空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する④


イメージ 7


又經十餘國 達於海岸

裴清が達した「海岸」とは一体どこか?

倭王遣小德阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎

倭王の都の海岸です。

邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也

都とは、つまり、倭国の都である邪靡堆(やまと)の海岸です。


先に書いたように、この記録は日本書紀にも記されています。
※以下の日本書紀原文・訳文は こちら から引用させていただきました。
 

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。
唐國號妹子臣曰蘇因高。
卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。
遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。
爲唐客更造新館於難波高麗館之上。
六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、
是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。
於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、
百濟人探以掠取。是以不得上。」
於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」
則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。

十六年の夏四月(608.04)、小野臣妹子、大唐より至る。
唐国、妹子臣を号けて蘇因高と曰ふ。

即ち大唐の使人裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて、筑紫に至る。
難波吉士雄成を遣して、大唐の客裴世清等を召す。
唐の客の爲に、更新しき館を難波の高麗館の上に造る。

六月の壬寅の朔丙辰(06.15)に、客等、難波津に泊れり。
是の日に、飾船三十艘を以て、客等を江口に、新しき館に安置らしむ。
是に、中臣宮地連烏磨呂、大河内直糠手、船史王平を以て掌客とす。

爰に妹子臣、奏して曰さく、
「臣、参還る時に、唐の帝、書を以て臣に授く。然るに百済国を経過る日に、
百済人、探りて掠み取る。是を以て上ること得ず」とまうす。
是に、群臣、議りて曰はく、「夫れ使たる人は死ると雖も、旨を失はず。是の使、何にぞ怠りて、大国の書を失ふや」といふ。
則ち流刑に坐す。時に天皇、勅して曰はく、
「妹子、書を失ふ罪有りと雖も、輙く罪すべからず。其の大国の客等聞かむこと、亦不良し」とのたまふ。乃ち赦して坐したまはず。


秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。
是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。
額田部連比羅夫、以告禮辭焉。
壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲客之導者也。
於是、大唐之國信物、置於庭中。時、使主裴世淸、親持書兩度再拜、言上使旨而立之。
其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、
思弘德化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。
知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢
丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世淸等、稍宣往意、幷送物如別。」
時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。
事畢而退焉。是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭、亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。
一云、服色皆用冠色。丙辰、饗唐客等於朝。
九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡。
辛巳、唐客裴世淸罷歸。則復以小野妹子臣爲大使。

秋八月の辛丑の朔癸卯(08.03)に、唐の客、に入る。
是の日に、飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市の術に迎ふ。
額田部連比羅夫、以て礼の辞を告す。

壬子(08.12)に、唐の客を朝庭に召して、使の旨を奏さしむ。時に阿倍鳥臣、物部依網連抱、二人を客の導者とす。
是に、大唐の国の信物を庭中に置く。時に使主裴世清、親ら書を持ちて、両度再拜みて、使の旨を言上して立つ。

其の書に曰く、「皇帝、倭皇を問ふ。使人長吏大礼蘇因高等、至でて懐を具にす。朕、宝命を欽び承けて、区宇に臨み仰ぐ。
徳化を弘めて、含霊に覃び被らしむことを思ふ。愛み育ふ情、遐く邇きに隔て無し。
皇、海表に介り居して、民庶を撫で寧みし、境内安樂にして、風俗融り和ひ、深き気至れる誠ありて、遠く朝貢ふことを脩つといふことを知りぬ。
丹款なる美を、朕嘉すること有り。稍に暄なり。比は常の如し。故、鴻臚寺の掌客裴世清等を遣して、稍に往く意を宣ぶ。并て物送りすこと別の如し」といふ。

時に阿倍臣、出で進みて、其の書を受けて進み行く。
大伴囓連、迎へ出でて書を承て、大門の前の机の上に置きて奏す。
事畢りて退づ。是の時に、皇子、諸王、諸臣、悉に金の髻花を以て頭に着せり。
亦衣服に皆錦、紫、繍、織、及び五色の綾羅を用ゐる。
【一に云はく、服の色は、皆冠の色を用ゐるといふ】。

丙辰(08.16)に、唐の客等をたまふ。
九月の辛未の朔乙亥(09.05)に、客等を難波の大郡にたまふ。
辛巳(09.11)に、唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす。


イメージ 1


余談ですが、この時の天皇は、女帝の推古天皇(在位593年~628年)ですが、
隋書では、600年時点での倭王の名を「阿毎・多利思比孤・阿輩雞彌」で、妻は「雞彌」太子は「利歌彌多弗利」と書いています。
そのため、日本書紀の方がおかしい、創作である、という学者もいます。

しかし、何故絶対に隋書が正しいと断定できるのでしょうか?送った国書の内容から考えれば、倭国側も隋に対して情報操作していた可能性があります。
隋書と日本書紀を読み比べると、隋書には裴世清が謁見した天皇(性別の記述なし)が、煬帝を念頭にへりくだった挨拶をするシーンがありますが、日本書紀では、裴世清が一方的に煬帝の国書を奏上するだけです。

「裴世清、親ら書を持ちて、両度再拜みて、使の旨を言上」し、奏上が終わると「阿倍臣、出で進みて、其の書を受けて進み行く」で、天皇からは一言のお言葉も頂いておりません。推古天皇は御簾の中で顔さえも見せていないのではないでしょうか?
女帝であることを隠すためです。



