阿波の古代について調べていると、いろいろ分かってくることがあります。
まず一つには、古代の阿波人はあまり定住していないのではないか?ということがあります。
もちろん、すべての人間が、ではなく、移住先でも支配層になれるような技能集団だと思われます。
忌部を見ても海人族を見てもそうです。
まず一つには、古代の阿波人はあまり定住していないのではないか?ということがあります。
もちろん、すべての人間が、ではなく、移住先でも支配層になれるような技能集団だと思われます。
忌部を見ても海人族を見てもそうです。
現代の常識や感覚は捨てて考えなければいけません。
王の宮といっても、二千年近くも昔の話です。大家族で住むような構造や規模ではなかったでしょう。
また記紀を見ても、一夫多妻制です。魏志倭人伝の記述とも一致します。
王子たちは家を出て、また、次の妃を求めて移動を繰り返し、やがて気に入った場所を見つけて宮を造り腰を落ち着けたのではないでしょうか?
王の宮といっても、二千年近くも昔の話です。大家族で住むような構造や規模ではなかったでしょう。
また記紀を見ても、一夫多妻制です。魏志倭人伝の記述とも一致します。
王子たちは家を出て、また、次の妃を求めて移動を繰り返し、やがて気に入った場所を見つけて宮を造り腰を落ち着けたのではないでしょうか?
人口についても同様です。
『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏)によれば、日本の人口は、縄文時代で約10万人~約26万人、弥生時代でも約60万人であったといいます。
奈良時代に約450万人、平安時代(900年)に約550万人、慶長時代(1600年)には約1,220万人、18世紀には3,100万人から3,300万人になったと推定しています。
『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏)によれば、日本の人口は、縄文時代で約10万人~約26万人、弥生時代でも約60万人であったといいます。
奈良時代に約450万人、平安時代(900年)に約550万人、慶長時代(1600年)には約1,220万人、18世紀には3,100万人から3,300万人になったと推定しています。
四国全体に、現在の田舎の小さな市程度の人口しかいなかったわけです。
(私の市の人口が3万人、徳島市の人口が26万人)
鬼頭説がどこまで正しいかは別にしても、相当人口が少なかったことは確かでしょう。
ところどころに集落がある程度で、ほとんどの土地は未開の荒野だったはずです。
(私の市の人口が3万人、徳島市の人口が26万人)
鬼頭説がどこまで正しいかは別にしても、相当人口が少なかったことは確かでしょう。
ところどころに集落がある程度で、ほとんどの土地は未開の荒野だったはずです。
徳島県内だけを見渡しても、同じ地名が数多く見られるのです。
特に目立つのが「加茂」「喜来」「日浦」の地名で、県下全域に広がっています。
他にも「須賀」や「鍵掛」など複数の地域で見られる地名がいくつかあります。
とても偶然に重なったとは思えず、私は移住した古代の阿波人たちがその先々で出身地の名をつけたのでは?と考えています。
特に目立つのが「加茂」「喜来」「日浦」の地名で、県下全域に広がっています。
他にも「須賀」や「鍵掛」など複数の地域で見られる地名がいくつかあります。
とても偶然に重なったとは思えず、私は移住した古代の阿波人たちがその先々で出身地の名をつけたのでは?と考えています。
私は、古代の阿波国の正しい歴史がわからなくなったのは、自然に分からなくなった部分と隠された部分があるのではないか?
