空と風

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全戸郷、の読み方 4


『日本地理志料』(邨岡良弼)は、甲斐國餘戸郷の項で、余戸について、こう書いています。
 
餘戸、當v讀 阿萬利倍、甲斐國餘戸郷、後稱 甘利荘、或省呼 阿萬倍、有字亦作 天部 天邊 者、戸令義解、里若滿 六十戸、割十戸 立 一里、即餘戸也、

今まで見たように「戸令」で解釈すれば、六十戸あった場合、五十戸に余った十戸が即ち「餘戸」である、と。
ただし、その訓みは各地の地名で見るならば、「アマリ」「アマリベ」だけではなく、「アマベ」と呼ぶケースも多いようです。
そして、上記甲斐國餘戸郷の者など、その地名を氏族名とする者たちが現れます。

馬糞風 
 
山梨県韮崎市に県立公園「甘利山」があります。(中略)
この付近は、古代には高句麗からの渡来人が多く住んだところで、後の高麗郡(巨麻郡)と呼ばれた所です。
この高麗郡の一角、塩川と釜無川が合流する当たりを古代には「アマリベノゴウ」と呼ばれていました。(和名抄:甲斐国巨麻郡余戸郷)
(中略)
余戸は「アマリ」「アマリベ」「アマベ」などと呼ばれていました。
高架橋で知られる「アマルべ」も同じ由来の地名です。(但馬国城崎郡餘部郷)
和名抄には「33カ国、102郡」に「余戸」が散見されます。
そして、その「アマリ」「アマリメ」「アマリベ」などの地名を氏族名にするものが現れました。
但馬記には、余戸氏の存在を記しています。同記には
紀伊国海部郡、日高郡安房国(※阿波国の間違いと思われる)板野郡に余戸郷有り。余戸氏此処より起こる・・」
余目(アマリメ)は、余戸郷より起こり、その地名を負う、とあります。~

 
若い頃、車を買ったディーラーの営業マンに甘利さんという方がいて、たいへんよくしてくれましたが、当時は変わった名前だなぁ、と思ったものです。
人の名前にもこんな歴史があるんですね。
前回書いたように、班田さえ貰えなかったほどに低い身分の者たちが孤立して住む地域が「余戸」だというなら、その地名を氏族名として名乗るなどということは考えづらいと思いますがどうでしょうか。
 
この余戸の意味については、五十戸に余った集落という説の他、やはり古くからそれを疑問に思う人々もいたようです。
舞鶴市「余部町の地誌」 を参考にしてみます。

~現在も舞鶴市の真ん中あたりを中舞鶴と呼ぶが、中舞鶴町は大正8年昭和13年自治体名で、余部町が改称して成立したもの。
余部上・余部下・和田・長浜であった。中舞鶴と呼ぶ以前は余部と呼んでいた。
『和名抄』の余戸郷の地と考えられる。
中世は余戸里荘。「丹後国余戸勝浦村地頭職」(貞和2年)。

次に郷土の古名余戸(余部)について記してみよう。
余戸というのは行政区画から起った名称で、今より一三三○年の昔、大化の改新によって戸籍が作られ里、五保の制が定められたとき、五十戸を以て里とし、里毎に長一人を置き、若し五○戸を過ぎるときには別に里を立て、余戸と称した。これがわが郷土名の起源である。
この余戸について明治四五年四月調査「維新以前地方民政制度沿革及事蹟調査書」(余部町編)は
 
『郷五十戸ノ限ニ出デ而、モ別ニ一郷ヲ建ツルニハ戸数足ラザルトキ其ノ割余ヲ別区トシテ余戸卜称セシガ如シ余部ト称スル地全国中百二上ル何レモ之レヲ以テ推スコトヲ得ベキカ
 
と述べ、また『其他沿海諸国ニハ、余部、海部等ト記シ「アマベ」又は「アマルベ」等ト訓ジ、其ノ義海人部ナルモノアリテ当町名ニ似タルモノ多ケレドモ当町四部落ノ内和田、長浜、余部下ノ三部落ハ海ニ沿へルモ古来一戸モ漁業ヲ為セシノ形跡ナキヲ以テ此ノ義ニアラザルヲ知ルベシ』
と記し地名の起源について次のように述べている。

 一、余部上、下
   上下元一村ナリシモノナルベク字名ハ即チ町名ニシテ再説ヲ要セズ
 一、長 浜
   長ク海岸ニ沿へルヲ以テ此ノ称アリ
 一、和 田
   海ノ古言「ワタ」ナレバ当村海ニ瀕するを以テ称スルコト明カナリ
   古ハ而浦材ト云へリト是又西面シテ海ニ向へルノ称ナリ
 
