空と風

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伊賀国と阿波国の関係

前回、 三輪山・大物主神話のルーツは阿波にあった!?
のなかで、式内社志神社の元地「伊賀々志」、これが三重県「伊賀」の地名のルーツではないか?と思いつきで書きました。

地図を見てください。
 伊賀々志の西隣りが奈良、その左上がです。

出来すぎだと思いませんか?

で、伊賀について少し調べてみました。

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調べても三重県の「伊賀」という地名の由来は諸説入り混じり、はっきりしないようです。
伊賀国 (いがのくに) は、伊州(いしゅう)とも呼ばれます。


「い」「いつ」は、阿波のこと。
「津」とは、船泊り、渡船場、港のことで、辞書を見ても各地の地名を見ても意味ははっきりしています。
徳島城が別名「渭津(いつ)城」と呼ばれるように、徳島の古地名は「イツ」でした。
これは河口一帯のこの地が「イ」国の「津」だったという意味としか取りようがありません。

上記②では、『高野大師御広伝』(1118年)の記述、
「阿波の国、高越山寺は、また、大師建立し奉る所なり。また、加法に法華経を書し奉り、彼の峯に埋めむと云々。
 澄崇の暁、四遠を望むに、(徳島)、讃(香川)、土(高知)の三州、足下に在るが如し」
と、阿波が伊州とも呼ばれていた事実を紹介しました。

伊賀国は、680年(天武天皇9年)に、伊勢国から分立したものです。
この「いせ」も阿波の地名であり、伊勢国と阿波忌部の深いつながりもあります。
ともに頭に「イ」が付くことも、お見逃しなく。


伊賀国国府は、「阿拝郡」にありました。
「阿拝」郡とは、「阿波」を「拝する」という意味ではないでしょうか。

阿拝郡(あはいぐん)に鎮座する伊賀国一宮の式内社 敢國神社(あえくにじんじゃ)の御祭神は「大彦命敢國津神)」(孝元天皇の第一皇子)。

その子孫は「阿拝氏」を称し、後に「阿閉」「阿倍」「安倍」などとも書かれるようになりました。
大彦命伊賀国の祖神であり、「あべ」姓の氏神であるとされています。

創建年代は不詳です。
この社を「一宮諏方社」と記した記録もあり、この地方の諏訪信仰の中心であったと言われます。


伊賀国の誕生が、680年。
阿波国諏訪の多祁御奈刀弥神社から、信濃国諏訪の南方刀美神社へ「諏訪大明神」が移遷されたのが、779年。
敢國神社の創建が779年以前なら、その諏訪信仰とは「阿波の諏訪」のことになります。

また、元々この地には秦氏が居住しており、彼らは「少彦名命」を祀っていました。


伊賀国三宮は「波多岐神社」です。
この「波多」が「秦」氏の「ハタ」であるのは明白でしょう。

大杉博氏も著書の中で、阿波忌部の足跡をたどって讃岐の「秦」姓の数を調べていましたが、秦氏の子孫は「秦」姓だけでなく、「幡多」「波多」「畑」「羽田」「幡」「波田」「畠」「八田」などのほか、「波多野」などそれぞれの下に「野」がつく氏名、「服部」なども含まれますから、実際は氏の調査した数よりもかなり多いと思います。
(もちろん、忌部の子孫がすべてハタ姓を名乗っているわけではなく一番分かりやすい、というだけのことです)
実際、大杉氏が香川で2番目に秦姓が多いと書いていた綾川町には、秦姓のほかにも、畑、幡多、波多野、服部などの姓を持つ家がみられます。


伊賀国阿山郡府中村大字服部字中之坊一一五八番(現、上野市服部町)に延喜式内社 伊賀國阿拝郡 小宮神社があります。
御祭神は、服部氏の祖「呉服比売命」、配祀神「健御名方命大山祇命」です。

「健御名方命」は紹介済み、「大山祇命」も阿波に関わりの深い神、また別の機会に書きます。

三輪山大物主神話のルーツは阿波にあった!?」にアップした地図に「呉島」の地名がありましたが、ここは機織りの技術を持つ中国からの帰化人達が住んでいた地域です。
もともと、その一帯は阿波忌部の本拠地です。

天皇が即位後、初めて行う践祚大嘗祭において、上古より現代まで、阿波忌部氏の役割として、神座に神衣(かむそ)として祀る織物である「麁服(あらたえ)」を献上してきた歴史を見てもわかるように、織物は忌部(秦氏)の中心的な技術です。
秦氏の織物(ハタオリ)が服部(ハットリ)の語源ではないかと思います。