と以前書いたのですが、邪馬台国四国山上説の大杉博氏は、全て朝廷による秘密政策によって隠されたとしています。
その根拠で一番「う~ん」と唸ったのは、「太政官道」のことですが、面白いので別の機会に紹介します。
と以前書いたのですが、邪馬台国四国山上説の大杉博氏は、全て朝廷による秘密政策によって隠されたとしています。
その根拠で一番「う~ん」と唸ったのは、「太政官道」のことですが、面白いので別の機会に紹介します。
しかし、上記のような阿波人の習性を見るならば、後からそれを利用したと考えるほうが自然です。
いきなり話が脱線しましたが、私が(どこかで聞いたなぁ)と気になっていた 「船岡山」 を大分時間がたってから思い出しました。
『出雲国風土記』大原郡 | 船岡山 | の条 |
船岡山。郡家東北一里一百歩。 |
阿波枳閉委奈佐比古命。曳來船則化是也。故云船岡。 |
阿波枳閉(あわきへ)委奈佐比古(わなさひこの)命の曳き来居(きす)ゑましし船、
すなわち此(こ)の山是(こ)れなり。故に、船岡という。
阿波から出雲の山へ来た「委奈佐比古命」の船にちなんで「船岡(山)」と名付けられたというのです。
讃岐の「船岡山」の地に移住したという倭迹々日百襲姫が、最初に住まいした「水主」と、阿波の「那賀」「海部」との古代からの不思議なつながりについても紹介したばかりです。
神社御由緒には、「命は往古この山を中心に“粟”を主とした農耕の道をお開きになったので後命の遺徳を偲び奉り祖神として奉司とした」とあります。
国々の神部(カムベ)の乞食(こつじき)流離の生活が、神を諸方へ持ち搬(はこ)んだ。
これをてっとりばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこなる社の名である。
阿波から来経(キヘ)――移り来て住みつい――たことを言うのだから。
これをてっとりばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこなる社の名である。
阿波から来経(キヘ)――移り来て住みつい――たことを言うのだから。
養い神を携えあるいたわなさの神部は、みぬま・わなさ関係の物語の語りてでもあった。
わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁・媼ときまるのは、もっともである。
論理の単純を欲すれば、
わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁・媼ときまるのは、もっともである。
論理の単純を欲すれば、
比沼・奈具の神も、
外宮の神だとも言えよう。
阿波から持ち越されたおほげつひめであり、とようかのめであり、 |
と書いてます。
また、『唱導文芸序説』には、
また、『唱導文芸序説』には、
又譬へば、丹後風土記逸文に見えた、八処女起原説明古伝とも言ふべき、天ノ真名井の羽衣物語である。
記述では、わなさ翁は、薄情な人間悪の初まりを見た様に説かれてゐるが、此物語の彼方に見えるものは、
わなさ翁なる神人にして、遂に神と斎かれたものが、元ひな神の抱き守りだつた俤を持つてゐることである。
記述では、わなさ翁は、薄情な人間悪の初まりを見た様に説かれてゐるが、此物語の彼方に見えるものは、
わなさ翁なる神人にして、遂に神と斎かれたものが、元ひな神の抱き守りだつた俤を持つてゐることである。
「阿波来経(アハキヘ)わなさ彦」と言ふ出雲風土記に見えた神は、尠くとも出雲国だけで言へば、
を将来した神人の神格化したものである。
ある古代に阿波の美馬(ミルメ)から、此亦出雲に斎かれた社の多い「みぬま」の女神 |
此「みぬま」の女神の、信仰の中心となつたものは、
天真名井に行はれた以来の行法と信ぜられた禊ぎである。
此が亦宮廷の神及び主上に伺候する丹波の八処女の起原であると共に、丹後風土記には、
みぬま――風土記的には、ひぬま――の女神自身、 禊ぎをした事の様に伝へられてゐる。
わなさ神人の手で育まれたひな神、長じて家を放たれ、漂浪して遂に道に斃死し、
其が復活転生して威力ある米の神――飯及び酒の神――となる。
天真名井に行はれた以来の行法と信ぜられた禊ぎである。
此が亦宮廷の神及び主上に伺候する丹波の八処女の起原であると共に、丹後風土記には、
みぬま――風土記的には、ひぬま――の女神自身、 禊ぎをした事の様に伝へられてゐる。
わなさ神人の手で育まれたひな神、長じて家を放たれ、漂浪して遂に道に斃死し、
其が復活転生して威力ある米の神――飯及び酒の神――となる。
とあります。
郡家の西北の隅の比治の里にある比治山の頂に井があり、眞奈井という。
この井で天女八人が水浴していた。
この井で天女八人が水浴していた。
和奈佐老夫と和奈佐老婦は、ひそかに天女の一人の衣装を隠して帰れなくし
「我らが児に為れ」といった。
「我らが児に為れ」といった。
天女は許して老夫婦と相住むこと十余年、その間、万病に効用のある酒を醸した。
この天女とは、竹野郡奈具社に坐す 豊宇賀能賣命である。
さて、その丹後には 元伊勢 と呼ばれる神社が鎮座します。
『止由気宮儀式帳』(804)に、雄略天皇が天照坐皇太神の夢託を蒙り、御饌都神(みけつかみ)として等由気太神(豊受大神)を丹波国から伊勢に迎えたのが外宮であると記され、その元伊勢が、「元伊勢外宮豊受大神社」であるといいます。