また同書は文献に現われた余戸についても次のように記している。
 
『此ノ地丹後ノ僻陬ニアリテ往昔ノコト史乗二徴スベキモノナク?乎とシテ知ルベカラズ旧名ヲ余戸郷ト称セシガ如シ天暦年代(九四七〜九五六)源順の和名類聚ニハ
 加佐郡十郷余戸郷云々
ト記載セラルゝヲ見ル而シテ余戸郷トハ天正一二年(一五八二年)若洲和田城主岡本主馬之介ノ高倉八幡宮社領寄進状ニ
余戸六ヶ村百姓中
ト記セリ即チ余部上、余部下、長浜、和田、及北吸(現今新舞鶴町ニ属ス)下安久(現今余内村ニ属ス)ノ六大字ノ総称ナリンコト今尚仝社ノ氏子ナルヲ以テモ之レヲ知ルベシ』
『中舞鶴校百年誌』 ~
 
 
余部郷。和名抄、加佐郡余戸郷。○今余内村是なり。
大字余部存す、椋橋の西、田辺の東北にして、舞鶴湾の東岸也、大字上安に延喜式高田神社在り。
補〔余部〕加佐郡○海部の義なり、今舞鶴鎮守府は此村に亭館を起す、亦偶然にあらず、
舞鶴町の東北に当り舞鶴湾の東支湾の南岸なり、別に一澳を為し、其東方に志楽の大邑あり、相接続す。
『大日本地名辞書』
 
 
 
調査書では、沿海諸国には、余部、海部、などと記し海人部の居住地らしきあとがうかがえるが、当地では「古来一戸モ漁業ヲ為セシノ形跡ナキヲ以テ」該当しないと書いています。
しかし、せいぜい江戸時代後期か明治以後昭和にかけて漁業の跡がないからといって、千年以上昔の地名の命名にアマベが関係していないとなぜ断言できるのでしょうか。
地名の起源を見ても、和田は解説のとおり「ワタ」「ワタツミ」の意味であり、長浜は、たとえば長野と同じように「長い海岸(長い野)」などと解釈するのは滑稽で、これは「長」の国の「ナガ」であり、古来の発音はむしろ「ナカ」であることが多く、現在の地名では、「那珂」「那賀」とも書かれます。
そればかりか「長」「中」地名も同グループで、その中には単純に、サイズとしての「長」、位置関係としての「中」もありますが、それはむしろ比較的新しい地名であって、古い地名ほど「音」が意味を持ち、漢字の語意は関係ないのもです。
これは良く気をつけて見なければいけないポイントで、たとえば「長野」と「中野」、「中川」と「長川」と漢字で書くと全く違う印象を受けますが、「地名の命名の意味」はもしかすると同じかもしれないということなのです。
上の中舞鶴町の古地名にいたっては、「ナガ」「ワタ」「アマ」に「勝浦(カツラ)」と、笑えるくらい海人(あま)に関する地名が並んでいるのです。
この地を「アマベ」と呼んだのは、「海部(あまべ)」以外の何者でもないでしょう。

また、上記のように、記録では余戸」が六つの村の総称たる地名であったことを伝えるものがあります。
この場合、通説の余戸が五十戸に余った小集落、という説明も崩壊するのではないでしょうか。
阿波に当てはめてみても、その説明は納得しがたいものがあります。
全国の余戸郷の中には、現在その場所がはっきりとは分からないものがたくさんあります。
小集落という説明には、そういった地域の人々を納得させる効果しかないように見えます。
 

では次に、全国に余戸(餘戸・全戸)郷は、どのくらいあるのでしょうか?
検索してみると、約90郷、と書かれたものあり、97郷と書かれたものもあり、はっきり分かりません。
使われている漢字での分類で数が変わるのでしょう。
このネット社会でも、今現在、「和名抄」記載の全国の国名・郡名・郷名までを一覧で記載したサイトは見当たらないのです。
 
☆『日本地名伝承論』 (池田末則)
 
~さらに,同字異音,同字異義,異字同音,異字同義,同音異義,異音同義地名があり,地名に充当した文字は字音,字訓,通というように極めて自由自在であった。
『和名抄』郷名の「余戸」は全国約90郷に及んでいるが、戸をコ・ト・ゴと訓み,アマベ(天部-安部-阿部),アマルメ(余目),アマコ(尼子),ヨド(淀),そのほかヨコ(余古),ヨト(与戸)などがあり…後略 ~
 
