空と風

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黄泉の国と伊邪那美命

 
前回の記事は全部削除しようかと思ったんですが、残したのには理由があります。
 
このブログは、古代に興味のある人が複数見てくれているからです。
というのも、私は黄泉の国と禊の話を読むと、どうしてもこういう体験上の映像を連想してしまうのです。
 
古代の埋葬法がどういうものだったのか?私は知りませんが、現代人よりももっと死が身近だったのは間違いありません。
 
古代の貴人に関しては、(もがり)が行われていましたが、遺体が安置されていた建物、あるいは部屋には入いらないのが習わしだったのではないでしょうか?
 
 
(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。その棺を安置する場所をも指すことがある。殯の期間に遺体を安置した建物を「殯宮」(「もがりのみや」、『万葉集』では「あらきのみや」)という。
 
 
 
古事記』では、伊邪那岐命は、黄泉の国の伊邪那美命に会いに行きますが、『日本書紀』では、
 
 伊弉諾尊欲見其妹 乃到殯斂之處
 
と、殯の宮へ行ったことが明記されています。
 
 
『隋書』 「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」 には、
 
 死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外庶人卜日而 及葬置屍船上陸地牽之
 
 死者は棺槨を以って斂(おさ)め、親賓は屍に就いて歌舞し、妻子兄弟は白布を以って服を作る。
 貴人は3年外に殯し、庶人は日を卜してうずむ。
 
と記され、長期間安置されていたことがわかり、棺の中で白骨化した遺体をその後埋葬したようです。
 

伊邪那岐命は、(おそらく)掟を破って、殯の宮へ入り、腐敗途中の亡骸に対面したのです。
なぜ、そのようなことをしたのか?
私の直感では、実は伊邪那岐命は、伊邪那美命の死に目に会えなかったのでしょう。
 
死体は亡くなった当日でさえ、生前の姿とは別人のように見えます。
日数をおいて、わざわざ対面する理由は他に考えられません。
この時はまだ「国生み」の途中でしたから、遠征中の出来事だったと考えられます。
 
古事記の物語は、そのときの驚きとショックをよく表しているように思います。
 
 
ところで、『隋書』を見ると、庶民は殯の期間を置かず土葬していたと書いています。
 
『日本の建国と阿波忌部』によると、旧麻植郡の粟島には独特の葬儀風習があり、極楽壙(ごくらくこう)と呼ばれる死体を投げ入れるための穴があり、大正4年に強制転居させられるまで約500戸・3000人の住人がありましたが、寺も墓も一切なかったそうです。
 
『阿波志』には、

 宮島八幡祠の北方67歩に在り、篠竹環生す

 この村古朴として葬るに浮屠(ふと)を用いず塚墓なし

 死者皆投じてここに葬る
 
と、あり、その理由について『川島町史』には、
 
 宮島八幡宮の鎮座した宮島は、八幡宮を尊崇するあまり神ノ島といわれ、 神聖な土地として、
 
 死者はすべて八幡神社の西北400mくらいの地点にあった極楽壙と、称する大穴に投葬して、

 お墓も寺僧もなく、神代さながらの埋葬であったという。
 
と記しています。
 
 
この投葬が、この地域独特の風習であったなら、他の地域の人々から見て「黄泉の国」と見えたのではないかと思います。
穴を覗きこみさえすれば、変わりゆく人体の姿が見えるのですから。
 
そして伊邪那美命は、殯の終わったあと、粟島から見上げる高越山の上に埋葬されたのではないでしょうか?