空と風

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阿波説は狂熱的研究者の臆説

他のことを検索していて、たまたまこんなブログを見つけました。
面白いので紹介します。


先々日、知人のS氏がやって来て「徳島の人で、邪馬台国はじめ魏志倭人伝に記された倭人国はすべて四国にあると言っている人がおり、その人はまた、剣山にユダヤの<契約の箱=アーク>が秘蔵されているとも言うんですが、どう思いますか?」ときた。
「日本に失われたユダヤ10支族の一部が紀元前に渡来した――という説はよく聞くし、それがどうにも雲をつかむような話で、証拠は何一つないので、否定せざるを得ないよ。
だから、無い話なのにそれを剣山に引き寄せて自論を展開した所で、所詮は<自己満足>、悪くすれば<狂信>だな。」
 
「証拠不十分」なら反対しませんが、「証拠は何一つない」とは恐れ入ります。
剣山とアークに限定して言ってるのなら同意しますが。
 

魏志倭人伝を正確に読み、朝鮮半島中西部の帯方郡から邪馬台国までの水行・陸行、日数、方角で表された行程記事を何一つ勝手に読み替えないでたどれば、九州島を出ることはないよ。
 
九州の南海に出るものと思っていました。
 
 
つまり邪馬台国は九州にあったんだ。ただ、従来の九州説は<伊都国=糸島・前原市>とし、そこからは変えてはいけない方角を変えてしまった(東南陸行を東北陸行に)ために、畿内説と同じ過ちをおかし、畿内説が大手を振って<南を東に変えて、北部九州から東の畿内へ持って行っている>のを厳しくとがめられないでいるのさ。困ったもんだね。」
 
その時はこんな話で、彼も引き下がったのだが、つい先日は『ムー』とかいう雑誌にあったと言って、やって来るや

――これ見てくださいよ。この前の<邪馬台国四国説>どころか<大和王朝の前身はすべて四国にあった>という説が載っているんですよ。どうなんですかねえ?
 
私が目を留めたのは、この『大和王朝阿波説と阿波風土記の謎』という論説を寄稿した著者の次の一文だった。
 
・・・邪馬台国はそれだけで古代史マニアを惹きつけ、熱狂させるテーマということだが、過激なまでの神秘的解釈と熱狂の度合いで、他の追随を許さない研究者が集まった地域といえば、阿波にとどめをさす。
 

こういった熱狂的な研究者が、上に挙げた研究会を主催しているのだが、内容を読むと確かに熱狂的だ。狂熱的と言ってもよい。

この説を唱える岩利氏は、アマテラス(ヒルメ)を祭る神社があること、イズモという地名があること、隋書に書かれた倭国王の名(号)「阿輩鶏彌」を「阿波君」と読めること、また阿波風土記逸文に「天より降りおりたる山の、大きなるは阿波国に降り下りたるを、あめのもと山といい、その山の砕けて大和国に降り着きたるを、あめのかぐ山という」とあること――などから阿波こそは大和王朝の元の国である、としている。
 
さらには、那賀川流域にあった「イズモ族」と、吉野川下流域にあったヒルメ一族すなわち天皇族とが、吉野川上流域で出会い、もともといたニギハヤヒの一統(物部氏族)を女系に取り入れた天皇族がイズモ族をも従えることになった。その天皇こそは祟神天皇こと「ミマキ(美万城)イリヒコ」に他ならない、とする。
 
つまりはイザナギからヒルメことアマテラスの誕生、イズモ族の恭順、大和王朝の誕生(祟神天皇)まで、すべて阿波国の出来事であった、と言う。
いやそれどころか「天智天皇まで王朝は阿波にあった」のだから驚く。
いや、驚きを通り越して呆れる。
ここまで牽強付会(けんきょうふかい)が過ぎると、もう付いて行けない。
 
付いていけないそうです。
 

記紀説話が記紀編纂時代の「偏向」により、「隠しておかなければならない史実」や「書き改めなければならない史実」や「誇張しなければならない史実」などが多々あり、そのことは記紀編纂の時代的要請があったからで、それを踏まえて記紀の文章を分析・検討・整理し、また考古学的資料などを参照しながら、史実を可能な限り客観視できるように読み取っていかなければならないことは、古代史・上代史(古代史以前)を研究する大前提である。
 
記紀のそれぞれの書かれた目的については今なお諸説あるというのに、何をどう隠したか判明しているんでしょうか?
 

