余戸・餘戸・全戸、について、調べた範囲で書き出してみます。
☆余戸の一般的な説明
律令制下の村落制度。
令制では、五十戸を一里としたが、それを越えた余戸が十戸以上ならば別に里を作り、
十戸に満たなければ、大村に付けると規定されていた。
しかし、これが実際に設置されたのは僻地や特別の村落だけであった。
律令制下における地方行政村落組織の特殊形態。「あまるべ」とも読む。
その起源は木簡(もっかん)により浄御原(きよみはら)令下に求められる。
その後、郷里制下で駅戸(えきこ)、神戸(かんべ)が50戸のなかに設置されると、
残りの戸も余戸とされた。
また、戸の増加に伴い郷へ昇格した例もみられる。今日でも余戸、余目などの地名が残る。
こう並べるだけで、いろいろ疑問点が見えてきます。
ここで既に、多くの人間が両方をごっちゃにしているようです。公的なサイトを含め、様々な人が①や②のような意味合いで「余戸郷」を解説しています。
まさしく上の「戸の増加に伴い郷へ昇格した例もみられる」というのも、同じ「余戸」という字が使われていることによる解釈なのでしょう。
それでは、上にも出てきた「郷里制」についても見てみます、
☆ 国郡里制 【こくぐんりせい】 (Wikipedia)
701年(大宝元)に制定された大宝律令で、日本国内は国・郡・里の三段階の行政組織に編成された。
地方は一般に国、その下に郡、さらにその下に里を設ける行政組織に編成され、それぞれ国司・郡司・里長が置かれた。
そのため国郡里制(こくぐんりせい)と呼ばれる。里は、715年(霊亀元)に郷に改め、郷を2、3の里に分ける。
国は大区画であり、郡は中区画である。郡は大宝令(701年;大宝元年)以前は評と呼ばれた。
里は五十戸で構成された。715年(霊亀元)に里は郷(ごう)と改称され、郷里制に変わった。、
☆ 郷里制 【ごうりせい】 (kotobank)
律令制下の地方行政組織。
大化の改新で国・郡・里を設け、50戸を1里として里長一人を置いたが、霊亀元年(715)里を郷とし、郷をさらに細分して2、3の里を設けて郷長・里正を置き、国・郡・郷・里の四段階にした。
天平12年(740)里を廃止、郷制となった。
天平12年(740)里を廃止、郷制となった。
と、このように、どこを調べても一貫して、①一里の単位は50戸であるということ、②「余戸」は50戸で割っていったときの端数、余りの戸数で形成される地域である、という解説のどちらか、または両方となっています。
③でみるならば、「余戸が十戸以上ならば別に里(郷)を作り」ということになり、おそらく日本中が「余戸郷」で溢れかえる事態になるはずですが、多いとはいえ、とてもそんな説明を裏付けるほどの数ではありません。
そこで「実際に設置されたのは僻地や特別の村落だけであった」という説明にならざるをえないのでしょうが、これは「余戸郷」の数と分布という事実から見た推測なのだろうと思います。
つまり、上記の辞書なども全て間違っている可能性があります。
全て、とは「解説の全て」という意味ではありません。
全て、とは「解説の全て」という意味ではありません。
どこにそんなことが書いてあるのか?漢字の意味からの推測ではないのか?
もうひとつは、それが正しかったとして、「余戸」という名の「郷名」も、同じ意味なのか?という点です。
このブログでも何度もいう様に、当時の漢字は、まだほとんど「当て字」だからです。
※ 柳田国男 『地名の研究』 角川文庫
元来字(あざ)や小字の名は、久しい間人の口から耳に伝えられていたもので、適当な文字はなかったのである。
しかるに地図ができて文字を書き入れなければならぬようになって、村の和尚などと相談してこれをきめた。
その文字は十中の八、九までは 当字(あてじ) である。
しかも大小種々なる知恵分別をもって地名に漢字をあてたのは近世の事業であって、久しい間、まずは平仮名で通っていたものである。
国名や郡名や郷名のようなものは別だろう、と思うかもしれませんが、そうでしょうか?
記紀を見ただけでも、同じ音の国名が複数の漢字で表記されています。
記紀を見ただけでも、同じ音の国名が複数の漢字で表記されています。
漢字で表記されることが一般的になる以前から存在した地名に関しては、その音だけが存在したのであり、当然全てが当て字なのです。
ただ、現在でもそうであるように、当て字可能な漢字が複数あるときは、その地名の特徴に一番近い意味を持つ漢字をその中から選択することはあったでしょう。
ただ、現在でもそうであるように、当て字可能な漢字が複数あるときは、その地名の特徴に一番近い意味を持つ漢字をその中から選択することはあったでしょう。
③などを見ますと、「令制では~規定されていた」と書かれていますが、一方で、④などのように、「律令に正式な規定はなく」と解説する辞書もあり、一体どちらが正しいのか?一般人は困ってしまいます。
まず④の「律令に正式な規定はなく、~その起源は木簡により浄御原令下に求められる」という部分を調べてみます。
※ 音訳の部屋(古代の地方行政区分) (引用元の引用元は以下に未記載)
○古代の行政区分
「国(くに)」「評(こおり、郡)」「五十戸(さと、里)」
「五十戸(さと)」から「里(さと)」へ
干支もある木簡34点(石神遺跡以外も含む)の調査
「五十戸(さと)」は」665(天智4)年から687(持統1)年まで計10点
「里(さと)」は683(天武12)年から700(文武4)年まで計24点。
両方が存在する683~687が「五十戸(さと)」から「里(さと)」への過渡期とみられる。
○「五十戸(さと)」 国史大辞典 14
里(り)
それは五十戸を単位とし造籍を通して編成されたもので、『万葉集』にも
「里(さと)の門田」を「五十戸之門田」(巻一〇)
「里長(さとおさ)」を「五十戸長(良)」(巻五・巻一六)とする表記がみられる。・・・
中略
天武天皇十二年以前ではいずれも「五十戸」と表記されている点について、賦課単位の五十戸制を示すもの、または三十戸一里制の併存を示すもの、などの見解が提出されているが、五十戸一里制施行の初期の段階において、その行政区画としての里が一般的な「さと」=里と異なることを示すため、その編成内容である「五十戸」と表記したのではないかと思う。
○五十戸(さと、ごじゅっこ)と違った読みのHPがあります。
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三川国青見評大市部五十戸(おおいちべのさと)・・・ 奈良文化財研究所HP
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※以上
木簡の古いもの(665~687)には、「評」に続けて「五十戸」と記されているらしいです。
それが(683~700)には、「評」に続けて「里」となっている。
700年を境に「評」の表記は「郡」になり、715年からは「里」は「郷」となっている。
それが(683~700)には、「評」に続けて「里」となっている。
700年を境に「評」の表記は「郡」になり、715年からは「里」は「郷」となっている。
「評」=「郡」
「五十戸」=「里」=「郷」
という表記の変遷だというわけです。
「郷」の元である「里」は、もっと古くは「五十戸」と、書かれて いた。
これをもって、「一郷は五十戸」という「単位」だと言われているようです。
これをもって、「一郷は五十戸」という「単位」だと言われているようです。
次に、現存しない大宝律令(律六巻、令十一巻)を根拠に、なぜ③のように「令制では~規定されていた」といえるのか、調べてみました。
(続く)