ここで『隋書』と『日本書紀』を時系列的に並べてみます。

 ■ 『隋書』 □ 『日本書紀


■度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國
  A【又至竹斯國】 又東B【至秦王國

百済を渡り、竹島に至り、南に𨈭羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。
また東して一支国に至り、また【竹斯国に至り】、また東して【秦王国に至る】。

□A【裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて、筑紫に至る】(608年4月
□B【客等、難波津に泊れり】(608年6月15日


■又經十餘國 【達於海岸】 自竹斯國以東 皆附庸於倭
また十余国を経て、【海岸に達す】。竹斯国より東、みな倭に附庸す。

□秋八月の辛丑の朔癸卯に、唐の客、【京に入る】(608年8月3日


倭王遣小德【阿輩臺】 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎

倭王は、小德【阿輩臺】を遣わし、【数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ】。

□是の日に、【飾騎七十五匹を遺して、唐の客を海石榴市の術に迎ふ】。
額田部連比羅夫】、以て礼の辞を告す。


■A【後十日】 又遣大禮B【哥多毗】 從二百餘騎C【郊勞

【後十日】、大禮の【哥多毗(かたひ)】を遣わし、二百余騎を従え【郊勞せしむ】。

□A【壬子(608年8月12日)】に、唐の客をC【朝庭に召して使の旨を奏さしむ】。

時にB【阿倍鳥臣、物部依網連抱】、二人を客の導者とす。


■既【至彼都】 其王與清【相見】 大悅

既にして【彼の都に至るに】、その王(倭王)、清(裴世清)と【相見て】、大いに悦びて曰く

□是に、大唐の国の信物を【庭中に置く】。時に使主裴世清、親ら書を持ちて、両度再【拜みて使の旨を言上】して立つ。


■「朝命既達 請即戒塗」於是【設宴享

「朝命は既に達せり、請う、即ち戒塗せよ」と。ここに於いて【設宴を享け】

□丙辰(608年8月16日)に、唐の客等を【朝に饗たまふ】。


■【以遣清復令使者隨清來貢方物】 

以って【清を遣わし復た使者をして清に随いて来たりて方物を貢せしむ】。

□九月の辛未の朔乙亥(608年9月5日)に、客等を難波の大郡に【饗たまふ】。
□辛巳(608年9月11日)に、【唐の客裴世清、罷り帰りぬ。則ち復小野妹子臣を以て大使とす】。


イメージ 2


ご覧のように、2書を並べることで、隋書だけでは分からなかったことが見えてきます。
まず、『日本書紀』では、我が国が裴世清一行を迎えた場所を「難波津」であると記しています。
上のように並べれば、それがあの「秦王国」だと分かるのです。

日本中、一般人から学者まで、日本書紀のこの部分を読んで「難波」は「大阪」と思い込み、まず全ての考察がそこからスタートします。
疑いもしません。それが大きな間違いなのです。

阿波古代史に興味のある方、このブログの読者の方はご承知の通り、古代、大阪に難波はありません
平安時代の『倭名類聚抄』の国名・郡名・郷名にも記載がありません。
これほどの歴史的地名が郷名にすらならないなどということはありえません。
つまり、もっと後の時代にコピーされて名乗り始めた地名です。

では、どこに「難波」があったのか?と言えば、調べればすぐ分かるように香川県にあります。現在の津田町一帯です。この地は、仁徳天皇の京都が置かれたあの難波であり、これは、そこから見た瀬戸内の景色を、島名入りで詠んだ天皇の歌によって証明されます。大坂からは見えない景色なのです。

では、裴世清一行は北九州を船出して讃岐へ入港したのか?
違います。実はもう一箇所(全国で2カ所)、四国に難波郷があるのです。
それは愛媛県です。




イメージ 4

古代の海岸線を復元(津としてちょうどよい入江になっていた事がわかる)

※以前はネット検索で全郷名を確認できるサイトがなかったので『倭名類聚抄』を買いましたが、現在こちらで確認できます。オススメ。


なぜ、2カ所の難波のうち、伊予国なのか?
風早郡難波郷は北九州の対岸であり、単純に小野妹子・裴世清一行の行程とマッチするからです。



隋書の記録では

秦王国に滞在後、十余国を経て、

ヤマトの海岸」に到着。

その10日後にヤマトの朝廷に呼ばれ、 

倭王に謁見したとあります。

日本書紀では、一行は遣隋使小野妹子とともに来日し、

6月15日、難波津に到着滞在、① 

8月3日になって、に入り、②

その10日後の8月12日、朝廷に呼んだ。

とあります。(数字は上の時系列の番号)