思うに、四国は余りに記紀の記述から遠ざけられている。
九州や畿内周辺の諸国、また中部地方に比べて、畿内に圧倒的に近いにもかかわらず、記載されること極めてわずかである(魏志倭人伝でも同じだ。もっとも倭人伝に関しては畿内も同じだが・・・)。

 
そこのところが、四国の歴史研究者、とくに郷土史を研究する人々には何とも歯がゆいのだろう。
まるで「シカト(無視)」されているような屈辱感があるのではないだろうか。
そのコンプレックスが逆作用して、「熱狂的な四国阿波中心説」が唱えられるようになったのではないか。
 
「想像」で他人を批判しないでください。
 

そこで思い出されるのが『古語拾遺』という「忌部氏の祭祀が余りに無視されるので、憤ってその思いの丈を吐露した神道論・歴史論」を展開した斎部広成(いんべのひろなり)のことだ。
 
(中略)
 
同書は祭祀の面でいかに古例がないがしろにされ、自分たちが遠ざけられてきたかを「遺れることども11か条」を挙げて、綿々と訴えている。
古語拾遺』は神道論として、また記紀に漏れた史実を補うものとして、裨益するものが多々あるが、全体を貫くトーンは以上の様である。
 
阿波は天太玉命の後裔「天富命」が率いて下った「天日鷲命」が国を治めたことから、「阿波忌部氏」が阿波の祭祀の中心となり、
 
天富命」が率いて下った「天日鷲命」って、それ間違いですけど。 思い込みはいけません。
 
したがって斎部広成と同様に、中臣氏の後裔・藤原氏の専横がひどい大和王朝に対しては極めて批判的だった。
 
阿波忌部が大和王朝に対して「極めて批判的だった」っていうのも聞いたことありませんが、これも想像ですか?
 

『阿波風土記』なるものがもしあったとしたら、そのような反体制的な所論で貫かれていたであろうことは想像がつく。
 
根拠のない根拠を元に「想像がつく」とか言われてもなあ・・・。
 
 
ある意味では完本の全くない『大隅風土記』『薩摩風土記』などもそういう類のものであったろう。
しかし、今の世に出て来ていないものから歴史論は構築できようはずはなく、「大和王朝阿波(起源)説」は牽強付会の臆説と言うほかあるまい。
 
否定するのはいいと思うんですが、
 
一を聞いて十を知る どころか、 一を知って百を知らず
 
の状態で、臆説などと言っていては、その批判こそが臆説、ということになりかねませんよ。
 
たかが一冊の雑誌の特集記事と、ネット検索で見た一サイトの解説、という限られた情報の恣意的な解釈だけで他人を侮辱するのではなく、阿波説が根拠としている様々な事実を個別に具体的論理的に否定する真っ当な反論をされたらいかがでしょうか。

 
この方の場合、一見それらしい文章の書き方をしていますが、中身はかなり支離滅裂です。
見て分かる通り、まず結論ありきで、あとはその自分の結論に合う情報だけを探し出して文章を作っているだけです。
 
この方が、
 
※以下のURLに「日本史のブラックホール・四国」と題して、上記の「何でも四国中心説」に対する詳細な評論(というか批判論)があります。参照されたし。
 
と書いて紹介したのは、当ブログでも書いたことのある、「日本史のブラックホール・四国」
 
 
ですが、氏の言うように詳細な批判論などではありません。
 
もっと淡々と、四国説を紹介しているに過ぎず、反論的な部分も「他人の文章を引用」して紹介しているだけで、最後では、
 
「四国は今後とも古代史異説の発信地としてユニークな位置を保ち続けることであろう。それが観光・情報産業においてどれほどの経済効果を期待できるか、まだまだ未知数というところである。今後とも、古代史異説のファンはこの地方に注目し続ける必要があるだろう」
 
と結んでいます。
 
「観光・情報産業においての経済効果」
というのは、現実はどう見ても他県人の話で、徳島県人はそんな目的で古代を語っていないと思いますが、阿波説そのものには興味の視線を持っています。
 
それでも、この方の目には、批判論としか映らないのです。
 
引用だけではなく、ご自身の知識も動員して『古語拾遺』を持ちだしますが、これがまたいけません。
 
 天太玉命の後裔「天富命」が率いて下った「天日鷲命」が国を治めたことから
 
と書いていますが、天日鷲命天太玉命の兄弟で、天太玉命の孫または数代後裔の天富命の下っ端のような書き方をするのは間違いです。
 
それはちょっとした間違いで、大した問題ではないのですが、困るのは論理が滅茶苦茶な点です。
 
斎部広成の『古語拾遺』とは、祭祀氏族としての復権平城天皇に陳情した書で、「陳情」したら、朝廷に「批判的」「反体制」というのが、まず全くもって意味不明です。
 
天皇家と祭祀氏族の関係を、戦国武将と寝返る家臣の関係くらいに思っているのでしょうか。
 
そして、斎部広成の時代には、日本各地に忌部氏が分散していましたが、この陳情を持って、忌部全てが「反体制」ということになってしまいます。短絡思考も度が過ぎるというものです。
 
そして、幣帛使の問題が、顕在化すらしていなかった約100年前に書かれた『風土記』でさえ、同じ反体制のトーンで書かれたに違いない、と想像を膨らませます。
 
そもそも、風土記は官製の地誌なので、反体制的な内容になるわけがありません。
 
そしてそれ以外は、ご覧の通りの決め付けと想像だけで持論を展開します。
 
なまじ、それらしい否定論を書こうなどとせず、阿波説など信じられないし興味もない、とだけ書いていればいいのです。そうすれば、それは当然だと思いますのに。
 
この程度の内容で、よくもまあ、これほどの上から目線で、侮辱的な表現を羅列して、他説をこき下ろせるものだなあ、という感心はいたします。