空と風

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旧唐書に見る倭国


前回、次は「他の中国正史に見る邪馬臺國の位置について書いてみようかな?」な~んて書いてから早2年が過ぎました。(笑)

前回「後漢書に見る倭国」で「当時の中国側から見た倭国の範囲とは広くとも西日本」と書きましたが、まずその外枠を確認したいと思います


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旧唐書』(くとうじょ)は、中国五代十国時代後晋、出帝(942年 - 946年)の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書
二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれた。
完成と奏上は945年(開運2年)6月。
旧唐書東夷伝の中には、日本列島について、「倭国」と「日本国伝」の二つが並立している。


上記のように、旧唐書には「倭国伝」と「日本国伝」が含まれるのですが、他の中国正史には見られない興味深い記述もありますので、抜粋します。
 
倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 
新羅東南大海中
山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國通
其國 居無城郭 以木為柵 以草為屋
四面小島五十餘國 皆附屬焉
王姓阿毎氏 置一大率 檢察諸國 皆畏附之

倭国は、古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、
新羅の東南、大海の中に在り。
山島に依りて居す。東西、五カ月の行、南北、三カ月の行なり。代々中国と通ず。
その国、居に城郭なく、木を以て柵と為し、草を以て屋根と為す。

四面の小島、五十余国、皆、附属す。
その王、姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察せしむ。皆、之に畏怖す。

日本國者 倭國之別種也 
以其國在日邊 故以日本為名
或曰 倭國自惡其名不雅 改為日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
其人入朝者 多自矜大 不以實對 
故中國疑焉
又云 其國界東西南北各數千里 西界 南界咸至大海
東界 北界有大山為限 山外即毛人之國

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の辺に在るを以て、故に日本を以って名と為す。
あるいは曰く。倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。

あるいは云う。日本、旧くは小国なれども倭国の地を併せたりと。

その人、朝に入る者、多くは自ら大を誇り実を持って対えず。
故に中国はこれを疑う。

また云う。その国界、東西南北に各々数千里、西界・南界はいずれも大海に至り、
東界・北界は大山ありて、限りとなす。山外は、すなわち毛人の国なり。



後漢書に見る倭国」に書いたように、古代中国の「国」の定義は、現在の「国家」とは違います。ただ、その指し示すもの(範囲)は時代とともに微妙に変化します。これは「中国」も同じです。
しかし、「国」の範囲はこの時代でも、あくまで「都市」を中心とした政治、文化、経済エリアです。

三國志』が書かれたのは、233~297年。後漢書が書かれた398~445年から、ちょうど500年後に書かれたのが『旧唐書』です。

そこには、当時の日本列島の首都国の様子が上のように記されています。
まず「倭国」から見ていきましょう。

倭国は、古の倭奴国なり
ここでいう「倭国」とは、日本全体のことではなく、唐の時代の日本の首都国のことです。それは、後漢書に云うところの倭奴国のことであると。

これは(中国正史としては必要無いから)詳しく書いてないだけで、そう断定する根拠があったからそう書いているのです。
「代々中国と通ず」と書いているように、こちらからも遣隋使・遣唐使を入朝させ最新情報を(問題ない範囲で)与えているのです。
首都国の位置についても当然把握し、古の記録と照合もし、同じ場所だと確認しているのです。

その倭国の特徴は、「大海の中に在り」、「山島に居し」で、その“山島”は「東西に長く南北に短い“島”」です。
「五カ月」「三カ月」の行程という数字は中国特有のオーバーな表現か、こちらが与えた過剰表現(
朝に入る者、多くは自ら大を誇り実を持って対えず)かは不明ですが、「朝貢の記録」という特殊性を考えると前者でしょう。
理由は「後漢書に見る倭国」に書いたので見てください。また、この数字が誇張だという根拠は他の中国正史からも明らかなのですが、それは次回の記事を最後まで読んでいただければ分かります。
「東西五月行 南北三月行」の山島、というのは伝聞ですが、『隋書』では、実際に“そこ”ヘ行った者の行程の記録が記されているのです。

