春日(かすが)神社
御祭神 天児屋根(あめのこやね)命 武甕槌(たけみかづち)命 斎主(いわいぬし)命 比売大神
天照大神の「天の岩戸隠れ」の際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命(ふとだまのみこと)とともに鏡を差し出した。
その布刀玉命(天太玉命)とは、忌部氏の祖神。
天児屋根命は、後の中臣(藤原)氏の祖神で、どちらも祭祀を司どる神である。
その布刀玉命(天太玉命)とは、忌部氏の祖神。
天児屋根命は、後の中臣(藤原)氏の祖神で、どちらも祭祀を司どる神である。
全国1000社ともいわれる春日神社の総本社は、奈良の春日大社(旧春日神社)。
平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したことに始まるという。
平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したことに始まるという。
神産みにおいて、伊邪那岐(イザナギ)命が、伊邪那美(イザナミ)命の死因となった迦具土(カグツチ)神の首を切り落とした際、十束剣(とつかのつるぎ)の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱が武甕槌命である。
その十束剣を、天之尾羽張(あめのおはばり)別名、伊都之尾羽張(いつのおはばり)という。
「イツ」が阿波の古地名であることは既に書いた。
この十束剣は、そのイツ地方で造られた刀であると考えられるが、それは別の機会に書く。
「イツ」が阿波の古地名であることは既に書いた。
この十束剣は、そのイツ地方で造られた刀であると考えられるが、それは別の機会に書く。
日本書紀において、経津主神は、武甕槌命と同じくカグツチを斬ったとき十束剣から滴った血が固まってできた岩群を祖として生まれたとしている。
両神はともに伊都之尾羽張の子で兄弟、または同神ということになる。
両神はともに伊都之尾羽張の子で兄弟、または同神ということになる。
経津主神は香取神宮の御祭神で、利根川を挟んで相対する鹿島神宮の御祭神が建御雷神である。
春日大社は、その鹿島の神を勧請したというのである。
常陸が中臣(藤原)氏の本拠地だったというのが定説なのだが、その地はライバルの忌部氏が開拓した地である。
春日大社は、その鹿島の神を勧請したというのである。
常陸が中臣(藤原)氏の本拠地だったというのが定説なのだが、その地はライバルの忌部氏が開拓した地である。
葦原中国平定の際、思金神(オモイカネ)に指名された伊都之尾羽張神は、我が子武甕槌命の方が適任であるとして葦原中国へ派遣したが、その武甕槌命に追われた大国主命の子「建御名方命」を祀る式内社で諏訪大社の元宮であるとみられる「多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社」が阿波の諏訪の地にあるということ。
隣の阿波市に鎮座する日本唯一の式内社「建布都神社」の御祭神は建御雷神(武甕槌命)であり、この地には武甕槌命の父である伊都之尾羽張(いつのおわばり)神と同じく、「尾開(おわばり)」という地名が残っていること。
などなど、やはり、阿波とは切り離して考えられない神々と神社なのである。
最大の難問題は「忌部」と「中臣」の関係と対立である。
後世に忌部を抑えて政治力を持った中臣氏の歴史改竄をどう見抜くか、という途方もないテーマの解明は専門家に頑張ってもらいたい。
最大の難問題は「忌部」と「中臣」の関係と対立である。
後世に忌部を抑えて政治力を持った中臣氏の歴史改竄をどう見抜くか、という途方もないテーマの解明は専門家に頑張ってもらいたい。
ちなみに、中臣氏のルーツも阿波の中登美であるというのが岩利大閑説だが、いずれ「不思議の徳島」で紹介する。
御祭神は『徳島県神社誌』を参考に記したが、境内には小祠が6社あり、他にも多くの神々が合祀されているようである。