空と風

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全戸郷、の読み方 3

 
次に、現存しない大宝律令(律六巻、令十一巻)を根拠に、なぜ③のように「令制では~規定されていた」といえるのか、調べてみました。
 

☆ 班田収授法 (はんでんしゅうじゅほう) (Wikipedia
 
戸籍・計帳に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公された。こうして班給された田は課税対象であり、その収穫から租が徴収された。

☆ 租 (そ) (Wikipedia
 
租は、税(ぜい)と並んで、国家維持に必要な財政を調達するために、政府が徴収する財物・サービスのことである。
説文解字には「田賦なり」とあり、元々は田からの徴税である田租(でんそ)をさし、祭祀の費用としての徴収を名目としていた。
新たに徴収したもの(フロー)を租といい、租を貯蓄したもの(ストック)を税という。

 
 
班田収授法の成立は、701年の大宝律令制定によるとされますが、前回書いたように、その律令は現存しません。
では何を持ってその内容を論じているのかというと、
 

☆ 養老律令 (ようろうりつりょう) (Wikipedia
 
養老律令は、古代日本で757年(天平宝字元年)に施行された基本法令。
大宝律令に続く律令として施行され、古代日本の政治体制を規定する根本法令として機能した。
 
大宝律令と新養老律令では、一部(戸令など)に重要な改正もあったものの、全般的に大きな差異はなく、語句や表現、法令不備の修正が主な相違点であった。
 
養老律令それ自体は、散逸しており現存しない。
しかし、については、律令の注釈書として平安前期に編纂された『令義解』『令集解に倉庫令・医疾令を除く全ての令が収録されており、復元可能となっている。
また、倉庫令・医疾令も他文献の逸文からほぼ復元されている。
については多くが散逸しているが、逸文収集が精力的に行われ、その集成が国史大系にまとめられている。
これにより、復元されている律は、名例律・衛禁律・職制律・賊盗律、そして闘訟律の一部である。
 
これに先立つ大宝律令は、全文が散逸し、逸文も限定的にしか残存しておらず、ほとんど復元されていない
大宝律令の内容は、養老律令から推測されている場合も多い。

 
☆ 令 第四 戸令 (こりょう) (Wikipedia
 
養老令によれば、50戸をもって1里(後に1郷)として里単位で里長を設置して徴税などを行った。
また、これとは別に5戸をもって1保として保長を設置し、保の構成員である戸が逃亡すれば、保長以下同一の保の責任において捜索の義務を負った
それぞれの家の家長を戸主として戸口を統率させた。
戸口は男女3歳以下を黄、16歳以下を小、20歳以下を中、男子61歳以上を老丁、66歳以上を耆とし21歳から60歳までの心身健全な男子を正丁とした。
更に80歳以上もしくは篤疾の者には侍が付けられた。

 
 
以上、関係する記述のみ抜粋して引用しました。
 
 
 凡戸。以五十戸為里。毎里置長一人。
 掌。検校戸口。課殖農桑。禁察非違。催駆賦役
 若山谷阻険。地遠人稀之処。随便量置。
 
 戸は、50戸を以て里とすること。里ごとに長を1人置くこと。
 職掌は、戸口を検校し、農桑を課し植えさせること。非違を禁察し、賦役を催し使役すること。
 もし山谷の隔たりが険しく、位置が離れており、人口が少ない所には、便宜に従って考えて置くこと。
 

 
 
ここで振り出しに戻れば、余戸郷」を解説するさい、どの先生、辞書、HPもが、その大前提としている
「一郷=五十戸の、余りの郷」というものが、実は「仮説」なのだということがわかります。
 
文献で確認できるのは、上記『養老令』の「凡戸。以五十戸為里」のみでした。
 
その端数を「余戸」と呼び、「余戸郷」は単にその集合体であるところの郷名であるというのは、仮説です。どこにもそんなことは書かれていません。
 
日本人は権威に弱いので、どこかそれらしいところにそう書かれていれば、鵜呑みにして事実としてその通りに伝搬させていくのです。
でも私が最初に感じたように、それなら余戸郷はもっと多くあるはずでは?九州に一箇所もないのはおかしいのでは?
というような誰でも思うはずの素朴な疑問を封印さえしなければ、なんかうさんくせえなぁ~、と思う方が普通ではないでしょうか。
 

