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鳥の一族 9 賀茂(葵)祭

 
 
 
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今回も安直に、wikipedia、神社ホームページ等の引用(抜粋)から記事を進めたいと思います。
 
 
葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)は、京都市賀茂御祖神社下鴨神社)と賀茂別雷神社上賀茂神社)で、5月15日(陰暦四月の中の酉の日)に行なわれる例祭。
石清水祭、春日祭と共に三勅祭の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。
斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。
 
「斎王」(さいおう)とは、賀茂神社に御杖代として仕えるために皇室から差し出された内親王・女王のこと。
 
 
当神社がまつられたのは、崇神天皇の七年(BC九十)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。
先年糺の森周辺の発掘調査で弥生時代の住居跡や土器がたくさん発掘され、それを裏付けています。
また社伝や歴史書に、お祭、社殿、ご神宝等の奉納などが記録されています。
続日本紀』の文武天皇二年(六九八)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があります。
このことから、奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。 
 
平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、別項に記します式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことがしられます。
 
 
 
賀茂祭は祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで二葉葵を桂の小枝に挿し飾ることから、広く一般には「葵祭」として知られる祭です。
 
賀茂祭の起源及び変遷
 
その起源は太古別雷神(わけいかづちのかみ)が現社殿北北西にある神山(こうやま)に御降臨された際、御神託により奥山の賢木(さかき)を取り阿礼(あれ)に立て、種々の綵色(いろあや)を飾り、走馬を行い、葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)を装って祭を行ったのが当神社の祭祀の始めであります。
 
時を経て6世紀欽明天皇の御代、日本国中が風水害に見舞われ国民の窮状が甚だしかったため、勅命により卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせられたところ、賀茂大神の祟りであると奏したことにより、4月吉日を選び馬に鈴を懸け、人は猪頭(いのがしら)をかむり駆馳(くち)して盛大に祭りを行わせた事が賀茂祭の起こりであると『賀茂縁起』に記されています。
 
後、奈良時代元明天皇和銅4年(711)4月に賀茂祭の日には国司(現在の知事)が毎年親しく祭場に臨んで祭が無事執り行われているか検察せよと勅せられました。
平安時代に至り、平城天皇大同2年(807)四月には勅祭(勅命により行われる祭祀)として賀茂祭が始められ、次いで嵯峨天皇弘仁元年(810)伊勢の神宮斎宮の制に準ぜられ、賀茂の神に御杖代(みつえしろ)として斎院(斎王)を奉られ、祭に奉仕させられました。
 
続く弘仁10年(819)3月16日には賀茂祭を中祀に準じ斎行せよとの勅が下され、当時の神社に対する祭の最も重い御取扱いを受けました。
中祀とは伊勢の神宮賀茂社より他には見られませんでした。
 
祭日も古来4月吉日(第2の酉の日)とされていましたが、明治維新以後新暦の5月15日と改められ現在に及んでいます。
 

※賀茂斎院の制
 
宮中では古来神への崇敬の念を表す行為の一つとして、未婚の皇女を神の御杖代として差し遣わされる例がありま した。この皇女は「斎王」と称し祭事に御奉仕されました。
その例は初め伊勢の神宮に、次いで賀茂の大神に奉られただけであります。

如何に賀茂の大神への御崇敬の念が厚かったかが偲ばれます。
賀茂に於いては弘仁元年(810)4月に嵯峨天皇の勅願により、伊勢に倣って第8皇女有智子(うちこ)内親王を奉られたのが賀茂斎院の制の始めであります。
此を定められた事により伊勢を「斎宮」、賀茂を「斎院」として区別されるようになりました。
 
斎王が卜定されると参議以上の殿上人を勅使として差し遣わされ、賀茂両社に事の由を奉告されます。
次に御所内の一所を卜(ぼく)して初斎院(しょさいいん)と云われる居所を設けられ、3年間日々潔斎し毎月朔日(ついたち)には賀茂の大神を遥拝する生活を送られました。
 
3年を経て4月上旬(旧暦)吉日に野宮(ののみや・愛宕郡紫野に設けられたので「紫野院(むらさきのいん)」ともいわれました)の院に入られ、賀茂川にて御禊を行った後初めて祭事の奉仕が許されました。
この院は、現在の京都市上京区大宮通盧山寺西北社横町の「櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)」あたりの一画(約150m四方)にあったと推定され、内院と外院からなる二重構造で、内院には斎王の寝殿や賀茂両社の神を祀る神殿等があり、外院には事務等を担当する斎院司や蔵人所が置かれ、長官以下官人、内侍、女嬬等が仕えておりました。
 