つまり、ヤマトの海岸到着」は「京師(の海岸)到着」であり、の「難波津」のことではない、ということです。


ほとんど全ての研究者は、この矛盾を無視しているのです。

つまり、「難波津」は隋書に記される「又經十餘國 達於海岸」の「海岸」ではないということ。
わかりやすく、日付のはっきりした動きだけを並べてみます。


 『隋書』 上 : 『日本書紀』 下

A
【又至竹斯國】             
【裴世清、筑紫に至る】(608年4月

B
【又東至秦王國
【客等、難波津に泊れり】(608年6月15日

C
【(京の)海岸に達す】
【唐の客、に入る】  (608年8月3日

D
後十日】、  【郊勞せしむ】(後十日。8月3日を含めば、8月12日
【八月十二日】 【朝庭に召して使の旨を奏さしむ】(608年8月12日


これだけ、隋書と日本書紀の動きが一致しているにも関わらず、みな、Bの「難波津」が、Cの「(ヤマトの)海岸」だと思い込んでいるのです。

Bの「難波津」が、Cの「海岸」のことだというなら、そこに(6月15日)~(8月3日)、50日もの誤差が生まれます。
全体の動きが一致しているのに、それはありえません。

そこで、考えてみてください。常識(?)では、この難波津を大阪とするわけです。
その場合、

B、難波津に到着後、そのさらに50日後に達した、C,京(ヤマト)の海岸、ってどこですか?

すぐ近くの和歌山あたりの海ですか?奈良に海岸はありません。

※ちょっと検索したところ、ここで書いているような隋書の情報との照合は無視して、裴世清を迎えた「海柘榴市」を難波(大坂)から大和川を遡った奈良県内のどこか、と解釈して納得しているようです隋書に照らした場合、裴世清は、川の上流を海岸と勘違いするほどの抜け作だったということになります


隋書』『日本書紀』双方の情報と『和名抄』の郷名から読み解くと、「秦王國」=「難波津」で、裴世清一行が倭王から迎えられたのは伊予の松山周辺。

ただし、「難波津」は、津(港)のことで「秦王國」そのものは、難波郷を含むもっと広範囲の地域だと思われます。
私は、現在の松山市今治市西条市秦王國に当たると想定しています。


イメージ 8

現在でも愛媛県下の秦姓密集地域

この一帯は伊予国式内社密集地域でもあり、西条市にいたっては「うちぬき」と呼ばれる地下水の自噴地帯です。
古代、都市が栄える条件は、一番に津(港)のある海岸でしょうが、人が住むには何をおいても水がなければなりませんから川があることも絶対必要条件です。
ところが、西条市に至っては現在でさえ、水道も不要なほどの地下水が噴き出しているのです。昔日の人々にとっては、これはまるで天国のような土地です。

古代のことを考えるときに「どこに住んでも水道と電気が来ている」という現代人の感覚を持ち込んではいけません。


(自噴井は約2000箇所、湧出量は一日あたり90000立方メートルに達する)
 
まさしく、徐福が辿り着き王となり定住したという『平原広沢』そのものではないでしょうか?背後には豊かな山、目の前は大きな湾と瀬戸内海、海の幸山の幸にあふれ、温泉が湧き、飲料水が湧き、気候温暖で夢の様な土地です。

また、『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する①③、に書いたように、上古、越人の一団が日本の何処かへ移住した可能性は極めて高いのですが、「越」の発音は、呉音ではオチ(ヲチ)です。伊予の最も歴史ある氏族である越智氏のルーツには諸説あるのですが、その本貫地が、まさしくこの一帯であることを考えると、関連を想起せずにはいられません。


さて、実は、次の隋書の一文が今回の核心です。

私は、初めて隋書のこの部分を目にした時、「あ!」と思ったのです。
そして即座にその光景が目に浮かびました。
今回書いた内容は、全てその「一言」から始まり、逆算して導き出したものです。
それは、
     又經十餘國 於海岸
     また十余国を経て、ついに海岸に達する

です。

裴世清一行は、秦王國を出た後、十余国を経て、「海岸に達した」のです。
そして、そこがヤマト(当時の)でした。

わかるでしょうか?
つまり一行は内陸を陸行しているのです。

考えてみてください。
中国から船に乗り朝鮮半島を経由して、北九州を過ぎ、瀬戸内海を抜け、最終目的地ヤマトの国の津に入港した時に、

 ついに海岸に達した。

などと表現しますか?

海路での最終到着地がここであったならば、途中、十余国に立ち寄った際も、船でそれぞれの津(海岸)に寄港したことになります。

それを「十余国を経たのち海岸に達する」と表現するなど、小学生の作文でもありえません。これは陸路を進んで目の前に海が開けたから「海岸に達した(出た)」と言っているのです。

では、別の視点で、上で解説した時系列は一切無視するとして、九州から中国地方のどこかにある秦王國を経由して、陸路、大阪の難波を目指し、到着したとします。

当然、右に瀬戸内海を眺めながら海岸沿いを東に進むことになります。
そして大坂に着いた時に、今さら「海岸に達す」などと表現しますか?

