さすがにお隣だけあって、実にわかりやすい痕跡です。
☆ 式内社 讃岐國多度郡 雲氣神社
御祭神は他にも、闇靇高靇という「雨神」がおられ、「龍」「雷」「水波女」、ナーガを代表する「大己貴命」と、水に深いかかわりのある神社であることがわかります。
ミツハノメ神社(式内社)も、日本全国で阿波にしか存在しません。
逆に、香川県東部は、畿内の古墳のルーツである、より古い時代の小型前方後円墳が多数出土し、徳島と合わせて四国東部が日本建国のルーツであることの根拠となっています。
現在発見されている前方後円墳の中で国内最古のものが、徳島県の鳴門市大麻町(上記大麻比古神社の鎮座地)「萩原墳丘墓」なのですが、3~4世紀の前方後円墳の数だけ見れば、香川県58基、徳島県12基と香川が圧倒しています。
現在発見されている前方後円墳の中で国内最古のものが、徳島県の鳴門市大麻町(上記大麻比古神社の鎮座地)「萩原墳丘墓」なのですが、3~4世紀の前方後円墳の数だけ見れば、香川県58基、徳島県12基と香川が圧倒しています。
古墳だけでなく、香川東部の神社・地名も、徳島とストーリー的に一体となり、古代天皇に関わる大変な地です。
~粟井神社・由緒~
上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。
従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、同胞的精神を呼び起こして一致団結をはかりました。
忌部氏の精神生活の目標になったものは、西讃の南隅に鎮座まします粟井の御社でありました。
この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。
後の豊田郡がそれで如何に御神威の宏大であったかを察することが出来ます。
社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。
上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。
従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、同胞的精神を呼び起こして一致団結をはかりました。
忌部氏の精神生活の目標になったものは、西讃の南隅に鎮座まします粟井の御社でありました。
この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。
後の豊田郡がそれで如何に御神威の宏大であったかを察することが出来ます。
社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。
『続日本紀』『延喜式』などの記述から讃岐最古社と推測されるのがこの粟井神社です。
境内社の奥には、当社が遷座してくる以前にあったといわれる「杉尾神社」があります。
杉尾神社が阿波の神社であることは前回紹介済みです。
境内社の奥には、当社が遷座してくる以前にあったといわれる「杉尾神社」があります。
杉尾神社が阿波の神社であることは前回紹介済みです。
社名、地名の「粟」は「阿波」のことで、御祭神も忌部氏の祖「天太玉命」。
「粟井」が「阿波居」の意味であるという説もあります。
由緒には「天日鷲命」の子孫が当社を奉遷したと記されていますが、天日鷲命は阿波忌部の祖ですから、讃岐忌部が阿波よりの分家であることがわかります。
阿波忌部と讃岐忌部については、別の機会に詳しく書きたいと思います。
「粟井」が「阿波居」の意味であるという説もあります。
由緒には「天日鷲命」の子孫が当社を奉遷したと記されていますが、天日鷲命は阿波忌部の祖ですから、讃岐忌部が阿波よりの分家であることがわかります。
阿波忌部と讃岐忌部については、別の機会に詳しく書きたいと思います。
(▼0▼)/~~see you again!