空と風

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石尾神社 美馬市穴吹町

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石尾神社
 
鎮座地 徳島県美馬市穴吹町古宮字平谷96
 
御祭神 須佐之男命 大山祇命 水波女命  (徳島県神社誌)
 
 
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創立年代不詳。
美馬市指定文化財
 
 
この神社の特異性については、『穴吹町誌』 に詳しい。長文ではあるが、そのまま以下に引用する。
 
 
石尾神社には、古代祭祀遺跡であろうと思われる巨大な露頭断崖・断崖亀裂あるいは洞穴等の「磐座」(いわくら)、また「磐境」(いわさか)と考えられる緑泥片岩の板状立石が約50mにわたって並んでいる。
 
この板状立石は、大正初期笠井新也の調査によって報告されたものである。
三面は巨岩で囲まれ(東西80m、南北120m、高さ30m)、低地に向かう一面に約50mの緑泥片岩の扁平な板状立石が並んでいる。
大きいものは高さ1.5m、幅1mに及ぶものがある。
 
 
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これら立石は、原始信仰の時代から、祭祀にようやく統一的機運が見えはじめ、他へ変形し移行しようとする過程における神霊奉斎の場(磐境)として設営されたものであろうという。
 
この神社の板状立石は、阿波の他の特異遺跡(国府天石門別神社裏遺跡及び鴨島町敷地神社社殿裏遺跡)等とともに、全国的に見てもその形状と内容は、すこぶる異類であり、当地独自の美意識表現の典型例であり貴重であるといわれる。
古代の磐境が消滅あるいは他へ変形し、移行する過程での古代祭祀遺跡である。
 
なお、これらの遺構が阿波国独自のもので全国的にみて貴重な古代遺構であり、地域の誇りうる高い文化性を具有していると、祭祀遺跡の研究家である倉敷市の八木敏乗は評価する。
また、その高度な文化性の根底には長い間培われた深い信仰の積み重ねの上に咲いた美花ではないだろうかともいう。
いずれにしても今後の研究と学問的確立に待つほかはない。

~「この板状立石は、大正初期笠井新也の調査によって報告」
とあるが、もちろんこの時この神社が発見されたものではなく、板状立石についての公的な調査と発表がなされたというものだろう。
神社自体は、大正5年発行の『阿波名勝案内』(再版)にも記載がある。『阿波名勝案内』の元本は明治41年に刊行されているが、そちらにも記載があるかどうかは未確認。~
 
~上記国府天石門別神社裏遺跡 及び 鴨島町敷地神社社殿裏遺跡 とは、式内社天石門別八倉比賣神社及び、式内社・ 天水沼間比古神天水塞比賣神社の論社とその後方にある古墳のことである。~
 
 
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※ 石尾神社と金鶏伝説
 
石尾神社の西側には大岩山(東西80m・南北120m・高さ30m)が並立し、(中略)この岩が避けて洞穴が二か所ある。
その一つを「金鶏風穴」といい、幅狭く天井高く入り、約20m進むと急に曲がり池がある。
池の奥深くに金鶏の像があるといわれ、土地の人は古くからおそれうやまう所となっている。
 
鶏は『古事記』の天の岩戸神話に登場するほど、その伝来は古い。
時を知らせたり祭祀用の鳥として禁忌家禽であった。
特に金鶏は天上にすむという想像上の鶏で、この鶏がまず暁を告げれば、多くの鶏がこれに応じて鳴くと伝えられる。
また、洞穴の中に居る錦鶏は、世の中に変わったことがあると出て鳴くという伝説がある。
 
 
※ 磐境・神籬(ひもろぎ)・磐座
 
神霊に対する思想が混とんとしていた原始信仰の時から、いわゆる神社という普遍的な形体に至る過程を見る唯一の外的資料が、磐境とか磐座といわれるものである。
 
はるかな雲の上にまします天津神を、高山頂上の森やそそり立つ樹木等に招き奉ったり、地上に居を占め給う地祇を山や川・滝・石に招いて奉斎したりするのが、ごく自然に行われるようになった。
その後、信仰状態の統一や選択が起こり、神霊を特定の場所に鎮座願って、そこを中心にして祭りを行うように変わってきたものと考えられる。
その最初の段階が磐境や磐座である。
 
 
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※ 磐境
 
太古、祭りを行うときには、一定の聖域又は臨時の祭りの庭を神聖な区域として定め、樹木を招代(おぎしろ)に立てて天から神を招いた。
また、特定の岩石(磐座)に神を迎えて祭りを行う場合もあった。
神は祭りの期間は斎場に降臨し、祭りが終了すると元の住処に帰ると考えられていたので、長い間建物はなかったのである。
このため、神聖なる斎場を岩で囲むなどして、斎場と周域とを区別したのが磐境あるいは磯城神籬(しきひもろぎ)といわれるものである。
 