これは、海の見えない内陸を進み、最終的に海岸に出たからこその表現なのです。
海沿いに横へ進むのではなく、真っすぐ縦に進んだその先に海岸が横たわっていたのです。

裴世清が事前に得ていた自国史料での(その都ヤマトが在る)倭国の情報は「其國境 東西五月行 南北三月行 」です。
この中国正史上の情報に照らして「又經十餘國、」(“各至於海”の中の、一辺の海に出た)と言っているのです。


イメージ 5


そして、時系列に合わせ秦王國を伊予国の難波とした場合、現在の国道11号線から愛媛徳島県境の国道192号線に入り東進、左右に壁のようにそびえる山脈を眺めながら吉野川沿いを下流に進み(船で下った可能性大)、最終的にその河口、現在の徳島市が水没したかのような大徳島湾に出たのです。
この行程以外、隋書・日本書紀・和名抄全てに合致するルートはありません。
すなわち、「倭国」の「都」、

「邪靡堆」は吉野川河口付近。


イメージ 6


ここで、魏志倭人伝を思い出してください。
投馬国から女王国までは、水行でも陸行でも行けましたが、陸行の場合の行程は1ヶ月でした。

裴世清一行は、難波津で、まず歓待を受け、途中十余国に立ち寄り、帝都ヤマト海岸部での歓迎儀式の10日後トータル49日天皇に謁見しています。

日本書紀によれば、裴世清が帰国するときは、帝都から難波津まで20日です。十余国の立ち寄りは不要なので休憩以外はそそくさと進んだのでしょう。行程の内容によるが、片道20日~39日ですから、平均で1ヶ月です。

隋書によれば、裴世清が天皇に謁見した「邪靡堆」は、魏志倭人伝)の「邪馬臺」と同じ、ということですから、伊予国 (秦王国) 難波郷が投馬国ということになります。

裴世清が何故、水行ではなく陸行を選択したのか?は推測するしかありません。
元々、両用されるルートだったために魏志にもそう書かれているのでしょうし、
また、専門家によれば、古代、瀬戸内航路は未開発で、航行不能だったといいます。


瀬戸内海は、イメージ的には「内海」で、湖のような穏やかな海、という印象ですが、実際は真逆で、潮の流れが凄まじく、まるで急流の川を見るような海です。実際にその様子をNHKのドキュメント番組で見て、私も驚きました。
瀬戸内の部分的な航行や、釣り船のような小舟での航行ならいざしらず、大量の人と荷物を運ぶ大型船を数隻連ねての運行はリスクが高すぎたことでしょう。ましてや今回は皇帝の特使一行が同行しています。沈没しましたごめんなさい、では済みません。


イメージ 3

復元された遣唐使

第一、裴世清はスパイですから、情報収集のため、陸路を時間をかけて進む必要があります。
全ての目的を達したから、帰りは「さっさと帰らせろ」と自分から申し出たのです。

それにしても、小野妹子は流石大した人物ですね。
全てを分かっていて水面下でそれをコントロールしたのです。
外務省は小野妹子を神棚に祀るべきでしょう。




『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する③


イメージ 1


明年 上遣文林郎裴清使於倭國
度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中 
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 
其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也

翌(608)年、皇帝、文林郎、裴清を倭国に使わす。
百済を渡り、竹島に至り、南に𨈭羅国を望み、都斯麻国の遙か大海中に在るを經。

また東して一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。
その人、華夏に同じ。
以て夷洲と為すも疑いは明らかにすること能わざる也。



前回、隋の煬帝が、いかに倭王・阿輩雞彌からの国書に激怒したか、を書きましたが、その怒りは我々普通の現代日本人には想像もつかないでしょう。
少しでも想像するためには、隋以前の中国史、皇帝という存在の意味、朝貢の本質などを理解しなければなりません。

煬帝へ国書を届けたのは、遣隋使・小野妹子であり、この記録は『日本書紀』にも残されています。
それによれば、小野妹子一行が派遣されたのが、推古15年(607)7月です。

十五年秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。

有名なことですが、紀に隋ではなく大唐と書かれているのは日本側の間違いです。個人的には間違いというより故意だと思います。(唐の王朝が起こったのは10年後の618年)
今でも日本人は、かつて中国大陸に存在した様々な民族の様々な国家を一緒くたに平気で“中国”と言っているではありませんか。
隋を唐と呼ぶより遥かにひどい間違いです。唐は隋から皇帝を禅譲させて立てた国ですから尚の事、当時の慣例で“大唐”と一括りで呼んだのでしょう。


そして、翌608年、紀によれば、その年の4月、上記の裴世清(はいせいせい)一行とともに帰国します。
当時、日本から長安まで航路・陸路で片道どの程度の日数がかかったのか分かりませんが、何にせよ、煬帝の怒り収まらぬうちに裴世清は送り出されたことでしょう。

この裴世清については、身分や人物が不明で様々な推測がなされています。
何より文林郎という役職がよく分からないのです。
しかし、それも当然といえば当然、事のいきさつから見れば、どう考えても彼は隋のスパイでしょう。
それがピンとこないで普通の友好使節団団長くらいに思っているから日本人は平和ボケと言われるのです。煬帝が、いったいどれくらい怒り狂ったか、ということに、考えが及ばないから甘ちゃんなのです。

参考までに、煬帝の治世の一部を紹介しましょう。

即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して殺害。
弟の漢王楊諒の反乱鎮圧殺害。
質素を好んだ父文帝とは対照的に派手好み。
大土木事業を大々的に推し進め、100万余の男女が徴発されて労苦にあえぐ。
自身の行幸や首都の輸出入、軍の輸送などに人民を酷使。
長城の修築に100万余の男女を徴発し、過酷な労役で多くの死者を出す。
行幸を東西に繰り返し、国庫や民衆に多大な負担を負わせる。
諸国の朝貢使節を頻繁に招き、民衆に多大な災難を招いた。(610年
113万人の兵士を徴兵し高句麗遠征に大敗。(611年
4回目の高句麗遠征を計画するが遂に自軍の反乱に合う。
自ら軍を率いて北方の突厥鎮圧に向かうも撤退。
中国全土で反乱がピークに。(616年)
反乱鎮圧に殺戮政策をもって当たったが失敗。
諫言や提言する臣下を殺戮。
酒色にふける生活を送り臣下によって殺害される。(618年)
Wikipedia

