当社の通称は、幽宮(かくりのみや)。
古事記に、
「故其伊邪那岐大神者 坐淡海之多賀也」
日本書紀に、
「伊弉諾尊神功既畢而霊運當遷是以構 幽宮 於淡路之洲 寂然長隠者也」
とあるためである。
大同元年(806年)に神封13戸が充てられた。
貞観元年(859年)、神位一品が授けられた。
延喜式神名帳には「淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社」と記載され、名神大社に列している。
平安時代末期より淡路国一宮とされるようになり、一宮大神とも呼ばれるようになった。
明治4年に国幣中社に列格し、明治18年官幣大社に昇格した。
それまで伊弉諾尊のみを祭神としていたが、昭和7年に妃神の伊弉冉尊を合祀した。
昭和29年、それまでの伊弉諾神社から現在の伊弉諾神宮に改称した。 (Wikipedia)
それまで伊弉諾尊のみを祭神としていたが、昭和7年に妃神の伊弉冉尊を合祀した。
昭和29年、それまでの伊弉諾神社から現在の伊弉諾神宮に改称した。 (Wikipedia)
※ 神社発行のパンフレット(有料)に記載の御由緒
~古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾大神が、御子神なる天照大御神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構へて余生を過ごされたと記される。
その御住居跡に御陵(みささぎ)が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、當神宮の起源である。
地元では「いっくさん」と別称され日少宮(ひのわかみや)・淡路島神・多賀明神・津名明神と崇められてゐる。
地元では「いっくさん」と別称され日少宮(ひのわかみや)・淡路島神・多賀明神・津名明神と崇められてゐる。
本殿の位置は、明治時代に後背の御陵地を整地して移築されたもので、それ以前は、禁足の聖地であった。
御陵を中心として神域の周囲に濛ほりが巡らされたと伝へ、正面の神池や背後の湿地はこの周濛の遺構とといふ。
御陵を中心として神域の周囲に濛ほりが巡らされたと伝へ、正面の神池や背後の湿地はこの周濛の遺構とといふ。
建物や工作物は明治九年から同二十一年に造営されたものが殆んどだが、神輿庫及び東西の御門は、旧幕時代の阿波藩主の寄進による。
境内地は約一万五千坪。沖積地にあって天然記念物の大楠など照葉樹林に覆はれ、四季を彩る草木が繁茂する日本最古のお社である。
江戸時代の地誌によれば、二丁四方の社地を領したとあり、広大な神域であった。~
江戸時代の地誌によれば、二丁四方の社地を領したとあり、広大な神域であった。~
当社は「日本最古の御社」を謳っているが、その根拠は明確ではない。
記紀には、淡路島の多賀の地に「幽宮」を構えて余生を過ごした、と記されているのみである。
「その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、當神宮の起源」
とあるが、根拠は不明。
記紀には、淡路島の多賀の地に「幽宮」を構えて余生を過ごした、と記されているのみである。
「その御住居跡に御陵が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、當神宮の起源」
とあるが、根拠は不明。
ちなみに、これほどの大社にしてはめずらしく、HPもない。
神社として祀られたのがいつからかは不明としても、御陵の上に本殿が鎮座することは確かであり、そういう意味で、神話に登場する神々のなかでも国生みに活躍された天神七代の神を祀った御社であるから、最古級であることは間違いない。
しかし、古事記の記述を根拠とし、御陵直ちに神社とするならば、イザナミ命の御陵である比婆山が日本最古ということになる。
神社として祀られたのがいつからかは不明としても、御陵の上に本殿が鎮座することは確かであり、そういう意味で、神話に登場する神々のなかでも国生みに活躍された天神七代の神を祀った御社であるから、最古級であることは間違いない。
しかし、古事記の記述を根拠とし、御陵直ちに神社とするならば、イザナミ命の御陵である比婆山が日本最古ということになる。
どちらでもいいのだが、観光用に?こういうこと(日本最古・某県にも数多ある)を謳うのは、あまり好きではない。
ところで、このようにみると、太古から絶えることなく崇敬され続けてきた古社のように見えるのだが、そうでもないようなのである。
阿波・淡路に限らず全国的に、式内社の所在が不明になっているような事態は珍しいことではない。
延喜式が制定されてから天下泰平の江戸時代まで、約700年の戦乱を含む不安定な時代が続く。
その間に古代や神社の歴史が喪失するのは、ある意味仕方のないことである。
阿波でいえば、歴史のある古社はことごとく、土佐の長宗我部に焼かれている。
延喜式が制定されてから天下泰平の江戸時代まで、約700年の戦乱を含む不安定な時代が続く。
その間に古代や神社の歴史が喪失するのは、ある意味仕方のないことである。
阿波でいえば、歴史のある古社はことごとく、土佐の長宗我部に焼かれている。
「神輿庫及び東西の御門は、旧幕時代の阿波藩主の寄進」とあるが(現社殿は明治時代の建立)、もっとも古い建築物が、この江戸時代の東西御門である
「江戸時代の地誌によれば、二丁四方の社地を領し」ともあるが、江戸時代のいつごろのことかは不明。
「江戸時代の地誌によれば、二丁四方の社地を領し」ともあるが、江戸時代のいつごろのことかは不明。
『道は阿波より始まる』より
~松平元康が天下に名を挙げるや、自らの家系は鴨族の末裔であると称し、その姓を「徳川」と改名。その後、阿波の大名蜂須賀藩に、阿波藩は「徳島藩」と改名せよとの命を出し、それ以降、初めて阿波国に徳島の地名が起こりました。
「 阿波及び淡路 両国に在る 古代天子 葬之場を調査せよ 」
と命じます。
※徳島藩江戸御留守居役に覚書を渡した土屋相模守とは、この翌年1698年(元禄11年)老中首座(4~5名が常置された老中の中の筆頭老中。将軍に次ぐ最高職)を就任する人物。
以後徳島藩では普請奉行が中心となり、阿淡二州の古代天子葬之場調査がつづけられました。
淡州イザナギ命幽宮も勿論その一つ、現在の社殿はそのあとに建立されたものです。~
『道は阿波より始まる』の著者、岩利大閑氏は、徳島藩高取士分の子孫。
江戸時代末期から親子三代に渡って、阿波の歴史を調べてきた家柄で、祖父・父は県内の古墳調査にも携わっている。
このような人物の本がなければ、これらの事実は封印されたままになったのではないか?と、感じられる。
江戸時代末期から親子三代に渡って、阿波の歴史を調べてきた家柄で、祖父・父は県内の古墳調査にも携わっている。
このような人物の本がなければ、これらの事実は封印されたままになったのではないか?と、感じられる。
古事記には「淡海之多賀」と記されており、「淡海」を「近江」と解釈する者から、滋賀の多賀大社がこれであると考えられている。
文献によっては、至極当然のように、「淡海(近江)」と書いてあったり、「故其伊邪那岐大神者 坐淡海之多賀也」は多賀大社のこと、と断定してあったりして驚いてしまう。
文献によっては、至極当然のように、「淡海(近江)」と書いてあったり、「故其伊邪那岐大神者 坐淡海之多賀也」は多賀大社のこと、と断定してあったりして驚いてしまう。
「淡海」が「近江」ではないことは、また別の機会に「不思議の徳島」に書く。
一例をあげれば、『万葉集』に
鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船
奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
イサナトリ、アワミノウミヲ、オキサケテ、コギクルフネ・・・
という歌があるが、琵琶湖にクジラがいたのだろうか?
摂津国 島下郡 伊射奈岐神社二座