(以上)
 
皇室が、賀茂の神をいかに崇敬していたか、よくわかります。

平安京においても都の守護神とされましたが、御所の北に下鴨・上賀茂神社、鬼門である北東の比叡山と南西の松尾に大山咋神を祀り、万全を期しているように見えます。
神社ですから当然祭祀は行われてきましたが、注視していただきたいのは「賀茂祭」と呼ばれるものの始まるきっかけです。
 
それは、祟(たたり) なのです。
 
記紀を見ればわかるように、古代において、祟りというものがあるというのは常識だったのです。
現代人の「迷信」だとか、人によって「あるかもしれない」と考えるような曖昧なものではなく、それは確信でした。
 
この「祟り」が厳然としてあるもの、と考えるとき、それには「必然」、すなわち「理由」があるのです。
それを知るために、必ず占いを行い、「誰が」「何のために」祟っているのか、「どうして欲しいのか」を訊き出しました。
 
また、これが「思い込み」だと考えるときには、それには「心当たり」があるのです。
一番わかりやすいのは、菅原道真の例です。
 
宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。
しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。
死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。
現在は学問の神として親しまれる。 (wikipedia
 
 
つまり、祟られる側に何かしら後ろめたい事実があった時に、そのせいで祟られる と思ってしまうわけです。
 
記紀を振り返って、真っ先に思い出されるのは、大物主神
つまり、大国主命とその血族による祟りが一番多く記されます。
 

賀茂祭は、「祟り鎮め」としてスタートしたのです。
さらに後には、伊勢神宮と並んで、斎王(さいおう、いつきのみこ)制度を設けました。
 

分かるでしょうか?
 
 祟り
 
 伊勢神宮
 
 斎王
 
この賀茂祭を、賀茂の祭りだと思い込んでいるから(いや、賀茂の祭りなのですが)、分からないのです。
これは、賀茂で初めて起こった「祀り」ではないのです。
 
 

崇神天皇の治世五年、疫病が流行し、紀によれば「大半」、記によれば「人民死爲盡」(死に尽きなむとす)と表現されるほどの死亡者がでた。
その翌年、人民の心は荒み、反逆する者まで現れた。
その勢いは治まらず、天皇は朝夕天神地祗に祈った。
 
これ以前、天照大神倭大国魂神、二柱の神を宮中に祀っていたが、この神々の勢を畏れ、
天皇は皇女、豊鍬入姫命に命じ、天照大神を 倭の笠縫邑に祀った。
また、皇女、渟名城入姫命に命じ、倭大国魂神を祀らせた。
 

ここで崇神天皇は、祟りを鎮めるために、二柱の神を別々に祀り、それぞれ皇女を祝主としました。
これが「斎王」の始まり なのです。

斎王が祀ったのは、天照大神と、倭大国魂神、です。
倭大国魂神とは、大国主命なのです。
今まで見てきたように、天日鷲命大国主命賀茂建角身命、です。
 
そうです。賀茂祭は、崇神天皇にならい、その祀りを復活させたものなのです。
 
賀茂祭は、かつて、旧暦4月の、酉(とり)の日 に行われました。
 
なぜ、伊勢と賀茂だけが特別視 され、皇女を祝 とするか、よく分かるでしょう。
 
 
倭大国魂神を祀る式内社は、全国で、阿波国美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座 の一社のみです。
 
ところで、神社資料としても権威高い『三輪叢書』は、この延喜式神名帳にもそう記される阿波国倭大國玉神大國敷神社を、勝手に「大倭神社」などと書いています。
この社名の式内社の存在を受け入れがたかったのかもしれませんが、神職としてあるまじき行為と言えるでしょう。
 
 
以上、賀茂祭の開始、すなわち崇神天皇の神祀りの復活は、公にしないまでも、
皇室に、賀茂建角身命倭大国魂神、という関係がはっきり伝わっていた証でもあります。
 
 
そこで疑問なのは、大国主命大物主神は、なぜ、こうも度々祟るのだろうか?ということです。

「思い込み」というなら、なぜ祟られると皇室が考えるのか?ということになります。
 

 

どちらにせよ「理由」がある、というわけです。
ヒントは、「祟られる」(と考える)、と同時に、「強く崇敬している」、点にあろうかと思います。
 
 
(続く)