このように、煬帝国史を代表する暴君とまで云われている人物です。
上の「諸国の朝貢使節を頻繁に招く」のが610年、この裴世清が帰国した翌年です。
611年には高句麗へ戦争を仕掛け、破滅の道を歩み始めます。

あの状況下で、煬帝が、気持よく小野妹子ら遣隋使一行を帰国させ、隋側からも返礼の友好特使を派遣するわけがないでしょう。

おそらく、日本が陸続きだったなら、まずは恭順の脅迫が、次に軍そのものが来ていますし、遣隋使の命も危うかったでしょう。それが普通の反応です。
海のはるか彼方では、少人数しか派遣できないので、武将ではなく智将を送ったのです。

しかも、倭に入った後の言動の記録を見れば、相当に肝の座った人物でなければ務まりません。知力、気力、体力、胆力、すべてを兼ね備えた適任者を選出したはずです。

任務は、当然、倭王の非礼を責めること。
倭国の実情(行程・地勢・軍事力・政治力・経済力・食料自給力・等々国力全般)を探ること。
早い話が、開戦可能か?どの程度の兵力が必要か?どのような作戦で攻めるべきか?戦費はどの程度になるか?、というようなことを検討するための材料を入手するのです。

当然、小野妹子は、煬帝の怒りも裴世清の送られた意味も全て了解済みです。
だからこそ、煬帝から天皇へ当てられた返書を、帰国前に処分して持ち帰らなかったのです。

爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。

於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑
天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。

罰を受けることは百も承知で、盗まれたことにした小野妹子
それを察し、重臣から言い渡された刑罰を即座に解いた天皇
戦国時代劇かスパイドラマのようなぎりぎりの駆け引きが繰り広げられていたのです。

特使がスパイなわけがない、と考えるのも世間知らずで、日本は現在でもスパイ天国と馬鹿にされますが、スパイの主体は主に大使館員です。

裴世清の連れた12人の随者も、当然目的にそって選びぬかれた人物たちでしょう。
隋の煬帝倭国に送り込んだスパイ裴世清は、

度百濟 行至竹島 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國

と、行程しますが、この秦王國が四国北西部だと私は考えています。(後述)
都斯麻國・一支國・竹斯國を通説通りだとすると、そこから「東至」は、北九州東岸地方か中国地方のどこか・四国のどこか、です。この時代のヤマトが九州にあると主張する人以外は、後者のどちらかと認めてもらえるでしょう。そしてその99%は中国地方だと言うでしょう。それが勘違いだということを次回で説明します。
九州を経て東に向かうのですから竹斯國の先も海路です。

そして、その先が秦王國だったのです。
その秦王國で、裴世清は腰が抜けるほどびっくり仰天しました。

もちろん、当然のこと倭国へ行くにあたって、裴世清は正史の類は全て目を通してきています。自国で知り得る限りの情報を詰め込んで来日しています。

その驚きの衝撃度が「華夏」という言葉に現れているのです。


リンク先では、「華夏」という言葉が中国人にとって、どれほどの意味を持つのか、詳しく解説しました。
この「華夏」を、ほとんどの人が、たんに「中国人」と訳して、それで終わりなのです。
れどころか、次の文の「夷洲」の文字を見て「野蛮な蛮夷の国だと聞いていたがそうではなかった」などと解釈する人がいますが大間違いです。

華夏に同じ。以て夷洲と為す」。「以て」は当然前文にかかります。
華夏から連想した夷洲、という意味が全く分かっていないのです。

中国大陸の歴史は、御存知の通り、飢えと殺戮の歴史です。
全人口が半分になったり、3分の1、6分の1になったりの増減を繰り返します。
もちろん、それらは戸籍で把握された人口であり、実際にはもっと生き残っていたでしょうが、大変な増減があったことは間違いありません。
このため、中国人自身が華夏と読んでいた人々さえ、極端な人口減少や多民族との混合で存在が薄れ、本来の華夏と呼べるような民族は、ほぼ滅亡したとも言える状況でした。

裴世清を派遣した煬帝(楊広)の父は、の初代皇帝・楊堅(ようけん)。
その父は、中国北部の遊牧騎馬民族鮮卑が建てた「北周」の大将軍・楊忠
楊忠の父は、同じく「鮮卑」が建てた「北魏」の将軍・楊禎
この楊氏は、後漢楊震の末裔称し、その先祖は前漢初期の楊喜と云われる。
その父祖まで遡り、彼らが中原の居住民であって、やっと正真正銘の「華夏なのです。

倭国で偶然出会った人たちを、そのような「華夏に同じ」と表現したことが、いかに凄いことか理解しなければなりません。
もちろん、華夏と自称する人たちは隋にもいたでしょう。
書物で華夏人たちの特徴や文化も知っていたことでしょう。
なんにせよ、裴世清にしてみれば、驚天動地の出会いだったのです。