 
~和名抄にみる駅家・余戸・神戸・刑部名の郷の分布について
 
古代の地名を研究するには「和名抄」が最適である。
正式名は「和名類聚釥」で、わが国最初の分類体百科辞典、源順編。承平年間(931-938)に成立。
その「和名抄」を調べてみると、不思議なことに気がついた。
それは表題の地名が「西海道=九州」には存在しないのである。
五畿七道、全国68ヶ国、589郡、4029郷の郷名に律令体制に関係する名前としての駅家・余戸・神戸・刑部の郷名があるが、この4つの郷名が西海道には見付からないのである。
全国で駅家が79郷、余戸97郷、神戸54郷、刑部が16郷存在する。
範囲を広げて、郡家・都家を含めて駅家グループが94郷、忍壁を加えて刑部グループが17郷、
全戸を加えて余戸グループが100郷となり、4つの郷名合計が全国で265郷にもなる。
4029郷の内の6.6%も占めるのに、である。
 

余戸・全戸 郷
 
畿内  山城2・大和1・河内3・摂津5
東海道 伊勢1・志摩1・尾張2・甲斐1・相模3・武蔵11・安房1・上総1(2)・下総5・常陸2
東山道 美濃2・飛騨1・信濃2・下野3・陸奥18・出羽6
北陸道 若狭2・越前1・能登2・越中1・越後1
山陰道 丹波4・丹後1・但馬2
山陽道 播磨4・周防3
南海道 紀伊2・阿波2・伊予4
西海道 0  ~
 

となっています。
そこで、『日本地理志料』をメインに、一部その他の資料も加えて、主に上の順に従って余戸郷を見ていきます。
一覧で全ての余戸郷を確認できるようなサイトはどこにもありませんでしたので、調査結果は万全とはいえません。
現在地の判明しているのもは全て書きだそうと思いましたが、あまりに長文になるため、一部しか書いていません。
しかし、これがまたずっと見ていくと興味をそそられる地名が次から次へ出てきて、興味が目移りしてしまいます。
阿波に絡んだ地名だけを研究しても何年もかかりそうです。
そこで、書きたいことは山ほどあるのですが、心を鬼にして、余戸とその周辺にある一部の興味深い地名だけをいくつか並べてみることにしました。(※印)
これに、それぞれの地の神社を重ねるとまた面白くなりそうです。
 
 
 
畿内 

山城国 
 

宇治郡 餘戸郷
 
☆大和國 
 
葛上郡 餘戸郷
 
宇智郡 那賀郷
※吉野郡 那珂郷
 
 
☆河内國
 
錦部郡 餘戸郷
 
②若江郡 餘戸郷 
 
③澁川郡 餘戸郷 

丹比郡 餘戸郷 
 
 
☆攝津國
 
①住吉郡 餘戸郷 
 
②東生郡 餘戸郷
 
③西生郡 餘戸郷
 
④豐島郡 餘戸郷
 
⑤河邊郡 餘戸郷
 
【按訓義見v上、高山寺本例不v載v之、攝津志云、餘戸未審今之何地、」愚謂、今有天津村、呼曰阿麻都、盖其遺名、諸國有  天部 天邊 甘利 尼方 等(ノ)邑、大抵餘戸之地也、・・
 
 

☆伊勢國
 
①壹志郡 餘戸郷
 
飯高郡 餘戸郷

河曲郡 海部郷 
 
【按阿末、高山寺本作(ル)安萬、尾張 隱岐 紀伊 豐後(ニ)緒有海部郡上總 信濃 越前 丹後 阿波 土佐 筑前 (ニ)有海部郷、盖修 海人部(ヲ)也、・・
 
 
☆志摩國 

①英虞郡 餘戸郷
 
【訓義見v上、按(ニ)本郷及(ヒ)神戸、高山寺本例省(ク)v之、志摩舊地考、餘戸方(ニ)廢、盖入(ル)度會郡、若(ハ)牟婁(ニ)也、紀伊風土記云、牟婁郡三木莊、領(ス)九木、早田、三木、盛松、名柄、三木里、古江、賀田(ノ)八邑、・・
○按(ニ)古語拾遺、有紀伊國御木(ノ)齋部、三木盖(シ)其族(ノ)所分處、莊司氏藏寛治八年(ノ)官符、志摩國木(ノ)本(ノ)杣山、盖有v由矣、」・・
 
※英虞郡(阿呉)
 
日本紀作 阿胡、萬葉集作網兒《アゴ》、是(レ)正字其地面(シ)v海、漁人群居、因(テ)名、」
持統六年紀、車駕御(ス)阿胡(ノ)行宮、時(ニ)進(ル)v贄(ヲ)者、阿古志(ノ)海部河瀬麻呂兄弟三戸、~
 

(続く)