倭国の)四面には、小島が、五十余国あり、それらの国々は、皆、倭国に附属す」

日本の首都国であるところの倭国は「島」の中にありますから、四面が海なのは当然で、その周囲の「島々」はイコール「国々」で、みな倭国の属国だというのです。

倭国の)王の、姓は阿毎氏」

「阿」 呉音 : ア 漢音 : ア
「毎」 呉音 : マイ 漢音 : バイ
「氏」 呉音 : シ、ジ 漢音 : シ

日本の書物の音訳は、たいてい「あめし」ですが、何か根拠があるんでしょうか?あ、確か時代別の発音を検索できるサイトがありましたね。
とにかく、「あまし」「あばし」「あばじ」、こんな感じでしょうか?
確か、「阿波」の元の発音は「あは」「あば」でしたよね。
そうすると、この字の現代風発音では「あわ(し)」かもしれませんね。


「一大率を置き、諸国を検察せしむ。皆、之に畏怖す」 
魏志倭人伝に出てくる邪馬臺國と全く同じシステムです。

次に「日本国伝」です。

日本国は、倭国の別種なり」
日本、旧くは小国なれども倭国の地を併せたり

問題の箇所です。例によって、偉い先生方がこの記述の理由付けに苦心されていますが、はっきり言って、頓珍漢です。

唐の前の時代を書いた隋書では、国名は「倭国」だけです。
そしてその国の都は「邪靡堆」(やまと)である、と。

これが魏志倭人伝に登場する「邪馬臺」と同じであるのは明白ですが、日本の歴史学では全く認められていません。
「邪靡堆」を「大和地方」とする一方、「邪馬臺」のほうは「九州説」その他いろいろ、主張が異なるからです。同じだと認めるわけにはいかない事情があるんですね。

漢字使いも似ていて、読みも一緒なんだから、素直に認めればいいのに、往生際の悪い人たちです。
もちろん、「九州」も「大和」も間違いで、両国とも同じ地方のことで「阿波」である、というのが、今回の記事の主旨なのです。呆れましたか?

「あわ」と「やまと」では一音も合わんやんけ!とか言わないでくださいね。説明するのも面倒なので、そういう人は検索するかこのブログを最初から読んでください。


正解を言うと、旧唐書中の「日本国」が「大和」であり、「倭国」が「阿波」です。
これを同じ地方だと“思い込んで”解釈しようとするから答えが出ないのです。

「日本国」は畿内であり、当時の日本(ややこしいな)の首都国です。
中国正史に書かれる「国」は、全て都市単位の「小国」のことだと繰り返し書いてきました。「日本国」もその一つだったのです。ただし、もちろん元々は日本国という名ではありませんでした。


旧唐書をとりあえず信用するとした場合、倭国は、古の倭奴国、で、地勢的には、東西に長い大きな島の中にあり、四面には小島が無数にあり、うち五十余の島は「国」として機能している。
日本国(単一の小国)は、その倭国連合をすっぽり呑み込ん(併せたり)で、首都国となったわけです。
飲み込まれた元の倭国の首都の名が「邪靡堆」。
つまり、飲み込まれたというよりは、むしろ逆で、

はっきり言うと、遷都なのです。

数十国の倭国連合が一国の日本国に飲み込まれることはありません。
連合に加わった(もともと連合国の一つとも考えられます)後に京師が移された。

だから、「日本国は、倭国の別種」なのです。

唐の時代に我が国では遷都が行われていたのです。
国名の変遷こそがその証拠です。

倭国連合の首都国は「倭(い)奴(の)国」。その都が「倭」「邪靡堆」(やまと)。
その遷都先の国名が、「大倭」「大養徳」「大和」(おほやまと)。

この「大和」が8世紀初頭に「日本」と改名しました。やがて、この「日本」が首都国名としてだけではなく、日本全体の国号として使われるようになるのです。


大和 (Wikipedia

元々はヤマト王権の本拠地である奈良盆地の東南地域が、大和(やまと)と呼称されていた。その後、ヤマト王権奈良盆地一帯や河内方面までを支配するようになると、その地域(後の近畿・畿内)もまた大和と呼ばれるようになった。そして、ヤマト王権の本拠が所在した奈良盆地周辺を範囲とする令制国大和国とした。さらには、同王権の支配・制圧が日本列島の大半(東北地方南部から九州南部まで)にまで及ぶに至り、それらを総称して大和と呼ばれるようになった。こうして日本列島、つまり日本国の別名として大和が使用されるようになった。


