鎮座地 徳島県三好郡東みよし町大字昼間字宮内3266
「羽津大明神」と称せられ、当地第一の大社にして俗に「昼間の大宮」とよばれていた。
明治3年古称に復し、天椅立神社と公称、郷社に列する。 『徳島県神社誌』
元は「宮内」と呼ばれている地域全部が境内で、現在の社殿から100m南に鳥居があったという。
十六弁菊花紋 |
「京伝遺跡」と呼ばれる大規模な弥生初期集落遺跡の真っただ中に鎮座する。
県西部の平野部では、かなり古くから開けていた地域だとわかる。
境内にも古墳のような?地面の盛り上がりが見られる。
この地の発掘調査も予算がなく途中で打ち切られている。
県西部の平野部では、かなり古くから開けていた地域だとわかる。
境内にも古墳のような?地面の盛り上がりが見られる。
この地の発掘調査も予算がなく途中で打ち切られている。
右下の森が天椅立神社。
吉野川洪水の際、神社の石垣上部まで水が押し寄せたことがあるという。
地図を見て、その洪水の凄まじさを想像してほしい。
この写真で見えている一帯を轟々と濁流が流れるのだ。
川の本流は写真のずっと左である。
現在は水量が減り、堤防が完成しているのでそのようなことはないだろう。
昔は吉野川のそばに住む人はいなかったと思われる。
山よりの高台か、山上に住まなければ命がいくつあっても足らない。
いや、それでも生活のために水辺にすむ必要がある人がいたから、年に一回(台風の時期?)襲ってくるという「八岐大蛇」伝説が生まれたのか?
吉野川洪水の際、神社の石垣上部まで水が押し寄せたことがあるという。
地図を見て、その洪水の凄まじさを想像してほしい。
この写真で見えている一帯を轟々と濁流が流れるのだ。
川の本流は写真のずっと左である。
現在は水量が減り、堤防が完成しているのでそのようなことはないだろう。
昔は吉野川のそばに住む人はいなかったと思われる。
山よりの高台か、山上に住まなければ命がいくつあっても足らない。
いや、それでも生活のために水辺にすむ必要がある人がいたから、年に一回(台風の時期?)襲ってくるという「八岐大蛇」伝説が生まれたのか?