空と風

旧(Yahoo!ブログ)移設版

船岡山の謎 ②

阿波の古代について調べていると、いろいろ分かってくることがあります。
まず一つには、古代の阿波人はあまり定住していないのではないか?ということがあります。
もちろん、すべての人間が、ではなく、移住先でも支配層になれるような技能集団だと思われます。
忌部を見ても海人族を見てもそうです。

そう考えると、記紀に登場する神々や天皇も同様であることに気付きます。
○○宮、□□宮、と住まわれる地域ごと移動されます。

現代の常識や感覚は捨てて考えなければいけません。
王の宮といっても、二千年近くも昔の話です。大家族で住むような構造や規模ではなかったでしょう。
また記紀を見ても、一夫多妻制です。魏志倭人伝の記述とも一致します。
王子たちは家を出て、また、次の妃を求めて移動を繰り返し、やがて気に入った場所を見つけて宮を造り腰を落ち着けたのではないでしょうか?

人口についても同様です。
『人口から読む日本の歴史』(鬼頭宏)によれば、日本の人口は、縄文時代で約10万人~約26万人、弥生時代でも約60万人であったといいます。
奈良時代に約450万人、平安時代(900年)に約550万人、慶長時代(1600年)には約1,220万人、18世紀には3,100万人から3,300万人になったと推定しています。

地域別にみると、弥生時代の四国の人口は約3万人。奈良~平安時代で約30万人です。


四国全体に、現在の田舎の小さな市程度の人口しかいなかったわけです。
(私の市の人口が3万人、徳島市の人口が26万人)
鬼頭説がどこまで正しいかは別にしても、相当人口が少なかったことは確かでしょう。
ところどころに集落がある程度で、ほとんどの土地は未開の荒野だったはずです。


徳島県内だけを見渡しても、同じ地名が数多く見られるのです。
特に目立つのが「加茂」「喜来」「日浦」の地名で、県下全域に広がっています。
他にも「須賀」や「鍵掛」など複数の地域で見られる地名がいくつかあります。
とても偶然に重なったとは思えず、私は移住した古代の阿波人たちがその先々で出身地の名をつけたのでは?と考えています。

それが阿波人の習性のひとつだったのでしょう。阿波国を出ても、忌部氏は房総をを「あわ」と名付け、
長の国人は、各地に「長」「那賀」「那珂」の地名を広めているからです。

私は、古代の阿波国の正しい歴史がわからなくなったのは、自然に分からなくなった部分と隠された部分があるのではないか?
と以前書いたのですが、邪馬台国四国山上説の大杉博氏は、全て朝廷による秘密政策によって隠されたとしています。
その根拠で一番「う~ん」と唸ったのは、「太政官道」のことですが、面白いので別の機会に紹介します。

しかし、上記のような阿波人の習性を見るならば、後からそれを利用したと考えるほうが自然です。



いきなり話が脱線しましたが、私が(どこかで聞いたなぁ)と気になっていた 「船岡山」 を大分時間がたってから思い出しました。

出雲国風土記』大原郡 船岡山 の条

船岡山。郡家東北一里一百歩。
阿波枳閉委奈佐比古命。曳來船則化是也。故云船岡。

阿波枳閉(あわきへ)委奈佐比古(わなさひこの)命の曳き来居(きす)ゑましし船、
すなわち此(こ)の山是(こ)れなり。故に、船岡という。

阿波から出雲の山へ来た「委奈佐比古命」の船にちなんで「船岡(山)」と名付けられたというのです。



この出雲の委奈佐比古命のルーツの地が、
阿波國の 那賀郡 海部郷 であることは以前紹介しました。

延喜式式内社 和奈佐意富曾神社 海部郡

讃岐の「船岡山」の地に移住したという倭迹々日百襲姫が、最初に住まいした「水主」と、阿波の「那賀」「海部」との古代からの不思議なつながりについても紹介したばかりです。


ますます、「船岡山」と「委奈佐比古」と「阿波国海部郷」の深いつながりが浮かび上がってきました。



島根県大原郡の船岡山の上には「船林神社」があり、御祭神が阿波枳閇倭奈佐比古命です。

神社御由緒には、「命は往古この山を中心に“粟”を主とした農耕の道をお開きになったので後命の遺徳を偲び奉り祖神として奉司とした」とあります。

この船岡山の下にを流れる川は「須賀川」です。

また、雲南市加茂町」南加茂に鎮座する「貴船神社」の御祭神もまた、阿波枳閇倭奈佐比古命となっています。



折口信夫 は『水の女』で、

 国々の神部(カムベ)の乞食(こつじき)流離の生活が、神を諸方へ持ち搬(はこ)んだ。
 これをてっとりばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこなる社の名である。
 阿波から来経(キヘ)――移り来て住みつい――たことを言うのだから。

