空と風

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式内社 和奈佐意富曾神社 海部郡海陽町

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日本一社 延喜式式内社 阿波國那賀郡 和奈佐意富曾(わなさおほそ)神社

鎮座地 徳島県海部郡海陽町大里松原2

御祭神 諸説あり

    誉田別命応神天皇)       『海部郡誌』

    息長足姫命神功皇后)      同上

    日本武尊               『阿波志』 『阿府志』

    息長田別命(日本武尊の子)   『名神序頌』
 
    大碓命日本武尊の兄)      同上

    大麻比古神             『大日本史

    大麻神                『特撰神名牒』
   
    大麻神(天富命)          『神名帳考証』



徳島県神社誌』では、当社近くの「大里八幡神社」を「和奈佐意富曾神社」としているが、その大里八幡の御祭神は、

    誉田別神 
    天照大神 
    天児屋根神


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八幡神社の由緒書には、

鎮座年月日不詳。初め鞆浦(ともうら)大宮(那佐浦とも云う)に鎮座。慶長9年(1604)5月、大里松原に移す。

とある。
『阿波志』(1815)には、

 和奈佐意富曽祠 延喜式小祀と為す 今八幡と称す 

 古鏡及金口各一枚を納む旧鞆奥大宮山に在り 慶長九年之を大里松林中に移す 

 興源公屡々米若干を賜ひ以て重葺の料と為す 鞆、浅川等二十一村共に祀る 

 土人曰く日本武尊を祀る也と 

 景行、成務、仲哀、神功、応神五帝及び息長田別皇子を配食す


とあり、また、『阿府志』(18世紀末)には、

 和奈佐意富曽神社 大里浦ニ在八幡宮ト号ス

 神宝 鏡一面 鰐口一口 別当 神宮寺

 右二種ノ神宝ハ神木ニ乗テ海上鞆ノ浦ニ流着其地大宮ト云上古ノ社地ナラン 

 今大里ト云

 祭神一座 日本武尊

 客神一座 景行帝 成務帝 仲哀帝 神功皇后 応神帝 長田別皇子相殿ニ祭

と記されている。

  
『海部郡誌』は、

 神功皇后三韓征伐の後、又熊襲を平定し南進して途中那佐の水門に入座せられた、

 此時皇子誉田別命の御影を遷し神に祀った。是即ち和奈佐意富曽神社である。

 延喜式神社で社地を大宮と称し地方の崇敬が厚かったが、

 天正年間大里村浜崎の地へ遷座し、更に慶長9年5月大里松原の現地に遷した。

と記し、さらに、

中宮(なかみや)=(現・和奈佐意富曽神社)は旧時の延喜式の神名を伝えるため、明治初期、八幡神社より分祀し、息長足姫命を祭る。

とある。


つまり、もとは那佐(なさ)湾に面した鞆奥の大宮山に鎮座していた「和奈佐意富曽神社」が大里に移されたのち「八幡神社」となったという。
当社は、その大里八幡神社から、延喜式の神名を伝える目的で分祀されたものである。


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大里八幡神社

他には、この地に奉祀される以前、海部川のさらに上流にあったとする説もある。
『阿府志』では、息長田別の子孫が海部に移り住んだのち、戦乱起こり更に鞆の城に移ったとし、奉祀してきた日本武尊八幡神社に合祀したのが大宮山の社だとする。

『海部郡取調廻在録』(1840)には、

「神野村 小名 神屋敷 此処に往古大社有、其昔大洪水に鞆浦まで流行しと伝ふまし上は、式社の有し処ならんか。」
「村名といひ、地名といひよしありけなれと、これそとまふするしるしはべらず。なお鞆浦へ流しとまふすによりては、前にあげし大里の八幡宮にてはあらんか。」

とある。
『阿波名勝案内』(大正5年版)にも

「伝へ云ふ、本社神野村に鎮座ししが、洪水の際社殿を押流し鞆浦に着したれば、浦人大宮に社殿を建立奉祀したるも、其の地狭隘なるを以て大里に移すに至れるなりと、
蔵する所の金口に〈介部郡三筒社殿応永二十二年六月吉日願主〉とあり、今は白魚山高西堂に是を掲ぐ、これぞ神野村意富曽神社にありし鍔口ならむと。」

と記されている。
元は「神野村」に祀られていた「意富曽神社」が洪水により流され、鞆浦に漂着したものを大宮山に祀り、その後大里に移したという。



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拝殿がなく本殿のみが境内に鎮座す

平安時代成立の『和名類聚抄』の阿波南部に、「加伊布郷」がある。
加伊布とは「海部」のことで、平安期に那賀郡から分離独立した。

当地に勢力をもっていたのが「海部氏」である。
出自に関しては藤原姓ともいうが、定説がない。
『富田家文書』という古文書には、祖先は鷲住王であると記されている。
鷲住王については、また別の機会に書く。


