空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

嵯峨天一神社 名東郡佐那河内村

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嵯峨天一神社 
 
鎮座地 徳島県名東郡佐那河内村下字宮ノ本1
 
御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ) 月讀命(つきよみのみこと) 大白星神  (徳島県神社誌)
 
 
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弘仁3年(812)1月11日勧請の伝承があり、永禄11年(1568)8月13日に再建したという棟札(むなふだ)を蔵している。
 
「勧請の伝承」とあるが、どこから勧請したのか?、どこにも書いておらず不明。
 
天一神宮 天日神社 とも呼ばれていたが、明治初期、現社名に改称した。
 
 『寛保改神社帳』』(寛保3年=1743 阿波藩調査の神社台帳)には、
 
 下佐那河内村天一神(嵯峨天一神宮) 神主下佐那河内村井開勘大夫
 
の記載あり。
 
 
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現在の住所表示では「嵯峨」の地名が見当たらないが、地図や本によっては「嵯峨」と書かれており、旧地名にはあったのではないかと思われる。
神社の前を流れる川の名は「嵯峨川」である。
 
社伝には、弘仁3年(812)、正月11日、烏帽子山山頂から嵯峨に移遷されて嵯峨天一神社となった、と記されているという。
この烏帽子山がどこか、地図上で確認できない。県西部にある同名の山とは別らしい。
徳島県神社誌』には、勧請と書かれていたが、勧請と移遷では意味が違う。
 
郷土史家の高木隆弘氏は『記・紀の説話は阿波に実在した』で、当社を伊勢神宮の本宮とする仮説を提唱している。
 
日本書紀』によれば、天照大御神月読命保食神のもとへ行かせたが、その体から食物を出すのを見て不浄だと怒り殺してしまう。
天照大御神が天熊人を遣わせると、保食神の死体から五穀が実っていた。
大御神は大変喜び、粟、稗、麦、豆を畑の種とし、稲を水田の種とし、その稲種を天狭田(あめのさなだ)と長田(ながた)に植えた。
 
この、天狭田・長田は、天照大御神高天原における神撰田であった。

 
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天狭田・長田は、狭(さなの)田・長(ながの)田である。
 
当社の鎮座する「佐那河内村」の旧地名は「佐那県」(さなのあがた)であり、別名をまた「狭長村」(さながむら)という。
 
狭く長い田とは山間部の棚田を意味していると思われる。
佐那河内村は棚田で有名な米どころで、村史によれば1800年以上前から稲作が行われていて、古代の水田跡も確認できるという。
 
古事記』『先代旧事本紀』には、天孫降臨のあと、
 
 天手力男神佐那縣(さなのあがた)に坐(いま)す
 
と記すが、その通り、この村の 天岩戸別神社 に天手力男神が祀られている。

また『紀』天孫降臨の条で、猿田彦神は天鈿女命の問いに答えて
 
 吾は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に参る
 
と答えている。伊勢と狭長田が同じ地域であることがわかる。

この狭長田も狭長村=佐那河内村であり、かつては名東郡から別れた以西郡に属していた。
徳島市の城山は、元、猪ノ山、渭ノ山(いのやま)と呼ばれており、この山を中心に東西南北を、渭東・渭西・渭南・渭北と呼ぶ習わしだった。
 
すなわち、伊勢の狭長田 とは、渭西(以西)の狭長村のことだというわけである。
 
 
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また、『日本書紀』には伊勢の斎宮(いつきのみや・いわいのみや)の建立に関する記述で、倭姫命が巡行した国々の名を挙げているが、これらはみな阿波国内の地名であるという。
この佐那河内村徳島市方向へ下って行くと、北隣に「天の原」の地名が現存するが、佐那河内村大宮八幡神社の由緒には、
 
 元明天皇和銅元年(七〇八年)二月、佐那県に宮柱太敷立て、高天原にちぎたかりして、斎奉る( いつきたてまつる)
 
とあり、佐那河内村高天原であることを明示している。
 
高木隆弘氏は、その他多くの根拠を述べているがここでは割愛する。
 
 
伊勢と聞いて三重を思うのは現代人の常識だからで、記紀の神話時代の伊勢がそこがだったかどうかは別なのである。
伊勢の地名は阿波の中心部にもあるが、そこは忌部氏の本拠地の一角であり、三重の伊勢国国造の祖は、天之日鷲命、阿波忌部なのである。