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式内社(天石門別八倉比賣神社)比定①  八倉比売神社 徳島市国府町

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日本一社 延喜式式内社名神大社) 阿波國名方郡 天石門別八倉比賣神社  (論社) 八倉比売神
 
鎮座地 徳島県徳島市国府町矢野字宮谷531
 
御祭神 大日霊命(おおひるめのみこと)
 
 
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(境内由緒書)より
 
 天石門別八倉比賣神社略記
 
 式内 正一位 八倉比賣神宮
 御祭神 大日孁女命(別名天照大神
 御神格 正一位延喜式に記録された式内名神大社である。
       仁明天皇の承和八年(841年)八月に正五位下を授けられ、
       清和天皇貞観十三年(871年)二月二十六日に従四位上を次第に神階を昇り、
           後鳥羽天皇の元暦二年(1185年)三月三日正一位となる。

当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。
江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。
これは、柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社様式である。
 
奥の院は海抜一一六米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。
青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合せた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
 
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(海抜212米)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
 
銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮かに踊り、水の女神との習合を示していた。
古代学者折口信夫天照大神を三種にわけて論じ、「阿波における天照大神」は、「水の女神に属する」として、「もっとも威力ある神霊」を示唆しているが、余りにも知られていない。
 
当社より下付する神符には、「火付せ八倉比賣神宮」と明記。
鎮座の年代は、詳かではないが、安永二年三月(1773年)の古文書の「気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」の記録から逆算すれば、西暦338年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。
しかも、伝承した年代が安永二年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。
 
 
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 矢野神山 奉納古歌
 
 妻隠る 矢野の神山露霜に にほひそめたり散巻く惜しも
 
 柿本人麿(萬葉集収録)

当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
 
古代阿波の地形を復元すると鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。

天照大神のイミナを撞賢木厳御魂(つきさかきいつのみたま)天疎日向津比賣(あまさかるむかつひめのみこと)  と申し上げるのも決して偶然ではない。
 
なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井がある。元文年間(1736 - 41年)まで十二段の神饌田の泉であった。現在大泉神として祀っている。

当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄の古文書が証する。
延久二年(1070年)六月廿八日の太政官符で、八倉比賣神の「祈年月次祭は邦国之大典也」として奉幣を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである。
 
 
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Wikipedia
 
太政官(だいじょうかんぷ=だじょうかんぷ)は、日本の律令制のもとで太政官が管轄下の諸官庁・諸国衙へ発令した正式な公文書。官符とも言う。
 
府とは、元来官庁が自己の管轄下にある下位の官庁に出す命令文書を指し、太政官以外の官庁でもこれを出すことが出来たが、太政官は原則として他の全ての官庁に対して符が出せたこと、格のような重要な法令も太政官符の書式を用いて出されることがあったことから、極めて重みを有した。
 
太政官符は、天皇の裁可もしくは国政の枢要を担う太政官会議(議政官会議、公卿会議とも)での決定を受けて、弁官局で文書が作成され諸司諸国へ発給されるのが律令上の原則だった。
 
この阿波国司あての太政官符から分かることは、この時代、すでに阿波国では、その歴史が喪失していて、中央では、逆にその重要性を語り継ぎ認識していたという事実である。
八倉比賣神社の祈年月次祭が、日本国家の大典だと、その太政官符がいうのだから。
 
 
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当社は、昔から神域として、神山・矢野神山と呼ばれる一帯に鎮座する。
 
延喜式神名帳』には、忌部神社大麻比古神社と並び、大社と記される。
もと、杉尾大明神と称されていたが、明治3年(1870)に現社名に改めた。
 
上記のように、当社は、はじめ、気延山山頂にあったが、後に峰続きの杉尾山に鎮座した。
その様子は、『天石門別八倉比賣大神御本記』に記される。
安永2年(1773年)に書かれた文書(御本記のことと思われる)にあるという、鎮座から2105年という記述から逆算すると、紀元前332年となる。
(当社案内版では何故か西暦338年)
  