 
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※ 神籬
 
磐境の中に樹木を招代として立て、これを神座として神霊の降下を願った。
この神霊が宿った樹木の周囲を、常磐木(ときわき)をめぐらし玉垣を結って神聖を保ったところを往古、「神籬」といった。
 
後には室内・庭上に樹木を立て上の宿る所として「神籬」と呼び、その木を賢木と称し、栄える木の意味で広く常磐木を指すようになった。
 
現代は下に荒むしろを敷き、八脚案を置き、さらに枠を組んで中央に榊の杖を立て、それに木綿(ゆう・楮の皮をはぎ、その繊維を蒸して糸にしたもの)と幣(ぬさ)とか垂(しで・玉串や榊に付け下げる麻・木綿・紙など)を取り付けたものが使われるようになった。
 
 
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写真は2枚貼り合わせ
 
※ 磐座
 
神の鎮座するところ、すなわち神の御座のことである。
古代は岩石の上面とか、又はそれ自体を神あるいは神格と考えていた。
石には神霊が憑依するのに最も近い霊体であるとみなされていた。
 
「石座」「石占」「石位」の字が当てられていたり、同系の語として「磐門」「石床」が見られるが、これらのことばのみで、形態等についてはそれぞれの字句の前後から判断する外はない。
しかし、いずれも神をまつるために、神霊が宿ると考えられた石のことを指している。
これらの「磐境」「神籬」「磐座」などの語は、「記・紀」をはじめ「風土記」「古語拾遺」「延喜式祝詞の記述の中にしばしば散見する。
 
「磐境」については、『日本書紀神代巻』に
 
高皇産霊尊因て勅して曰く、吾は則ち 天津神籬 (あまつひもろぎ )及 天津磐境 (あまついわさか)を起し樹て、當(まさ)に吾孫(すめみま)の為に斎ひ奉らん矣。
 汝(いまし)天児屋命太玉命、宜しく、天津神籬を持ちて、葦原中国に降りて、亦 吾孫の為に斎ひ奉れ
 
とあり、同文が「古語拾遺」に載せられているごときである。
 
『神社と考古学』 (宮地直一) の中に、
 
磐境の起源が、石に対する崇拝から出ていることはいうまでもない。
古代人が石に対して神聖感を有しており、これに神霊の憑宿(ひょうしゅく・のりうつること)を信じていたことから、神霊の鎮祭に当たって石を以って囲み、そこに永久的に神座を設備したことは当然である。
しかしながら磐境が長く後世まで遺存していなかったらしく思われることは、神籬の方はたとえ変形されてはいるとしても、種々な形式に今日まで遺存しているにもかからわず、磐境の遺風はほとんど認められぬのみならず、古典を見ても「万葉集」などに「ひもろぎ」の語は、多数見えているが、磐境の語は見えない。
けだし、後世神社の発達にともなって、かかる労作的な造営物は自然に衰微して行ったものではあるまいか。
 
と述べられている。
 
~上記の解説文は、いかに、この祭祀形態が古いものであるかを示すものとして参考になる。~
 
このように現存する磐境の類例は乏しく、その数もまた僅少といわれている。
磐境と考えられるものが、遺跡中にあるかといえば、ある点まで認められるものが、いわゆる「神籠石」(こうごいし)といわれるものがある。
 
この神籠石の問題は、列石を、神域を示す標識石と見る神域説と、古代の城郭跡と見る朝鮮式山城説とに分かれて明治30年ごろから論争が繰り広げられた。
しかし、福岡・佐賀・山口・香川の各県に認められている神籠石の遺跡は、方形または長方形の切石を密接して一列に並べ、山腹一地域を囲んだもので、その列石の延長もその面積も広い範囲にわたるものである。
石尾神社の板状列石は、その形状から考えてもまたその規模からいっても、神籠石とはおよそ異質なものと推定される。
 
 
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石尾神社は、
 
①巨大な露頭断崖・露頭岩あるいはまた、特異形質岩(安山岩の柱状節理断面露頭等)とか、巨大・奇異な対象物に古代人が深い関心や反応を示したことはうなずけること。
 
②巨岩と断崖との接地部に岩蔭等があり、そこが神霊位置と考えられること。
 
③断崖亀裂あるいは洞穴等があり、それが神位の対象となったとも考えられること。
 
以上三点が石尾神社の磐座(神座)設定の要因になったのではなかろうか。
 
④板状立石の機能する目的は、三加茂八幡社の社画域する立石と同じ類形と考えられ、他県にその例を見ない阿波独自の造形表現であること。
 
⑤この板状立石が磐境であるかどうかについては、現在では判定しがたいとはいえ、磐境が終末期に近づき、玉垣へと移行するその過程の形式として、この種造形をもってしたとする見解を採りたいと思う。
何れにしても、その形態上において貴重な遺構といえる。
 
 (基本的に原文のままだが、一部略。色文字と文中文字の着色は私)
 
 
 
 
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