとつが美馬市美馬町の「倭大國魂神社」です。
つまりどちらにせよ、徳島の吉野川沿いの中西部に「倭」の「都」があったということになります。
倭大國玉神大國敷神社に比定されている神社は2社あり、ひとつは徳島県三好市池田町の「医家神社」、もうひとつが美馬市美馬町の「倭大國魂神社」です。
つまりどちらにせよ、徳島の吉野川沿いの中西部に「倭」の「都」があったということになります。
ちなみに、奈良には「大和坐大国魂神社」、それを勧請したとされる「大和大国魂神社」が淡路島にあります。
国名を冠さない「大国魂神社」は他県にも何ヶ所かありますが、ほとんどが「出雲大社」を勧請したもののようです。
国名を冠さない「大国魂神社」は他県にも何ヶ所かありますが、ほとんどが「出雲大社」を勧請したもののようです。
「倭」「大和」と国名のつくものは徳島、淡路島(江戸時代までは徳島の一部・アワジとは阿波への路の意)、奈良にしかありません。
淡路島の大和大国魂神社がそうであるなら、徳島の倭大國玉神大國敷神社も奈良の大和坐大国魂神社からの勧請ではないのか?
という指摘はありえると思います。
現在の一般的な常識では、倭=大倭=大和=奈良県、で昔日の日本の中心地。
無名でド田舎の阿波の神社なんて、そこから勧請されたものに決まっている、と思うのも無理ないからです。
という指摘はありえると思います。
現在の一般的な常識では、倭=大倭=大和=奈良県、で昔日の日本の中心地。
無名でド田舎の阿波の神社なんて、そこから勧請されたものに決まっている、と思うのも無理ないからです。
しかし、本当にそうでしょうか?
それならば、何故、阿波(淡路島)にだけ勧請されたのか?
わざわざ海を越えなくても、周辺にも大和を囲んだ国がいっぱいあります。
また何故、阿波には「倭」という違う字が当てられているのか?
という疑問も起こります。
わざわざ海を越えなくても、周辺にも大和を囲んだ国がいっぱいあります。
また何故、阿波には「倭」という違う字が当てられているのか?
という疑問も起こります。
「四国など、大和朝廷とは何の関わりも無い」という先入観があるから、当然想起されるそういった疑問を、誰一人「考えてみよう」とさえしないのです。
そもそも古事記の国生み(これも後述)を見てください。
淡(阿波)から始まり、淡路島~四国全体~北九州~、と平定されていくのです。
「高天原」は「空の上」で、九州や出雲や諏訪など地上のあちこちに降りたり飛んだりすると考えるほうが無理があるのです。
実際のルーツは「国生み」の順番通りなのです。
淡(阿波)から始まり、淡路島~四国全体~北九州~、と平定されていくのです。
「高天原」は「空の上」で、九州や出雲や諏訪など地上のあちこちに降りたり飛んだりすると考えるほうが無理があるのです。
実際のルーツは「国生み」の順番通りなのです。
またこれも別の機会に書きますが、倭国と大倭国は別、というのが古事記徳島説の研究者たちの、ほぼ一致した意見なのです。
「倭国」が徳島で、「大倭国」(大和国)が奈良ということです。
さらに「倭」の読みは「イ」で、徳島は元は「イ」国、同じ字を後に「ワ」とも「ヤマト」とも読んでいるとします。
阿波の「倭」が畿内へ進出し「大倭」になったという意見です。
そもそも、大倭をヤマトと訓むのは無理があり、古文献ではオオヤマトと訓まれています。
「倭国」が徳島で、「大倭国」(大和国)が奈良ということです。
さらに「倭」の読みは「イ」で、徳島は元は「イ」国、同じ字を後に「ワ」とも「ヤマト」とも読んでいるとします。
阿波の「倭」が畿内へ進出し「大倭」になったという意見です。
そもそも、大倭をヤマトと訓むのは無理があり、古文献ではオオヤマトと訓まれています。
(続く)