おかしいですね。ヤマトは四面を海に囲まれた島の中にあるんですよね説明がつかないから中国正史は無視、という学問的立場なのでしょう。思い込みのほうが大事なようです。だから頓珍漢だと言うのです。


倭国」が「大きい島」であるのに対し「日本国」はどういう地勢でしたか。
「国の界は、東西南北に各々数千里」
「西界・南界はいずれも大海に至る」
「東界・北界は大山ありて、限りとなす」


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「日本国」(大和)の西・南は海だそうですから紀伊水道太平洋ですね。
北・東は山が国境ということです。
つまり、日本海にも出ないし、伊勢湾にも出ないということで、現在の都道府県単位では、広くとも京都南部・滋賀・大阪・奈良・和歌山の範囲を越えることはなさそうです。


つまり、唐の時代でも、関西より東の日本の情報は、中国には何一つ伝わっていないことが分かります。
それより500~650年前に書かれた三国志後漢書に書かれている「倭の国々の様子」が最大でも西日本の範囲のことだと私が書いたのも当然だと理解していただけるでしょう。

また、東日本の地理的情報も当時の中国には無いのですから、本州は『旧唐書』の云う「四面を海に囲まれた山島」ではありません。
したがって、日本の首都国であるところの「倭国」とその都「邪靡堆」は、本州に属するいかなる地方にも無かったことが明白です。

そして、その中国が認知していた範囲に、 百余の国々があり、その総称が「倭」であり、その国の数だけ「王」がいて、彼らを束ねる「大王」の都する場所が「邪馬臺・邪靡堆」(やまと)であり、

その邪靡堆は、西日本の中で「四面がみな海=島」の地方にあり、その大きな島は「東西に長く」、周囲に王が在位する「50の島々」があるわけです。

もちろん、それ以外の島々は、この数に含まれていません。


そんなとこ、どこにありますかね~? 

先入観のない小学生に訊くのが一番かもね。


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※追記

もっと以前から、九州ヤマト説というものがあり、倭国(ヤマト)が九州で日本国が畿内、としています。もちろん、東西に長く、南北に短い、という島の特徴は、その方角の書き間違いなんだそうです。なぜ東西と南北を書き間違えたと判断するのか?というと、そうじゃないと九州の地形に合わないからだそうです。お疲れ様。

倭の国の国魂神を祀る「倭大國玉神社」(式内社)って、どこにあるんですか?
さらに、九州が倭(ヤマト)であるならば、九州のどかかに「難波津」がなければなりません。詳しくは後編の“『隋書』からヤマト国の所在地を特定する”を見てください。

九州×畿内の二極でしか歴史を考察できない、無理があっても曲解を重ねてその枠に無理やりねじ込む、という方法論の間違いから、そろそろ脱皮していただかなければなりません。


(続く)


式内社 多祁御奈刀弥神社 名西郡石井町

 
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日本一社 延喜式式内社 阿波國名方郡 多祁御奈刀弥神社(たけみなとみ)神社
 
鎮座地 徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪213-1
 
御祭神 建御名方(たけみなかた)命 八坂刀賣(やさかとめ)命 (徳島県神社誌)
 
延喜式内小社。歴代藩主蜂須賀候の尊崇極めて篤く、毎年当社の御例祭には参拝又は代参せられし趣にて、殊に寛永年中第四世蜂須賀光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり奇瑞著し。又参拝道中鮎喰川の出水に遮られる事のあるため、現在の佐古町諏訪神社に分霊せしものと伝えられる。現在の社殿は享保五年(1720)の建築と言われる。明治七年郷社に列す。(徳島県神社誌)
 
 
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創立年代不詳。
 
御祭神について異説はないが、延喜式の記載は一座であるから、本来の御祭神はは建御名方命一柱である。 『式内社調査報告』では、「江戸時代の諸書から、同時代には建御名方尊一座であったらしいことが判明するので、明治以後に八坂刀賣命が祭神に加わったのかもしれない」と記す。
一方、「案外、この二尊は尊名がよく似ている所から、関係者が混同した結果、二尊が祭られることになったのではなかろうか」などと不勉強なことも述べている。
 
