吉野川市川島町にある「伊加加志神社」は、元地は別ですが、現在は山の麓に鎮座しています。
以前一度、近くを通ったときに訪れようとしましたが、地図を持っておらず、うろ覚えの記憶を頼りに探したものの、すぐ近くを通過したにもかかわらず場所が分からず断念したのです。
以前一度、近くを通ったときに訪れようとしましたが、地図を持っておらず、うろ覚えの記憶を頼りに探したものの、すぐ近くを通過したにもかかわらず場所が分からず断念したのです。
今日、R192を走っていると、今まで一度も引っかかったことの無い信号で停止しました。
そこは「忌部神社」入り口の案内板が立っている交差点でした。
その後しばらく走ると、また赤信号で停止しましたが、そこは「伊加加志神社」へ向かう交差点でした。
これは「来なさい」という忌部のメッセージ(?)であると思いました。
そこは「忌部神社」入り口の案内板が立っている交差点でした。
その後しばらく走ると、また赤信号で停止しましたが、そこは「伊加加志神社」へ向かう交差点でした。
これは「来なさい」という忌部のメッセージ(?)であると思いました。
先に所用を済ませ、いざ向かおうと建物の外に出ると、どしゃ降りの雨でした。
今日は止めようかと思いつつ、場所の確認だけでもしておこうかと、神社の方向へ車を向けました。
今日は止めようかと思いつつ、場所の確認だけでもしておこうかと、神社の方向へ車を向けました。
雨が上がった後の写真。真ん中の屋根が長楽寺 |
近くまで来ても、本当にどこにあるのか分かりません。
地図で、長楽寺というお寺の隣にあることを確認していたので、その寺を探し、その大屋根を目指して坂道を登ると、お寺の脇道から、後方の山の斜面に木々に蔽われた鳥居と上に伸びる石段が見えました。
一見して、古い歴史を感じさせるたたずまいです。
その時点で、まだ小雨が降っていましたが、車を降りて石段を上りました。
石段は“昔サイズ”で、非常に小股で上る感じになり、かえって疲れを感じます。
とても厳粛な雰囲気がします。
ただし、手入れは行き届いておらず、年間行事の日以外は参拝者も少ないのではないかと思われます。
そもそも式内社とはいえ、徳島県人であっても、この神社を知っている人は、町民以外ではほとんどいないのではないでしょうか?
しかしながら、この社は、平安時代より朝廷から「大明神」の称号を受ける式内社なのです。
昔は神社の東西に「下乗」と書かれた立て札が立ち、
「どんなに身分の高い者でも、この社の前を通る際には馬を下りて歩かねばならなかった」
というほどの社格なのでした。
御祭神は、
伊加賀色許賣命 伊加賀色許雄命
伊加賀色許賣命の俗称は「日命」。
この神社は、明治までは「日命(ひのみこと)大明神」とも呼ばれていました。
この神社は、明治までは「日命(ひのみこと)大明神」とも呼ばれていました。
「日命」の元の『呼び名』(音)は?
「ヒミコ」とも考えられます。
「ヒミコ」とも考えられます。
この「伊加加志神社」はまた、「忌部神社」の八摂社のひとつであり、伊加賀色許賣命の母(または娘)とされる「大麻綜杵命」が、隣町の鴨島町「御所神社」に祀られていることなどから、伊加賀色許賣命は「阿波忌部」の女性であると考えられます。
淡路島と四国です。
「国生み」を神話の世界の「天地創造」のように見て、そこに登場する神々だけを「実在の人物がモデル」と考えるから無理が出ます。
国生み“も”実話のデフォルメと考えたほうが筋が通るでしょう。
つまり、「国生み」は天津族の支配地の拡大の順序と範囲を表しているのです。
国生み“も”実話のデフォルメと考えたほうが筋が通るでしょう。
つまり、「国生み」は天津族の支配地の拡大の順序と範囲を表しているのです。
この神社は、その天津族のルーツと徳島を結びつける説の、重要な物証のひとつであると言えるでしょう。
さらに詳しくは、次回「徳島の神社」に書きます。
参拝を終えて帰る頃には、雨もすっかり上がり、晴れ間がちらほら。