ところが、『御本記』原文をみると、
 
而後経二千百五年而到小治田御宇元年龝八月太神毛原美曽持爾託曰久・・・・・
 
と記され、小治田の御宇元年が、気延山鎮座から2105年で、杉尾山に遷座した年、と読めるのである。
こうなると、神社の解説文の「古文書の書かれた1773年が、杉尾山に鎮座してより2105年」という解釈がどこから出てきたのか疑問である。
 
『御本記』はおそらく、それ以前の伝記伝承、風土記などを参考に書かれたものと思うが、「而後経二千百五年而到小治田御宇」の一文を持って、一般には偽書扱いされるだろう。
しかし、その内容は、物語と地名の由来を繰り返し述べるなど、風土記の要素が強いもので、創作というよりは何らかの伝承を参考にしたと思われる。
 
 
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社殿裏手、奧の院と呼ばれる一角には、五角形の石組みの祭壇があり、一説には卑弥呼の墓と云われる。
江戸時代までは、この一帯から大量の丹が土にしみ出していた。
魏志倭人伝には、「朱」を用いる習憤についての記述があるが、この年代と一致する水銀朱鉱山の跡は、日本では阿南市の若杉山遺跡しかない。
 
 
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一帯は約200基の古墳が集中する神域であり、その中でも最大規模の古墳上にこの磐座が築かれ、同じ古墳の一角を整地して八倉比売神社社殿が建てられている。
 
この磐座が築かれる丸みを帯びた丘状の盛り上がりを横から眺めると、巨大な円墳、または前方後円墳の後円部であることが一目でわかる。
 

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祭神である、大日霊命(おおひるめのみこと)とは、天照大神のことである。
つまり、当社を天石門別八倉比賣神社に比定するならば、八倉比売命(やくらひめのみこと)とは、天照大神の別名ということになる。
 
論社は他に二社、
 
 一宮神社       (徳島県徳島市一宮町)    御祭神 大宜都比売命・天石門別八倉比売命
 
がある。
すなわち、八倉比売命とは、天照大神か、大宜都比売か、二神とは別の第三の神、ということになる。
 
 
また当社名は、忌部系の神社を表すという説がある。
以前も書いたが、この神社名を考えるとき、八倉比賣が天照大神であるならば、天石門を押し開けて現れた神話にちなむという見方ができる一方で、そのものずばり「天石門別神」という御神名の神がいるからである。
つまり、神社名は本来、天石門別神と八倉比売神を祀るという解釈なのである。
 
天石門別神とは、一説では、忌部の祖とされる天太玉命の子に当たる。
又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい、御門の神である。
 
八倉比売神社の鳥居(実際は二の鳥居)をくぐってすぐ右に在る境内社が箭執神社(やとりじんじゃ)で、この御祭神が櫛石窓神、豊石窓神である。
境内社は他にも、松熊神社(まつくまじんじゃ)御祭神(手力男命・天宇受売命)、他複数がある。
天石門別八倉比賣神社の社名が、天石門別神にちなむとすれば、境内社の一社で祀られるというのも腑に落ちない。
そもそも、二柱の神を祀る神社であれば、「二座」と書くのが延喜式神名帳の習わしで、当社の場合は八倉比賣にかかる形容詞的名称であろう。
 
 
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箭執神社
 
ところが当ブログでも見てきたように、この天石門別神が、櫛石窓神、豊石窓神、手力男命、そして天日鷲命と別名同神という記述が様々な文献にあるのだから、ややこしい。
 
佐那河内村のこの神社の御祭神は、 天手刀雄神  天照皇大神  豊受皇大神 
であり、天石門別八倉比賣神社との関係を強く連想させる。
 
 
 
『天石門別八倉比賣大神御本記』には、見ることができないが八倉比売神社に保管されているもの(当ブログに張り付けた動画に出ていた)、書物に引用されたもののほか、御本記とほぼ同じ内容、といわれる『阿波国杉之小山之記』(1831)で確認することができる。 (以下に一部抜粋)
 