八坂刀賣命は、建御名方命の后神であり、そのため、年代は不明だが後の世に配祀されたとみえる。
八坂刀賣命を御祭神とする有名な神社は、諏訪大社であり、その元の社名は、式内社「南方刀美神社二座」である。

すなわち、信濃国諏方郡においては、延喜式が編纂される以前から二座(建御名方命並びに八坂刀賣命)で祀られており、多祁御奈刀弥神社は明治になってこれに倣った可能性がある。
 
当初から、八坂刀賣命は、建御名方命の后神として祀られていたのか?は、確認する術がないが、本居宣長なども『古事記伝』で「此健御名方富命は水内郡の社なり。八坂刀売神は諏訪社二座の内の一座にて御名方富神の后神にして今下諏訪と云是なり」と記す。
 
 
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信濃国南方刀美神社も、創立年代は不詳である。
昭和26年~昭和44年に編纂された『信濃史料』 という一大史料集があるが、南方刀美神社の由緒となる建御名方命の情報は何もなく、「神代 建御名方神、諏訪に入ると伝ふ」と書くのみで、他は、古事記先代旧事本紀等を引用するにとどまっている。
 
この『信濃史料』にも引用される『続日本紀』の
 
養老五年六月二六日(721) 信濃国を割きて諏方国を置く、尋いで美濃按察使の管下となす。
 
で確認できるように、「諏方」は八世紀に誕生した国名である。

南方刀美神社の国史初見は『新抄格勅符抄』(神事諸家封戸)大同元年牒(806)の「建御名方富(タケミナカタトミ)命神 七戸」というものである。
 
それ以前の「シナノ・スワ」地名の記述は、『古事記』国譲りシーンの「科野国之州羽海」、『日本書紀持統天皇5年の「遣二使者一祭二竜田風神。信濃須波。水内等神一」であるが、これが南方刀美神社と結びつくとは断定できない。
この「科野」「州羽」「信濃」「須波」が全て現在の長野県を指すとは限らないからである。
第一、長野には「海」が無い。
 
 
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阿波の諏訪の海(海進3m)
 
 
 
次に、八坂刀賣命の神名の国史初見は、『続日本後紀』承和9年10月壬戌(2日)条(842)の
 
奉レ授二  安房国 従五位下安房大神正五位下 無位第一后神天比理刀咩命神
     信濃国 無位健御名方富命前八坂刀売神
               阿波国 無位葦稲葉神
               越後国 無位伊夜比古神
               常陸国 無位筑波女大神並従五位下
 
だが、同『続日本後紀』承和9年5月丁未(14日)条(842)の記載では
 
奉レ授二 信濃国諏方郡 無位勲八等南方刀美神従五位下
 
であるから、この半年の間に八坂刀売神が配祀された可能性もある。
 
 
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信濃史料』巻十一に、
 
天文二年(1533) 諏訪社上社大祝諏訪頼忠、信濃国一宮諏訪本社上宮御鎮座秘伝記を書す、とあるが、その『上宮御鎮座秘伝記』でも建御名方命については「追到科野国之州羽海」の一節を中心に古事記をそのまま引用するのみであった。
後段で「古記に信濃国建御名方神の住之地云々」とあり、その「信濃」は科の木を産する地ゆえの「科野」である、と続くが、南方刀美神社の「御鎮座秘伝」と言うには心許ない。
 
 
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ところで、この『上宮御鎮座秘伝記』では、八坂刀賣命について「天孫降臨供奉三十二神之中、八坂彦命之後流也」と記している。

この「天孫降臨供奉三十二神」とは『先代旧事本紀』に登場する「邇芸速日命と三十二人の防衛(ふさぎもり)」のことである。
 
これは、なかなか興味深い話だ。
『先代旧辞本紀』ではこの八坂彦命を「伊勢神麻績連(いせのかむおみのむらじ)らの祖」としているが、その名前から連想される通り、神麻績連は忌部氏天日鷲命の後裔なのである。
 