大日本史』には「宍喰浦北那佐湊に在り」と書かれ、海部氏の本拠地として古代から開けた鞆浦の町と「那佐湾」を見おろす大宮山は、海人の神を祀るにふさわしい場所である。
折口信夫は「水の女」(『折口信夫全集第二巻』)で、「阿波のわなさおほそ」と水神信仰のかかわりを説いている。


播磨国風土記』の「志深里(しじみのさと)」の由来伝承で、履中天皇

 「朕於阿波国和那散所食之貝哉」

 「朕が阿波国の和那散(わなさ)で食した貝である」 

と仰せられたという。

阿波国風土記~奈佐浦」逸文

 「奈佐というのは、其の浦の波の音は止む時がないので奈佐という」
 「海部あまは波を奈佐という」

この和那散が、和奈佐意富曽神社が鎮座する那佐の地であるのは明白である。


ちなみに、出雲神話に登場する「国譲り」の舞台として有名な浜は、(いなさ)である。
和奈佐意富曽神社は文献によっては、「倭」奈佐意富曽神社と書かれている。
出雲国風土記』に登場する当地に関係すると思われる神は、

 「 阿波枳閇 委奈佐 比古命 」

という。

委(倭)奈佐 は、(いなさ)とも読める。


播磨国風土記』では、大己貴神の別名を、「伊和大神」と記す。

「仙覚抄」によれば、「阿(あ)」と「伊(い)」は、同意語だそうだ。
「伊和」は「あわ」と同じで、大己貴神は「阿波大神」ということか。
大己貴神は当社のある長の国の王である。
伊和は元は倭和で、当地は倭国の奈佐なのではないか。


このあたりから先は、「出雲」「播磨」「丹後」等と、当地・当社の関係が気になるところである。
それはまた「不思議の徳島」に書きたいと思う。


折口信夫水の女」から一部を抜粋しておく。


みぬま・みつはは一語であるが、みつはのめの、みつはも、一つものと見てよい。
「罔象女」という支那風の字面は、この丹比神に一種の妖怪性を見ていたのである。
またこの女性の神名は、男性の神名おかみに対照して用いられている。
「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめは、女性の蛇または、水中のある動物と考えていたことは確からしい。

竜に対するおかみ、罔象に当るみつはのめの呪水の神と考えられた証拠は、神武紀に「水神を厳(イツ)ノ罔象女(ミツハノメ)となす」とあるのでもわかる。

阿波の国美馬郡の「美都波迺売(みつはのめ)神社」は、注意すべき神である。
大和のみつはのめと、みつは・みぬまの一つものなることを示している。
美馬の郡名は、みぬまあるいはみつま・みるめと音価の動揺していたらしい地名である。
地名も神の名から出たに違いない。

「のめ」という接尾語が気になるが、とようかのめ・おほみやのめなど……のめというのは、女性の精霊らしい感じを持った語である。
神と言うよりも、一段低く見ているようである。
みつはのめの社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめを添えたしかつめらしい称えをとったのであろう。
摂津の西境一帯の海岸は、数里にわたって、みぬめの浦(または、みるめ)と称えられていた。
ここには売(ミヌメ)神社があって、みぬめは神の名であった。
前に述べた筑後の水沼君の祀った宗像三女神は、天真名井(あまのまない)のうけひに現れたのである。だから、禊ぎの神という方面もあったと思う。
が、おそらくは、みぬま・宗像は早く習合せられた別神であったらしい。

丹後風土記逸文の「比沼山」のこと。
ひちの郷に近いから、山の名も比治山(ヒヂヤマ)と定められてしもうている。
丹波の道主ノ貴(ムチ)が言うのに、ひぬま(氷沼)の……というふうの修飾を置くからと見ると、ひぬまの地名は、古くあったのである。
このひぬまも、みぬまの一統なのであった。

みぬま・みつは・みつま・みぬめ・みるめ・ひぬま。
これだけの語に通ずるところは、水神に関した地名で、これに対して、にふ(丹生)と、むなかたの三女神が、あったらしいことだ。
 
丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめで、外宮(げくう)の神であった。
すなわちその水および酒の神としての場合の、神名である。
この神初めひぬまのまなゐの水に浴していた。

阿波のみつはのめの社も、那賀(なか)郡のわなさおほその神社の存在を考えに入れてみると、ひぬま真名井式の物語があったろう。
出雲にもわなさおきなの社があり、あはきへ・わなさひこという神もあった。
阿波のわなさ・おほそとの関係が思われる。



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拡大で鳥居マークが二つ見える 北が大里八幡神社 南が和奈佐意富曽神社