例えば、もし、現代日本人がジャングルの奥地を探検していたら、突然日本人村が現れ、村を見渡すと鳥居が立っており、子どもたちはじゃんけんをして遊び、しかも村人の格好は、まるで平安貴族のようであり、試しに話しかけてみると公家言葉で返してきた、というような驚きなのです。

しかも日本では外国にそんな村があることを誰も知らない、という状況です。
想像を絶する驚きです。

そこで裴世清は脳みそをフル回転させます。三国志漢書後漢書論語礼記の東夷・九夷の記述、そして史記の徐福伝説
上古から、東海の彼方にある東夷の君子の国の話は語られてきましたが、具体的な移民の情報は徐福のものだけです。
史記には、徐福が始皇帝の許しを得て「蓬莱、方丈、瀛洲という名の三神山」へ向かったという記述がありますが、裴世清が呼び起こした記憶は後漢書だったようです。

又有夷洲及澶洲
伝言秦始皇遣方士徐福将童男女数千人入海求蓬莱神仙不得
徐福畏誅不敢還遂止此洲
世世相承有数万家
人民時至会稽市
会稽東冶県人有入海行遭風流移至澶洲者
所在絶遠不可往来
 
また、夷州(いしゅう)及び澶州(せんしゅう)がある。
言い伝えでは、秦の始皇帝は方士徐福を遣わし、童男童女数千人を引きつれ、
蓬萊の神仙を求め海に入ったがこれを得られなかった。
徐福は(罰を受け)殺されることを畏れ、あえて還らず遂にこの洲にとどまった
代々ともども受け継ぎ数万家を有する

人民はときどき會稽の市に来る。
会稽東冶の県人は海に入り行き、風に遭い流されて澶洲に至る者がある。
絶縁の所に在るゆえ往来はできない。

「その人、華夏に同じ。以て夷洲と為すも疑いは明らかにすること能わざる也」

ありえないことに華夏人と遭遇したために、この後漢書の一文を思い出し、
「もしかしたら、ここが、あの伝説の、徐福が向かったとされる“夷洲”なのか!?」
と考えたわけです。(澶洲は上記の記述内容から台湾と考えられています

当然、現地の人や遣隋使には、あらゆる角度から質問したことでしょう。
しかし、彼らの正体は分かりませんでした。
当人たちに先祖の記憶や伝承がなかったのか、とぼけられたのか、遣隋使に隠されたのか、あるいは正体をつきとめて隋朝へは報告したが、記録に残すことを禁止されたか、可能性はどれもがありえます。



又經十餘國 達於海岸 自竹斯國以東 皆附庸於倭
また十余国を経て、海岸に達す。竹斯国より東、みな倭に附庸す。
倭王遣小德阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎
後十日 又遣大禮哥多毗 從二百餘騎郊勞
既至彼都 其王與清相見 大悅 曰
「我聞海西有大隋 禮義之國 故遣朝貢
 我夷人 僻在海隅 不聞禮義
 是以稽留境内 不即相見
 今故清道飾館 以待大使
 冀聞大國惟新之化」
清答曰
「皇帝德並二儀 澤流四海 以王慕化 故遣行人來此宣諭」
既而引清就館 
其後清遣人謂其王曰
「朝命既達 請即戒塗」
於是設宴享 以遣清 復令使者隨清來貢方物
此後遂絶

倭王は、小德・阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。
後十日、大禮の哥多毗(かたひ)を遣わし、二百余騎を従え郊勞せしむ。
既にして彼の都に至るに、その王(倭王)、清(裴世清)と相見て、大いに悦び曰く、

我聞く、海西に大隋有り、礼儀の国なりと。故に遣わして朝貢せしむ。
 我は夷人にして、僻りて海隅に在り、礼儀を聞かず。
 是を以て境内に稽留し、即ち相見えず。
 今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待つ。
 願わくは大国惟新の化を聞かん」。

清、答えて曰く

「皇帝の德は二儀に並び、澤は四海に流る。
 王、化を慕うを以って、故に行人を遣わし、ここに来たり。宣べ諭さしむ」と。

既にして清を引いて館に就かしむ。
その後、清、人を遣わし、その王に謂いて曰く
「朝命は既に達せり、請う、即ち戒塗せよ」と。
ここに於いて、設宴を享け、以って清を遣わし、復た使者をして清に随いて来たりて方物を貢せしむ。
この後、遂に絶ゆ。


「阿輩雞彌」の訓みは、(おほきみ)=おおきみ、らしいのですが、
「阿輩臺」は何故か、(あほたい)とか(あへと)とか色々です。
まれに(あはだい)とか読む方もいらっしゃいます。

あへ)は「安倍」のことだという説です。
これは、ヤマトで裴世清を迎える役を仰せつかった四大夫(まえつきみ)の一人に「阿倍鳥(あべのとり)臣」がいるためです。つまり、「アヘト」は「アヘ(之)トリ」。
なるほど、これは十分傾聴に値する説です。厳密に検証すると別人物(後述)ですが、記憶(記録)違いということもありますからね。


イメージ 2

阿閉(安倍)氏は生粋の阿波氏族です


私は繰り返し「阿輩」(あは)=「阿波」説を提唱しておきます。
この「邪靡堆」は、魏志倭人伝いうところのの「邪馬臺」だと書かれています。
魏志には邪馬臺国の官吏が数人登場します。