 
平田篤胤『古史成文』
 
故れ其の天日鷲命は(亦天日鷲翔矢命と云す) 産巣日神の御子 天底立命(亦名は角凝魂命) の子 天手力男神(亦名は天石戸別命、亦名は伊佐布魂命、亦名は明日名門命) の子。
 
粟國忌部、多米連、天語連、弓削連等が祖なり。
 
次に長白羽命は(亦天白羽命と云す。亦名は天物知命。亦名は天八坂彦命)天日鷲命の子。
神麻績連等が祖なり。
 
次に天羽槌雄命は(亦健葉槌命と云す。亦天羽雷命と云す。亦名は綺日安命)角凝魂命の子、伊佐布魂命より出づ。倭文連、長幡部等が祖なり。
 
次に天御桙命は、神服部連等が祖なり。次に天八千千比賣命は、伊勢人面等が祖なり。

長白羽命(ながしらはのみこと)は、『安房斎部系図』においても、天日鷲命の子となっている。
長白羽命の「長」は「天」と対比してみても「那賀・那珂・長」の出自を示すものであろう。
 
長白羽命は『古語拾遺』の天岩戸シーンに登場し、思兼神に命じられ、麻を植え青和幣(あおにぎて)を織った神である。伊勢へ奉納する荒妙(あらたえ)を織ったのが神麻績部である。

一方、歴代天皇が即位後初めて行う践祚大嘗祭において神衣(かむそ)とされる「あらたえ」(阿良多倍・粗栲・荒妙・麁妙・麁服)は古来阿波忌部氏が貢進してきた。
この任に当たる御衣御殿人(みぞみあらかんど)は、上古より阿波の麻殖忌部氏人の中から卜定(ぼくじょう)により選定された。この御殿人の家筋は、鎌倉時代には現在の美馬市木屋平の三木家にほぼ固定し現在に至るまで続いている。
 
阿波忌部氏以外のものが、この麁服を作ることはできない。
三木家には、延慶(えんきょう)二年(1309)や文保(ぶんぽう)二年(1318)の日付となる朝廷からの「官宣旨」や太政官からの「太政官符」(国司による写し)が現存している。
 
 應(まさ)に早く荒妙御衣を織り進(まいら)しむべき事
 右大納言藤原朝臣師信 宣(しめ)す
 勅を奉ずるに 大嘗会主基所料 宜(よろ)しく彼の国に仰せ
 先例に依って常(いつも)の氏人を以て織り備え令(し)め
 神祇官の使いに附して 早く以て進上すべし者
 国宜(よろ)しく承知して宜(むべ)に依って之を行え
 
このように、神麻績部ー長白羽命は阿波忌部と深く結びついているのであり、そのことと考え合わせると、八坂刀賣命が建御名方命の后神であるというのも宜なるかな、と言える。
兄である事代主命の妃神・天津羽々命も忌部なのである。

これらの事実や系図を上の『上宮御鎮座秘伝記』と重ねて見るならば、八坂刀賣命は、阿波忌部の祖・天日鷲命の孫娘だと分かる。
そして、その父、八坂彦命は、天日鷲命の子でありながら、邇芸速日命の防衛を務めていた、というわけである。
 
 
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ところで、リンク先にも書いたように、社伝によれば、信濃諏訪郡南方刀美神社は、宝亀10年に当社から移遷されたとなっている。『阿府志』には、
 
多祁御奈刀弥神社は諏訪に在り諏訪大明神也。大己貴命の御子也。
御母は阿波の高志の沼河姫天水塞比売なりと云えり。
 
崇神帝の朝に素都乃美奈留命を高志の深江の国定に定む。
其の所、南海の内に美奈刀(みなと)生まれ給ふ。
 
此の御名方命は、即ち、阿波国の諏訪の里の諏訪の神也。
高志の庄は、元名西郡高志の郷にして、後世、麻植郡の或一小郡を加へたるを以て、今の牛島村なる高志良(こしら)と唱う地なるべし。
 
水塞姫神は、名西郡高志の郷、現今は高原村の内往古は寒村(せきむら)といへるを中古にいたり堰村とも書きたるもの也。
則ち、高原村の内字関傍示(せきぼうじ)に水堰姫(みなせきひめ)の神を祭れる旧跡あり。
 
