今回の話の、ここまでの経緯を簡単に書いてみます。
と思ったのですが、そのスタートとなる前提の部分がまた遠大なストーリーで、それをまだ書いていませんから、理解してくれといっても無理かもしれませんね。
と思ったのですが、そのスタートとなる前提の部分がまた遠大なストーリーで、それをまだ書いていませんから、理解してくれといっても無理かもしれませんね。
で、簡単に書くと、
どうも一般的に、史実と記紀の物語の整合性を取る努力はせずに、都合のよいところだけを取り出して、観光ネタにする人が多いように見えます。
阿波の古代史では、上記の天皇を欠史八代とはせず、実在したと考えています。
阿波の古代史では、上記の天皇を欠史八代とはせず、実在したと考えています。
ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉祭した場所は
「元伊勢」と呼ばれる。
伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。
伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎宮となった。
「元伊勢」と呼ばれる。
後に、東夷の討伐に向かう日本武尊に | 天叢雲剣 | を与えている。 |
伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。
伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女で、これが制度化されて後の斎宮となった。
※ 上の地図、伊勢の下に天叢雲神社があることに注意してください。 |
「近江」=「淡海」または香川県の旧大内郡「小海(おうみ)」、
で、全て阿波周辺の地名と考えられます。
※ 最終地の伊勢を中心に上記比定地が囲んでいます。 |
私には仮説があるのですが、もうちょっと調べてから書いてみたいと思います。
~乃ち大市に葬りまつる。故、時人、其の墓を号けて、箸墓と謂ふ。~
と記されるため、箸墓古墳がそれであると考えられています。
ネットで検索しても、ほとんどのページで「宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命大市墓“として”管理されている」と、もう決定事項のように書かれていますが、実際には宮内庁の「陵墓参考地」に指定管理されているというのが正解です。
ネットで検索しても、ほとんどのページで「宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命大市墓“として”管理されている」と、もう決定事項のように書かれていますが、実際には宮内庁の「陵墓参考地」に指定管理されているというのが正解です。
全国に、古代の市場跡が「○○市場」等の地名として残っていますが、
この市場町は阿波西部最大の市場跡です。
この大坂山がどの山なのか?は、畿内(現在の)説では判明していません。
一般に「二上山」のことと言われますが、根拠が分かりません。
Wikipediaによれば、埋葬施設の石材は、柏原市の「芝山」の石だと判明しているそうです。
この市場町は阿波西部最大の市場跡です。
また、箸墓古墳の造営に使う石は | 大坂山 | から運んだ、と記されています。 |
この大坂山がどの山なのか?は、畿内(現在の)説では判明していません。
一般に「二上山」のことと言われますが、根拠が分かりません。
Wikipediaによれば、埋葬施設の石材は、柏原市の「芝山」の石だと判明しているそうです。
地図ではその地点の線路上のトンネルが「“大坂山”トンネル」となっており、私の地図では山名が確認できませんが、そこにある山が大坂山であることがわかります。
その南の地名はそのまま「大坂」で、そのさらに南は「吹田」(ふきたと読む)です。
知らない人が拡大地図を見ると、一瞬「大阪」の地図かと思うのではないでしょうか?
知らない人が拡大地図を見ると、一瞬「大阪」の地図かと思うのではないでしょうか?
ちなみに日本書紀原文でも「大阪」ではなく「大坂」と書かれているようです。
~故運 大“坂”山 石而造~
それほどこだわるポイントだとは思いませんが。
難波郷の南の大坂峠のある山も「大坂山」と呼ばれていた(いる?)のでしょう。
難波郷の南の大坂峠のある山も「大坂山」と呼ばれていた(いる?)のでしょう。
なんだかんだで、結局前置きが長くなりました。
(阿波の)奈良・伊勢 → 百襲姫 → 奈良難波街道 → 大阪峠(讃岐) → 水主神社 → 田村神社 →
船岡山 → 船岡山(出雲) → 倭奈佐比古(出雲) → 倭奈佐(阿波・海部) → 倭奈佐翁(丹後) →
船岡山 → 船岡山(出雲) → 倭奈佐比古(出雲) → 倭奈佐(阿波・海部) → 倭奈佐翁(丹後) →
籠神社 → 海部氏 → 海部郷(阿波)
→ 天村雲命 → 天村雲神伊自波夜比賣神社(阿波)
という流れ、つながりで見てきました。
ここで、天椅立(あまのはしだて)とは、天射立(あめのいたち)のことか?を思い出していただきたい。
「天椅立」の「椅」は「橋」の「誤記」だという説の反対で、私の仮説は、
「いだち・いだて」を「はしだて」と「誤読」しているのだ、という新説(珍説)です。
籠神社の『勘注系図』原文には
天村雲命のまたの名は「天五十楯天香語山命」と書かれています。
天香語山命は、天村雲命の父で、前半の「天の五十楯」は「いだち・いだて」だと思われます。
阿波の旧麻植郡の「射立郷」(『和名抄』)に鎮座する「天村雲神伊自波夜比賣神社」と一致します。
その功績ゆえに、地名にまで「あめのいだち」と名付けられたのに、後世「天椅立」と漢字を当てたあめに、
橋(はし)と誤読され、もっともらしい説話まで生まれたのではないでしょうか?
橋(はし)と誤読され、もっともらしい説話まで生まれたのではないでしょうか?
もっともらしい説話、と言っても『風土記』に記載されているのですが、風土記とはその時代にその地方に伝わる「伝承」などを記載したもので、天村雲命の話などは、風土記編纂が命じられた時代(713)よりもさらに数百年前の昔話なのだということを考慮しなければなりません。
天村雲命について、もっと書いてみたいと思います。
(続く)