支馬(いしま)(いきま)
彌馬升(みましょう)
彌馬獲支(みまかき)(ミマワキ)(ミマカシ)(ミマワシ)
奴佳鞮(なかて)

全部、阿波の主要地名じゃないですか。
地名を冠した官吏名じゃないでしょうか。○○市長、○○町長、みたいな、ね。
日本の場合、天皇家、古代氏族・豪族、地名を組み込んだ名前が多いのは御存知の通りです。

さて、最後にやっと都の位置探しです。




『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する②


イメージ 1


『隋書』倭国

倭國 在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王 
夷人不知里數 但計以日
其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
古云去 樂浪郡境 及帶方郡並一萬二千里 在會稽之東 與儋耳相近

倭国は、百済新羅の東南、水陸三千里に在り。大海中に於いて山島に依りて居る。
魏の時、中国に訳通すは三十余国。皆、自ら王と称す。
夷人は里数を知らず、ただ計るに日を以ってす。

その国境は東西五カ月の行、南北三カ月の行にして、各々海に至る
その地勢、東高西低
邪靡堆に都す。則ち、魏志謂うところの邪馬臺なるもの也。

古より云う。楽浪郡の境及び帯方郡を去ること一万二千里、会稽の東に在り。儋耳と相近し。


隋書以前の国史にも登場する倭国」の「都」の名は「邪靡堆」(やまと)で、これが魏志倭人伝)いうところの「邪馬臺」だということです。


漢光武時 遣使入朝 自稱大夫
安帝時 又遣使朝貢 謂之倭奴國
桓 靈之間 其國大亂 遞相攻伐 歴年無主
有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立為王
有男弟 佐卑彌理國 其王有侍婢千人
罕有見其面者 唯有男子二人給王飲食 通傳言語
其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 為法甚嚴
自魏至于齊 梁 代與中國相通
 
後漢光武帝の時(25-57年)、遣使、入朝し、自ら大夫と称す。
安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
桓帝霊帝の間(146-189年)、その国大いに乱れ、遞に相攻伐し、年歴るも、主無し。
女子有り。名は卑彌呼。能く鬼道を以て衆を惑わす。ここに於いて国人、共立し王と為す。
男弟有り、卑彌を佐けて国を理む。その王、侍婢千人有り。
その面を見たることある者罕なり。ただ男子二人のみ有りて、王に飲食を給し、言語を通伝す。
その王、宮室、楼観、城柵あり、皆兵を持ちて守衛し、法を為むること甚だ厳なり。
魏より斉・梁に至るまで、代々中国と相通ず。


中国正史は、まずそれ以前に書かれた正史その他を通読し、引用するのが定石です。
その後で、新しい情報を付記するのです。
この部分も、ほとんどが先の正史の引用であるのは一目瞭然ですが、書き誤りでない限り新しい情報も含まれています。

たとえば女王の名は「卑彌呼」ですが、そのあとで「卑彌」を助けて云々、とあります。
「卑彌呼」の訓み方は一般にヒミコですが、隋書の書き方が間違っていなければヒメかもしれません。
正確な訓みはまだ不明なんだそうです。

また、三国志では、卑彌呼に仕えた男子は一人ですが、隋書では二人になっています。
書き間違いか、別の情報源があったのか、三国志に記される男弟を加えて二人と書いたのか?不明です。
ここまでは、このように既出の情報が主たる内容ですが、いよいよここからが、隋書の面白いところです。


開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。
上令所司訪其風俗。
使者言倭王以天為兄、以日為弟、
天未明時出聽政、跏趺坐、
日出便停理務、云委我弟。
高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。
王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。

隋の開皇二十年(600)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を闕(けつ・王宮の門)に詣しむ。
上(文帝)、所司をしてその風俗を尋ねしむ。
使者言う、「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐す。
日出ずれば、すなわち理務を停め、我が弟に委ねんと云う」と。

高祖曰く「これはなはだ義理なし」。ここに於いて訓してこれを改めしむ。
王の妻雞彌(きみ・けみ)と号す。
後宮に女六~七百人あり。太子を名づけて利歌彌多弗利(りかみたふり)と為す。


倭王阿毎多利思比孤(天帯彦あるいは天足彦:あまたらしひこ)、号は阿輩雞彌(阿波王:あはきみ・けみ)、遣使を宮殿に詣らす。

何故か旧唐書では「あめ」と訓まれることの多い「阿毎」ですが、隋書では「あま」と訓むのが一般的です。なんだかな~ですね。「旧唐書に見る倭国」 に書いたように、これは「あま」か「あば」でしょう。
次に号の阿輩雞彌にも注意してください。

「阿波」の本来の発音が「あわ」ではなく「あは」であることは既に当ブログに書きました。
隋書は正確に「阿輩」と記しています。

一般的には御存知の通り「おおきみ」と訓んでいます。
どう訓めば、「阿輩」が「おほ」になるんですか

「あはきみ」だと解釈に困ってしまうが「おおきみ」だと納得しやすい、ということなんでしょう。
それが学問的態度ですか?
素人の歴史ファンならともかく学者諸氏はそれでいいんでしょうか?