社伝記ニ、代光仁(こうにん)帝(第四十九天皇・709~782)ノ御宇、宝亀(ほうき)十年(779)
信濃諏訪郡 南方刀美神社名神大阿波国名方郡諏訪大明神ヲ、移遷シ奉ルとあり・・・」
 
と記されている。
上記の高志郷旧跡は現在、祀りを高志沼河姫を御祭神とする吉野川市の杉尾神社ヘ移され、そこに、この南方刀美神社移遷の社伝記がある。
『阿府志』のいう「社伝記」がこれを指すのか、同様のものが多祁御奈刀弥神社にもあったのか?は不明である。
 
 
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南方刀美神社の国史初見は、806年であるから、記録上の辻褄はあっている。
一方で、多祁御奈刀弥神分祀の情報は一神社の社伝なのであるから、無批判な肯定は近視眼的な歴史の見方に繋がるという意見が返ってきそうである。

その点だけを見るならば、確かにそうなのだが、阿波国の歴史を研究する者たちが当社とその伝承を重要視するのには、その下地となる数えきれないほどの情報があるからである。
 
その内「出雲神」だけを見ても、同じ名方郡の式内社「大御和神社」に父・大国主命、隣の阿波郡の式内社事代主神社」に兄・事代主命(正確には甥・兄の事代主命勝浦郡事代主神社)で祀られる。

上記のように、母・高志沼河姫は隣町、吉野川市鴨島・杉尾神社で、兄・事代主命の妃神である阿波神(天津羽々命)はお隣の阿波市粟島神社(元は粟島の浮島八條宮)で祀られている。
この天津羽々命は、『安房斎部系図』では天日鷲命の妹である。また、式内社土佐神社の御祭神は、建御名方命事代主命の兄、阿遅志貴高日子根命だが、同じ高知市式内社・朝倉神社の御祭神もまた、天津羽々命であり、一説では「阿遅志貴高日子根命の后神」とされている。
 
このように、一般に出雲神とされる大国主命の息子たちの后が、みな、阿波の女性で、天日鷲命の血縁とは、どういうことか。一家揃って出雲から阿波へ移住し、その子孫が阿波発で全国へ移っていったのか?
もちろん、そんな痕跡は何一つない。大国主一族が元々阿波国人なのである。
 
つまり、有名な神々・中心的な神々は、子孫の移動・移住に伴って分祀され、それぞれの土地でも祀られるようになるが、その家族・親族といった付随的な人物達を神として祀るのは、その一族の本貫地のみである。当たり前の現象ではないか。
 
その他の神社と御祭神、地名と伝承、それらと記紀の物語の一致等々、書いていけばどこまでもクモの巣状につながってゆくのであり、それこそが出雲神が阿波国神であることの最大の根拠ともいえる。
 
さらには、私の説では大国主命こそが天日鷲命であり、賀茂建角身命であり、初代神武天皇の祖父であるが、阿波国中の式内社、主要な神社の御祭神は、ほとんどこの一族で占められる。
多祁御奈刀弥神社御祭神に関しても、先入観なく調べても、このように妃神が同族だと判明する。
 
仮に系図をそのまま信用するとして、息子に孫娘を嫁がせたり、妹を息子に嫁がせるなど、理解不能と感じられるかもしれないが、それは現代人の常識で、上古の実力者は一夫多妻制だから、妹と息子、息子と孫が同世代などという状態は珍しいことではない。ましてや征く先々に妻がいたと云われる大国主の子供たちなのであるから。また、古代、権力者の家系では、異母兄弟姉妹の間では、親族結婚はむしろ積極的に行われていた。
特に、この日本建国に関わる一族は、ほとんどが同族結婚なのである。
 
 
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エブリイ DA17V レビュー その弐


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約10年前、田舎に戻って感じたことの一つが「最近の軽トラはかっこいいなぁ」というものでした。何がかっこよかったかというと、オーバーハングの短さ(というか、ほぼゼロ)からから来るスタイルの良さです。DA17Vのかっこよさも、この部分の要素は大きいですね。