 
 而後在神伊邪那岐神 次妹伊邪那美神 此二神國土海原及山川諸乃霊神産生之後 
 伊邪那岐神洗左御目時 所成神名号日孁大神是則八倉乃日孁大神也

 最初高天原爾志氏武備志賜比志後
 天石門別乃神爾勅天自今以後汝等吾爾代天武備乎奉負
 
 而後比賣大神天八重雲於伊津乃路別爾千別天天降給只 
 最初椙乃小川乃清只流乎照臨賜天此川乃水深志止謂登毛太早止宣喜
 故其所乎謂早渕乃邑止
 于時大地主神(土宮是也)木股神御井神是也)参逢天此河乃魚乎漁天奉饗 
 太神禰言鰭乃狭物止謂止毛可食物也止 故号其河
鮎喰川

 于時大地主及木股神爾勅言久 吾可住在処矣汝等宣奉導 
 大地主答曰 久是與利西乃方朝日乃直刺山夕日乃日照留気延嶺阿利
 請其地爾可行幸止啓天奉引導
 
 于時在神名於者伊魔離神 止白天此野爾生採五百箇野薦八十玉籖雑々乃幣奉流
 (其採野薦地者謂五十串野其奉饗地者謂美阿閇野謂髪狭野止)
 
 是與利西乃方杉乃小山乃麓爾到利給者石門別神迎来天敬禮啓須
 大神宣久汝等吾勅言乃如爾志氏天吾乎待志哉
 答曰久然前乃如神宣則此處御矢乎蔵地也止 
 仍天太神甚加褒辞賜而此地爾一宿経而(此故爾謂矢倉乃郷止亦謂屋度利乃社止)
 猶山坂乎攀登天杉乃小山乎経天気延乃山爾到利給布 
 于時広浜乃神参相天時節乃御衣奉留其地乎謂御衣足止
 
 直爾気延乃嶺乃下津磐根爾宮柱廣敷立高天乃原爾峻峙榑風天天上乃如儀仁志氏天鎮座須
 (天石門押坐故天石門別云 八倉郷爾坐姫御神故ニ八倉比売ト云
 此夜八百萬乃神々集爾集天嘘楽賜 其神集志所者喜多志嶺止謂
 
 
 而後経二千百五年而到小治田御宇元年龝八月 太神毛原美曽持爾託曰久
 吾宮地遙爾高峻志此 
 故爾神主祝部巫乃百乃蒼生爾到萬天参詣拝趨爾倦労奈牟
 杉乃小山者不高不低不遠不近直善地也 彼嶺爾欲遷座 

 吾前爾従天持降流所乃瑞乃赤珠乃印璽於波 杉乃小山乃嶺爾深久埋弖天乃赭乎以覆蔵 
 是其赭者諸邪鬼妖怪及諸病乎厭爾奇仁妙奈流験止教喩賜只
 赭印璽止号弖奉秘崇是也 其印璽所埋之地乎謂印璽乃嶺(又謂御石之峯)
 
 于時神主祝等啓申久大神乃如託宣可奉遷坐
 
 
全文・訳文、その他詳しくは

 こちら ぐーたら気延日記(重箱の隅) 天石門別八倉比賣大神御本記
 
 
ところで、『安房斎部系図』には、「天背男命(天手刀雄神)の后神が八倉比売神で、その子が天日鷲翔矢命」との記述がある。
 
さらには、ぐーたら氏が発見した、『続(“古”に対する、と思われる)阿波国風土記』の「編輯雜纂」にはまた、

 天津國玉神ノ御子 天日鷲命ハ 即日向皇子ニテ 是天石門別神
 其御霊ヲ倭大國玉神トイフ
 天石門別神 櫛磐竃神ノ后神ヲ 天石門別八倉姫トイフ 
 
と記されている。
これらを考察すると、とても書ききれないため、続きは「不思議の徳島」で。
 
 
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