イメージ 3

こういった、まともな本もあります

(中略)

風俗記事が長く続きますが略します。が、一か所突然に具体的な地名が出てくるので説明します。

阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行禱祭

阿蘇山あり、その石故無くして火起こり天に接することあり。
俗、以ってこれを異となし、因って禱祭を行う。


倭国には「阿蘇山」という火山があり、その噴火は凶兆だとして祈りを捧げる風俗が報告されています。これを持って、倭国肥後国=九州=邪馬台国、と断言する方がおられます。

当然といえば当然なんですが、中国正史に書かれる倭国」の見方が間違っています。今まで繰り返し書いたように「倭国」という特定の国はありません。

「倭」があり、その中に100以上の「国」があり、内30余国は中国と直接の繋がりがありました。
中国正史が「倭国」と書くとき、この「倭の国々」の「総称」として書く時と、そのうちの「一つの国」を指して書く時があります。
例えば、倭に属するA国も倭国ですし、B国も倭国なのです。
たまに、その個別国名を具体的に書くことも有ります。

『隋書』に限定して見ると、「倭國」は、「魏時」、「中國」と通じていた数「三十餘國」で、皆自ら「王」と称した。 「都於邪靡堆」と、ヤマトは「国」ではなく「都」として別扱いであり、つまり、倭国という時には「倭の国々」の「総体」で書いています。
「倭の国々」の中の「個体」としては「倭奴國」の名が登場します。

旧唐書にも「倭國者 古倭奴國也」の一文があります。
これで旧唐書の当該箇所で言う「倭国」は、倭の「総体」国ではなく「個体」国だとわかるのです。

その旧唐書中の「倭奴國」「其王・姓阿毎氏」ですから、隋書中の倭王・姓阿毎・字多利思比孤」の「倭王」とは「倭奴國王」ということになります。

国史が「倭国王」と書いていても「倭国全体の大王」のことなのか、「倭の中の一つの小国王」なのかは分からず、それは、このように文脈で判断するのです。

この隋書の「伝」は倭国伝」であって「倭奴國伝」ではありません。
従って、「風俗記事」に書かれるのは当然倭国全体の風俗」なのです。
そして、その「倭の国々」の中には、当然、九州にあった国々も含まれるのであり、阿蘇山が出てきても何の不思議もないのです。

これが「倭奴國に阿蘇山がある」とか「邪靡堆に阿蘇山がある」と書かれていれば大変なことです。
どの史書にもないレベルで、ピンポイントで、当時の倭の国々をまとめる大王が都していた首都国の所在地が判明するからです。


新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。

新羅百済は皆、倭を以って、大国にして珍物多しと為し、並にこれを敬仰して、常に通使往来す。

大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢
使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」
其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。
帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
 
大業三年(607年)、その王、多利思比孤、使いを遣して朝貢せしむ。
使者曰く「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来たりて仏法を学ばしむ」と。

その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。
帝(煬帝・604年8月21日 - 618年4月11日)、これを見て悦ばず。
鴻臚卿(こうろけい・外務大臣)に謂いて曰く

蛮夷の書、無礼なる者有り。復た以って聞することなかれ!

と。


イメージ 2

怒怒怒ぬぬ・・・・牟牟牟むむ・・・・・尾、尾野礼、阿波気美戸屋良・・・

阿輩雞彌(あわきみ)は、続けて大業三年(607年)、使者を隋に送ったが、その時の国書が有名な「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々です。
これに対し、隋の煬帝は「蛮夷の書に無礼あり。二度と奏上するなかれ」と激怒しました。
 
過去記事でも中国の朝貢制度の本質について書きましたが、それからすると全く許しがたい国書だったわけです。煬帝は皇帝としての顔を潰された思いで怒りに打ち震えたのでした。

一体何が「皇帝としての煬帝」を否定することになったのかといえば、それは「天子」の文言です。

中国の観念では、まず「」という存在があり、その「天の意思」が、「地上の支配者」となる者を選びます。これが「天命」であり、選ばれた者が「天子」です。政治的には、この天子が「皇帝」を名乗ります。

天が天子を選出する基準は、その人物の「」です。
朝貢という儀式は、この「天子の徳」を人民に証明するための一大政治ショーであり、「皇帝の徳が高ければ高いほど、その徳を慕って、より遠方の国から進貢が行われる」とされました。

したがって、その「進貢者自身が天子を名乗る」などということは、中国側から見れば、全くありえない、朝貢そのものと皇帝の存在の全否定なのです。



中国大陸の国家の歴史は、常に、この「天子の存在」をかけて血で血を洗う争いの歴史でした。なぜなら、

天子は地上にただ一人の存在

だからです。

有名な「三国志」は、同時代に三人の皇帝(天子)が即位した、という戦国時代のヒストリーです。天子を自称するのは自由、後はそれを実力で証明するのです。

そういった激烈な歴史の中で皇帝を名乗っている人物に、海の向こうの小国の王が「私も天子である」と名乗ったのです。これは同じ大陸内であれば、宣戦布告そのものです。

倭国側も対等の関係を示すに最も適切な単語として選んだのですが、そういった観念まで理解した上で「天子」を使ったのかどうかは不明です。
知った上でのことならば、意図的にかなり危ない橋を渡ったことになります。


(続く)