ところが今年モデルチェンジした最新の軽トラはみな、どのメーカーも、昔のようにホイールハウスがシートの下に来て、そこから前がズーンと突き出ている不格好なスタイルに戻りました。


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何故こうしたのかという説明は目にしたことはありませんが、だいたい想像はつきます。
まず見てすぐ分かるように、ホイールベースが短くなります。直進安定性は低下しますが、その分小回りが効きます。コーナリング性能も低下しますが、それらの欠点は、軽トラという車の主とした用途から見れば、取るに足らないことです。
もうひとつの長所は?といえば、室内(足元)が劇的に広くなる、という点です。


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これが、DA17V運転席の足元です。右側にでーんとホイールハウスが出っ張ってます。
そのため、ペダル類が左に押しやられ、アクセルペダルなどは、最初見た時吹き出したくらいのサイズと形状をしています。

本来、ちゃんとした姿勢でシートに座って、まっすぐ右足を伸ばしたところに、アクセルペダルはあるべきなのです。もっと車格が上がっても、この出っ張りの影響はありますから、車は(この部分は)構造的には左ハンドルの方が適している、と言われるのです。左にホイールハウスの出っ張りがあっても右側にあるよりは悪影響が少ないからです。(ATなら尚更)

特に体格が大きいほど、足が長いほど、この悪影響は受けやすいですね、普通に考えて。
私がエブリイでは絶対にマニュアルを買う気がないのは、このせいです。
その運転のしにくさは親父の軽トラ(アクティ)で知ってましたから。


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もう1000キロも走ったので、大分慣れましたが、最初はなかなかポジションが決まらず、疲れました。上記の理由のせいで、気がついたらシートの左寄りに座って運転していました。
また、右足は膝から下が内側に折れるような変則的な座り方になります。

車に乗ってエンジンをかけるとき、右足でブレーキを踏むことが習慣化していますが、実は、エブリイを買った当初、エンジンを掛けた瞬間、空ぶかしをしてしまうということが数回ありました。
ブレーキペダルを踏んだつもりでアクセルペダルを踏んでいたのです。

今ではほとんど慣れてしまって、全て無意識に始動・運転していますが、おそらく運転中は知らない間に疲れが溜まっているでしょうね。このポジションのせいで。
慣れることで普通に運転しているということは、体のほうを車に無意識に合わせているんです。
本当は人間の運転姿勢に合うように車を作らなければいけないのです。

最近無意識にやっていたクセを一つ、今日自分で発見しました。
信号待ちなどの後、アクセルを踏むときに、右足の踵はつけたまま、つま先を右へクルッと回します。そうすると靴の右先がコツンとホイールハウスの出っ張りにあたりますから、そこで、すっとつま先を前に下ろすと、ちょうどアクセルペダルに足が乗るという仕組みです。(笑)

慣れで解決できるとはいえ、このペダル配置は、車として大きな欠陥と言えるでしょう。
でも、エブリイを今のまま、キャリイのように前輪の位置だけ変えたらいいか?というと、私は賛成しません。
かっこわるくなるからです。
今のまま我慢する方を選びます。

軽トラのキャリイは、前期型からこの部分を改良したのに、同じく実用性を重視すべき商用車でもあるエブリイは前隅にタイヤを配置したままにしたのは、おそらく、エブリイには乗用モデルのワゴンがあるからでしょう。
メーカーだって、かっこ悪くなると売り上げに響くのが分かっているんです。
いや、走行安定性を重視したのだ、と言うでしょうけどね。


※追記

このあと、実際に仕事でエブリイを使うようになって、考え方が変わりました。
毎日ではありませんが、山間部のかなり険しい急角度の坂道を走ることが度々あるのです。
どのくらい厳しいかといえば、厳しいところでは、路面が濡れてもいないのにタイヤが空転する。
そのくらいの急角度の道を登ったり下ったりした先に民家や集落があるのです。

もうそうなると、実際にも精神的にも、前論が車体の一番前の隅っこに付いていることが、どれだけ安定・安心につながっているか。もう少しまともな山道での下りコーナーでも安定感があります。やっぱりこのままがいいです、スズキさん。