「歴史(1)~(3)」をご覧ください。


この「小宮神社」の小宮は「おみや」と読みます。
祭神・呉服比賣命に因み、麻績(おみ)から来たものだといわれます。
また、忌部のにおいがぷんぷんしてきました。

この伊賀國阿拝郡服部郷出身の有名人物に「服部半蔵」がいます。
半蔵の父保長(やすなが)の時代から松平家に仕えました。
『道は阿波より始る』によれば(要約)、

~松原元康が天下に名をあげるや、自らの家系は鴨族の末裔であると称し、その名を松平から徳川に改めた。
その後、阿波藩に対し藩名をを徳島藩に改名せよとの命令を出した。
そこで初めて阿波の国に徳島という地名が現れたのである。
時代は下り、徳川光圀は江戸に修史局を開き、元禄10年(1697)、突然徳島藩江戸留守居役であった老中土屋相模守を呼びつけ、覚書を手渡し、
「阿波及び淡路両国にある古代天皇葬場を調査せよ」
と命じた。~

その理由を『道は阿波より始る』では、徳川家、蜂須賀家は『阿波風土記』を所有していた、と結論づけます。
『阿波風土記』は諸国風土記の中で唯一『古事記』と一致する内容とされ、そのため徳川家も並々ならぬ興味を持ったようです。

しかし、「伊賀」国の「服部」族が徳川家参謀であった事実を考えると、「秦氏の中の秦氏」と飛鳥昭雄氏も呼ぶ「忌部」の伝承を伝え聞いていた可能性も考えられる、というのはファンタジーが過ぎるでしょうか。


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また、伊賀市阿波には阿波神社があります。
どう見たって「阿波国」に関係があるのですが、例によって思考停止している人たちにはそう見えないようです。
古事記や神社や神の名に興味があれば、「アワ」という記号が数多く出現することに気づくと思うんですが、何が何でも徳島以外のアワにしたいようです。


阿波神社」の由緒や御祭神は文献によってばらばらで、はっきりしません。
御祭神は、稚日女神 猿田毘古命 火産靈命ですが、
神名帳考證』では「天日方奇日方命
大日本史』では「天太玉命
『特選神名牒』では「事代主神
『伊水温故』では「猿田彦命」「神功皇后
『三國地誌』では「神功皇后」です。
 

『三重縣神社誌』では、「阿波の君」の祖、「息長田別命(おきながたわけのみこと) 」が御祭神、となっています。
『旧事記天皇本紀』で「息長田別命阿波の君等の祖」と記されます。
「阿波君」とは、四国阿波国の豪族の長だそうです。


息長田別命は「倭建命(やまとたけるのみこと)」の御子ですが、母方の血統は不明と言われます。

私は、「息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)」の血統だと思いますがどうでしょうか?
御子の「息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)」は、後の「神功皇后」のことで、『伊水温故』『三國地誌』に記される御祭神が「神功皇后」であることと一致します。

倭建命には6人の御子がいますが(古事記)、「又一妻[あるみめ]の子、息長田別王」と息長田別命だけ、母の名が記されていません。
御次男、帶中津日子命(仲哀天皇)の皇后が神功皇后です。
「息長宿禰(おきながのすくね)」「息長帯(おきながたらし)」の血統から別れたから「息長田(おきながたわけ)というのです。
母の名は記せないわけがあったのでしょう。

その「息長帯」も阿波に関係する神。また別の機会にご紹介します。


さらにこの神社は、中世に郷士「阿波越後」なる人物が、阿波国から「杉尾白鬚神」を遷迎合祀し、江戸時代「杉尾大明神」と称していたそうです。
徳島には、忌部の故郷、吉野川市鴨島町牛島の字「杉尾」に「式内社 阿波國麻殖郡 秘羽目神足濱目門比賣神社2座」とされる「杉尾神社」があります。
「杉尾白鬚神」が、どの神社の神か今のところ不明なのですが、地名からみて当社の可能性があります。
その他、徳島県内には平成の現在、「杉尾」と称する神社が22社存在します。
また、現在は違う社名になっているが、もとは杉尾大明神と称した、というような神社が他にも複数あります。


先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、

伊勢国造。橿原の帝[神武天皇]の御世に、天降る天牟久怒命(あめのむくぬのみこと)の孫 天日鷲命(あめのひわしのみこと)を勅し賜いて国造に定む、

即ち伊賀伊勢国造(いがいせのくにのみやつこ)の祖。

と、あります。


天日鷲命、何度も書いたように「阿波忌部の祖」です。
伊勢国風土記逸文で、国造となったと記される「天日別命」は同一人物です。

国造を研究したHPなどを見ても、「天牟久怒命(あめのむくぬのみこと)は、どういう人物か、正体がわからない」 などと書いてあります。
忌部のことがあまりにも世に知られていないための疑問です。
天牟久怒命とは「天村雲命(あめのむらくものみこと)」のこと。


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天牟久怒命、日本唯一(またまた)の式内社 阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」が、吉野川市山川町「村雲」に鎮座します。
この神を語ると長編になるので、また別の機会に書きます。



上記の通り、古代にさかのぼれば、阿波忌部が、伊賀国伊勢国の国造にもなっており、その後の時代においても、ところどころ、時々において、阿波人が伊賀国に関係していたことがわかります。



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