 前に述べかけた阿波のわなさおほそは、出雲に来経たわなさひこであり、
 丹波のわなさ翁・媼も、同様みぬまの信仰と、物語とを撒(ま)いて廻った神部の総名であったに違いない。

 養い神を携えあるいたわなさの神部は、みぬま・わなさ関係の物語の語りてでもあった。
 わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁・媼ときまるのは、もっともである。
 論理の単純を欲すれば、

 比沼・奈具の神も、
 阿波から持ち越されたおほげつひめであり、とようかのめであり、
 外宮の神だとも言えよう。

と書いてます。
また、『唱導文芸序説』には、

 又譬へば、丹後風土記逸文に見えた、八処女起原説明古伝とも言ふべき、天ノ真名井の羽衣物語である。
 記述では、わなさ翁は、薄情な人間悪の初まりを見た様に説かれてゐるが、此物語の彼方に見えるものは、
 わなさ翁なる神人にして、遂に神と斎かれたものが、元ひな神の抱き守りだつた俤を持つてゐることである。

 「阿波来経(アハキヘ)わなさ彦」と言ふ出雲風土記に見えた神は、尠くとも出雲国だけで言へば、
 ある古代に阿波の美馬(ミルメ)から、此亦出雲に斎かれた社の多い「みぬま」の女神
 を将来した神人の神格化したものである。

 此「みぬま」の女神の、信仰の中心となつたものは、
 天真名井に行はれた以来の行法と信ぜられた禊ぎである。
 
 此が亦宮廷の神及び主上に伺候する丹波の八処女の起原であると共に、丹後風土記には、
 みぬま――風土記的には、ひぬま――の女神自身、 禊ぎをした事の様に伝へられてゐる。
 わなさ神人の手で育まれたひな神、長じて家を放たれ、漂浪して遂に道に斃死し、
 其が復活転生して威力ある米の神――飯及び酒の神――となる。

とあります。

「丹後風土記逸文に見えた、八処女起原説明古伝とも言ふべき、天ノ真名井の羽衣物語」
とは、要約すると次のようなものです。

 奈具社(なぐのやしろ)。丹後国丹波郡。

 郡家の西北の隅の比治の里にある比治山の頂に井があり、眞奈井という。
 この井で天女八人が水浴していた。

 和奈佐老夫と和奈佐老婦は、ひそかに天女の一人の衣装を隠して帰れなくし
 「我らが児に為れ」といった。

 天女は許して老夫婦と相住むこと十余年、その間、万病に効用のある酒を醸した。

 老夫婦は家が豊かになると、天女に家を出ていくように言った。
 天女は比治の荒塩の村へ行ったのち、竹野郡船木の里の奈具村に留まった。

 この天女とは、竹野郡奈具社に坐す 豊宇賀能賣命である。



折口信夫は、このように、出雲(島根)国風土記に登場する「倭奈佐比古命」も、丹後(京都北部)国風土記の「比沼真奈井の神話」に登場する「和奈佐翁」もルーツは、阿波の神人であるとしています。


さて、その丹後には 元伊勢 と呼ばれる神社が鎮座します。

三重県伊勢神宮と同様、天照大神を祭る内宮、豊受大神を祭る外宮、それぞれの「元伊勢」を称する神社が数社あります。

『止由気宮儀式帳』(804)に、雄略天皇が天照坐皇太神の夢託を蒙り、御饌都神(みけつかみ)として等由気太神(豊受大神)を丹波国から伊勢に迎えたのが外宮であると記され、その元伊勢が、「元伊勢外宮豊受大神社」であるといいます。


その元伊勢外宮豊受大神社の鎮座地住所は、なんと、
福知山市大江町字天田内 船岡山 です。

この船岡山は、巨大古墳(200m級)ではないか?とも云われています。

主祭神は「豊受大神」です。

上の丹後風土記逸文にある比沼真奈井の物語の主人公です。
折口信夫の文章にもある通り、一般に豊受大神は、食物神として、大宜都比売(おおげつひめ)と同神とされます。

古事記では、国産みにおいて、伊予之二名島(四国)の、「阿波国の名称」として初めて登場する神名です。


他に、元伊勢として非常に有名な神社が「籠神社」(宮津市字大垣)ですが、その宮司家は「海部」氏です。
またまた、 「海部」 のキーワードが出てきました。

(続く)