それではその他、「余戸」を考える上で参考になりそうな文献を一つ引用します。
 
 
※ 『民族と歴史』  喜田貞吉
 
雑戸と非人とに関係して、考えてみるべきものは、「あまべ」といふものがある。
京都の三条通からは南、加茂川からは東に当つて「あまべ」という一つの部落があります。
では「天部」又は「余部」とも書きまして、もとは皮田とも越多とも言はれて居りました。
これは昔の「余部」という名称を継いで居るからでありませう。
余戸」といふ地名は、奈良朝時代の地誌や、平安朝頃の郷村名を書いたものによく出て居りまして、全国各地あつたのであります。
今も諸国に其の名が残って居ります。
一体どういふのかと申すに、先輩の間に種々の説がありまして、普通には余つた家即ち一郷をなすには多過ぎるし、さりとて其の余つたのも独立の一郷とするにはたらぬから、それで余戸というものにしたと云うのでありますが、恐らく農民以外の雑多の職業に従事する雑戸であらうと思います。
 
ならば、なぜ雑戸を「あめべ」といつたかという理由はよくは分りませぬけれども、思ふに普通の郷の仲間に這入らず、余つた村落と云ふ事ででもありませう。
余戸の説明をした古文を見ますと、京都の栂尾(とがのお)の高山寺に伝はつて居た「和名抄」という書物がありまして、その中に、「班田に入らざるを余戸という」とあります。
 
班田というのは大化の改新の時の御規則に依りまして、日本の土地をみな国家の有に帰せしめ、それを均等に良の人民に分ち興へる、これを班田と申し農民は悉く、その班田を受ける仲間に入つて居る訳であります。
処が「班田に入らざるをば余戸という」とあるのを見ますれば、田地は貰はないもの、即ち農民以外のものということになります。
種々の職人や雑役に従事するものは、耕作致しませんから、土地を貰わなかった。土地を貰う権利を与へられなかったのであります。
 
昔の諺に。「土地を得ぬ玉造」ということがありまして、玉造りの細工奴隷たちは土地を持たなかった
又今の京都の天部(あまべ)部落は、もと四条河原におりまして、これを「四条河原の細工」とも言ったとあります。
皮細工を課役とする者らの雑戸で、それで「あまべ」の名を得て居ります。

 
 
 
この喜田貞吉(きたさだきち)という徳島生まれの明治の歴史学者は、被差別部落研究の先駆者でもあり、上記の文章もその観点から書かれています。
ある意味、「決めつけ」も先走っているとは思います。
たとえば、「班田に入らざるを余戸という」の一文を持って、「農地を貰う権利を与へられなかった人々の住む地域」とネガティブな解釈しかしません。
「玉造り」というだけで、「職人」と言わずに「細工奴隷たち」などと書いています。
「よくは分からない」「思う」としながらも、雑戸(ざっこ)=非人(ひにん)で、その者たちが住む土地を余戸というのだろうと仮説を組み立てています。

このあとも(そこで昔の社会状態を考へるには、まづもって浮浪民の存在をよく考へなければなりませぬ)という観点から、虐げられる人たちの住む場所余戸説を書いていますが、その先入観?を除けば、
上記の文章はいろいろとヒントをくれます。
 
 
まず、今まで見たようによく言われる「五十戸の端数が余戸」という解釈とは全く違う事実を教えてくれています。
和名抄の「班田に入らざるを余戸という」という説明が正しければ、全く意味が違います。
 
養老令には、「若山谷阻険。地遠人稀之処」 にも 「随便量置」。「里」を置けと書いています。
この場合の「里」一般に説明されるところの「余戸郷」を表すのですが、養老令に従えば 「班田を与えられた地区」に含まれます。
五十戸に余った故に班田を与えないといっているわけではないからです。
 
つまり、和名抄に従えば、現在の余戸郷の説明はアウトということになります。
 

また、京都の「玉造」を「あまべ」と呼んだというのですが、古代、玉造といえば「忌部」です。
忌部諸族の中でも「出雲忌部」になります。
 
 國造、神吉詞奏、参向 朝廷 時、御沐之 忌玉 作。故、云「忌部」。『出雲風土記
 
 出雲の国造が、新任の際に神吉詞を奏上するために朝廷に出向く時、
 天皇の康寿を祈るための清浄な玉を作る地である。
 この玉を作る玉作氏は、忌部氏の一族であるので忌部という。

忌部の本貫地は大和ではなく、阿波忌部が本来の忌部であり大和国建国に伴いその本隊が畿内へ移動したということは林先生の一連の著作で明らかにされています。
 
この阿波忌部阿波海部と極めて密接な関係がありました。
そもそも、忌部は天津族であり、天部と海部、天と海をともにアマと読むのには意味があるのです。
 
阿波の海部(あまべ)と、出雲、有名な籠神社、さらに『海部氏系図和奈佐天村雲命、このブログでもいろいろ書いてきました。
これを復讐するとまた長くなるので、今回はここまで。
次は全国の(余戸・餘戸・全戸)郷を眺めて終りにしたいと思います。
まあ、結論から書くと、余戸余戸郷という地名は、ハイブリッド地名なのだろうと思っています。